第207話 平和使節
1922年3月12日 極東社会主義共和国 ウラジオストク
社会革命党ウラジオストク支部と極東地域の諸民族とヤクート人(サハ人)の革命家たちが建国した社会主義国家である極東社会主義共和国の玄関口であるウラジオストクに一隻の船が入港しようとしていた。
「何とかついたが我々は無事に帰れるんだろうね?」
「ロシア帝国の攻撃はすでに止んでいます。たしかに彼らは我々を国家として認めていませんが、だからといって攻め滅ぼそうとはしていません。それよりも社長、ご覧ください、皆、社長の到着を待ち焦がれていたのですよ」
「おお…まさかこれほどまでに多くの人々が集まってくれるとは…いや、ありがとうガースチェフ君、私はこの光景を一生忘れる事は無いだろう。私の人生はこの混沌とした世界に平和をもたらすためにあったのだ」
社長と呼ばれた男、フォード-モーターズ社長であるヘンリー-フォードは感動のあまり涙を流した。
その様子をフォードを今回の航海へと導いた人物であるアレクセイ-カピトノヴィッチ-ガースチェフは微笑みながら見ていた。
フォードは自動車産業における成功者として知らぬ者はいない人物だったが、平和主義的な思想の持ち主でもあり、過去、第一次世界大戦勃発時には平和運動を組織しようとしたが、駆け出しのフォード-モーターズへ大規模な投資しており、また自身でも自動車製造会社を経営していたことからフォードへのエンジン供給を請け負っていたダッジ-ブラザーズ-カンパニーの共同経営者の一人だったジョン-フランシス-ダッジは熱心な共和党員であった為、そうしたフォードの平和思想を当時の共和党を2分していた共和党進歩派のセオドア-ルーズベルトが提唱した国際平和組織設立構想と同一視し、モンロー主義に反して旧大陸の戦争にアメリカを巻き込もうとする危険な思想として反対した。何とか弟のホレス-エルジン-ダッジのとりなしでそれまで通り提携は続けられることになったが、フォードとジョンの間にはしこりが残り、後に1919年のミシガン州上院議員選挙にジョンが共和党から出馬を表明した際にはフォードも民主党から出馬し、揃って愛国党から出馬したトルーマン-ハンディ-ニューベリに敗れるという出来事もあった。
しかし、そんなジョンも1920年に結核で無くなっており、当時は弱小自動車会社に過ぎなかったフォード-モーターズもすでに合衆国最大の自動車会社となっており、フォードを邪魔するものは誰もこの世にいなかった。
親交のあったガースチェフから今回の平和使節としての訪問要請があったのはそんな時だった。
ガースチェフはモスクワ北東のスースダリに生まれ、教師であった父の跡を継ぐべくモスクワ師範学校に入学するもそこで革命活動に加わり、ウラジーミル-イリイッチ-レーニン率いるボリシェヴィキに属していた。そんなガースチェフが転機を迎えたのはストルイピン政権下での弾圧だった。ガースチェフはフランス共和国へと亡命し、そこでモース自動車でフォード生産方式導入の旗振り役だったアンドレ-シトロエンの知遇を得たのだった。
ガースチェフはシトロエンから聞いたフォード生産方式とその根幹思想に新たな社会革新の可能性を見出し、それを吸収しようとした。一方のシトロエンもそんなガースチェフを高く評価し、自身のアメリカ歴訪にも連れて行った。そこでガースチェフはフォード式生産方式の発案者であるフォードと出会い、ガースチェフはシトロエンの反対を押し切ってアメリカに残り、フォード-モーターズで働く事にしたのだった。
元社会主義者という経歴でありながら、アメリカ資本主義の象徴ともいえるフォードに取り入ったとも見えるガースチェフはアメリカ社会党などから時折批判されたが、ガースチェフにとってはただの雑音だった。
こうして社会主義と距離を置きながら順調にフォードの下で学んでいたガースチェフだったが、転機は突然訪れた。アメリカに亡命していたウクライナ人社会主義者で、現在はイラン民主連邦共和国で財政顧問をしているアレクサンドル・ミハイロヴィチ・クラスノシチョーコフから、イランにおける産業発展の為ガースチェフを招きたいとの申し入れがあったのだった。
当初はこの申し入れを断ったガースチェフだったが、クラスノシチョーコフの熱心な誘いとフォードの下で学んだ理論を実践したいという欲もあり、最終的には向かう事に決めたのだが、運悪くメキシコ風邪の感染再拡大や第二次モロッコ危機の勃発に伴う緊張の高まり等があって延期を繰り返していた。
一方、ちょうどそのころ第二次モロッコ危機のニュースを聞いたフォードは民間平和使節として緊張の高まるヨーロッパへと赴いて、各国首脳を説得するというかつて成し遂げられなかった構想を再び考え始めていた。当時と違ってそれを実行できるほどの富も名声もあったフォードだったが、肝心のヨーロッパ各国からは相手にされなかった。ヨーロッパ各国からすれば新大陸の成金の道楽にしか見えなかったからだが、そうした態度に腹を立てたフォードは民間平和使節を取りやめてしまった。ガースチェフがイラン行きの為の力添えをしてくれるようにフォードに懇願してきたのはそうした時だった。
ガースチェフはフォードに対しイランはアジア初の共和国であるが工業的には未熟そのものであることを力説し、だからこそ自分が行かねばならないと説いた。これに対してフォードもガースチェフの熱意に感動し、了承した。こうして話は綺麗にまとまったかと思われたが、そんな時にガースチェフの下にまた新たな誘いが来たのだった。
誘ってきたのはミハイル-ヴァシリーエヴィッチ-フルンゼだった。長く革命活動に身を投じていたボリシェヴィキであり、シベリアの流刑地から脱走してチタに潜んでいたが、ザバイカル-コサックの叛乱後はチタから逃げ出し社会革命党に加わっていたのだった。
フルンゼはロシア帝国との休戦は明文化されたものでない以上次なる戦争への備えを怠るべきではないとして工業化を主張しており、ガースチェフに興味を持っていたのだった。
戦争を前提に工業化を進めようとしていたフルンゼに対してガースチェフは忌避感を覚えたが、最終的にはその誘いに乗る事にした。ガースチェフに必要なのは実験場であり、そしてそれは多いに越したことは無いからだった。もちろんこうした思惑はフォードには伏せられていたのは言うまでもない。
そして、フォード達を乗せた『平和巡回船』はこの日ウラジオストクに到着したのだった。その後、清国など各地に寄港しながらイランやリーフ共和国、そしてドイツ自由社会主義共和国などを歴訪する事になる。そして、各地の寄港先でフォードは次々と投資案件をまとめていった。フォードからすればこうした経済活動が平和への第一歩であると考えていたからだった。アメリカを治めるミッチェル政権はフォードの動きに関して南米諸国での反アメリカ的な政権に対するヨーロッパ企業の動きに対する意趣返しもあり特に止める事は無かったが、アメリカの資本家による社会主義国家への投資による工業化(ドイツの場合は内戦後の復興)の手助けはフォードの思惑とは裏腹に、その脅威に直接晒される事になる旧大陸各国との間に溝を作る事に繋がったのだった。




