第204話 シャルロッテ-アマーリエ会議<上>
1921年12月2日 デンマーク王国 デンマーク領西インド諸島 サンクトトマス島 シャルロッテ-アマーリエ クリスチャン城
クリスチャン城はシャルロッテ-アマーリエの中心部にある要塞で街の由来となっているシャルロッテ-アマーリエの夫であったデンマーク王クリスチャン5世にちなんで名づけられた城であり、今回の会議では議場として使われていた。
「…失礼、もう一度言ってくれませんかな」
「ですから、我々としてはドイツ自由社会主義共和国を現状の境界線で承認する用意がある、と申し上げたのですよ」
イギリス首相ホレイショ-キッチナーの言葉にロシア帝国首相兼蔵相ウラジーミル-ニコラエヴィッチ-ココツェフは思わず聞き返した。
見れば、イタリア王国首相のヴィットーリオ-エマヌエーレ-オルランドは満足そうにうなずいているし、ドイツ自由社会主義共和国国家元首カール-リープクネヒトに至っては満面の笑みだった。逆にフランス首相のアリスティード-ブリアンは仕方がない、といった感じだった。
確かに現状の暫定境界線をそのまま適応するのであればイギリスは旧ドイツ植民地の多くを、フランスはカメルーンの一部とアルザス地方を、イタリアは未回収のイタリアを取り戻す事が出来るし、ロシアにしてもウクライナ全域とラトビア、エストニア、それにポーランドのそれぞれ一部を手に入れる事が出来るが、前皇帝ニコライ2世を殺害したのが社会主義の影響を受けたユダヤ人である以上、その社会主義を信奉する国家の存在そのものを認める訳にはいかなかった。加えてココツェフにはもう一つ気になっている事があった。
ヤクーツクやウラジオストクといった極東各地で蜂起した社会革命党についてだった。中央アジアでの蜂起こそ鎮圧したものの、極東では彼等はいまだ健在だった。同様にロシア帝国に対して反乱を起こしていたザバイカル-ハン国を自称する反乱コサックに関しては国内問題として処理できると考えていたが、社会革命党が社会主義ドイツからの支援を受けるのであれば問題だった。
既に社会革命党をはじめとする社会主義勢力との戦いは長期化しており、すでに兵士や国民の間では兼戦感情が広がっていた。ルーシの故地であるウクライナ奪回を成し遂げた際には、一時的に支持は盛り上がったのだが、その後は寧ろ、
『なぜ豊かなウクライナを奪回したのに、シベリアを取り戻すためにいつまでも戦いを続けなければならないのか』
という疑問から士気は下がる一方だった。ココツェフはシベリアに入植した農民たちの事を念頭に同じロシア人の生命と財産が侵されていると繰り返し訴えたが、これに対して極右組織であるロシア人民連合のアレクサンドル-イワノヴィッチ-ドゥブロヴィンから
『土地を追われた者たちにはスラヴ民族の裏切り者ウクライナ人や汚らわしいユダヤ人から没収した土地を与えればよいではないか、いまさら偉大なスラヴの若者の血を流す必要はない』
という反論がなされた。
ドゥブロヴィンはかつて、以前結成した同名の組織であるロシア人民連合指導者の地位を黒百人組との連携を主張したニコライ-エヴゲニーヴィッチ-マルコフに奪われ、追放されてから、黒百人組に対して激しい憎悪を抱いていたが、同時に黒百人組と同じく反ユダヤ、大ロシア主義者であった為、このような主張を行なっていただけだったが、多くの一般のロシア人の意見は同意見だった。
しかし、即位して間もないアレクセイ2世は社会主義者に父を殺された事から強烈な反共主義者となっており、ココツェフは断固として極東の社会革命党殲滅を望むアレクセイ2世と国民との間の板挟みになっていたのだった。
こうした世論の影響を受けた兵士たちの中には転生の儀式と称して捕虜たちを容赦なく処刑したり、高級将校の遺体から髑髏杯を作っている事で将校から兵卒に至るまで憎まれているザバイカル-ハン国との戦いはともかく、社会革命党に対しては銃を向けるのを拒否するものも現れ始めていた。中には上官を殺害しての部隊単位での脱走もあったほどだった。だからこそ、これにドイツからの支援が加わるのであれば極東の奪回は諦めざるを得ない、とココツェフは考えており、最悪は自身が処刑される事すらも覚悟の上だった。
「…リープクネヒト氏にお尋ねしたい。ドイツ革命政府はその勢力圏を一体どこまで広げるおつもりか」
「我々としてはツィンマーヴァルト綱領にのっとり社会主義革命の前提となる工業化がなされている地域においてその革命を支援する用意があるが、多くはその段階にないと考えている」
(多くは、か…わかっていたことだが、極東は諦めざるを得ないか)
(ここでツィンマーヴァルト綱領を改めて主張し、ロシアに譲歩する事で列強諸国からの承認を確固たるものにしなければ…)
ココツェフの質問に対して、リープクネヒトは答えた。
ヨーロッパ、それにアメリカといった植民地保有国の植民地保有を認めるツィンマーヴァルト綱領を持ちだす事により、ロシアとの溝を埋めようと考えており、辺境に過ぎない極東を切り捨てようとしていた。
しかし、ウラジオストクの自由港化をウィッテと共に推進したココツェフは近年の極東の目覚ましい発展ぶりを誰よりも知っていたために、その一部の例外の中に極東地域が入っていると考えた。そのため、ココツェフはリープクネヒトの真意とは違い極東の奪回は諦めざるを得ないと思ったのだった。
こうしてお互いの勘違いに気がつかないまま、社会主義国家の勢力圏は決まってしまった。
「ところで、我がロシアに対して反乱を起こしたコサックたちが東洋の国家の支援を受けているとの噂があるのだが…」
「ほう、東洋のですか、全く油断も隙も無い」
話題をザバイカル-コサックの反乱に変えたココツェフの言葉の東洋という部分にアメリカ大統領のジョン-パーロイ-ミッチェルが反応した。
「何かの間違いでしょう。我が大日本帝国はそもそもコサックに援助できるような立地ではありません」
「我が大清帝国にしてもコサックどもによって無辜の民が略奪を受けているのです。これを討伐する事があっても援助をする事などあるはずがない」
大日本帝国内閣総理大臣原敬と大清帝国内閣総理大臣梁啓超がそろってその疑惑を否定したが原の言葉と異なり梁啓超の言葉はどこか白々しかった。
「つまり、清国は叛乱コサックを敵とみなしてしている、と」
「ええ、不法に占拠された土地は例外なく奪還されるべきでしょう。国境線とは国と国を分ける為にあるのですから、どうしてその境界を無遠慮に侵す事が出来るでしょうか…だからこそ、きっちりとした境界の遵守が必要なのではありませんかな」
「はて、それはどういう、我が国と貴国の境界はすでに…」
「タンヌ-ウリャンハイ」
「それは…しかし…」
目標を梁啓超に絞って話を進めようとしたココツェフに対し、梁啓超はタンヌ-ウリャンハイという地名を告げた。他国の首脳からすれば何のことか分からない会話だったが、梁啓超はココツェフにさえ理解してもらえればそれでよかった。
タンヌ-ウリャンハイとはトゥバ人の居住地域でありジュンガルの滅亡以来清国領であったが、19世紀のロシア人進出によりその勢力圏となっていた。しかし、割譲された沿海州などと違うのはそこが地図の上では未だに清国領のままであるという点だった。
「もちろん、国境と経済的活動はまた別の話です。正当な手続き無くして、長年の活動によって得られた経済的利益を突然に剥奪するなどという事は文明国である我が国において有り得ないことです」
「…なるほど、その言葉、皇帝陛下にお伝えいたしましょう」
ココツェフの口からタンヌ-ウリャンハイの返還を前向きに考える言葉が出た事に梁啓超は安堵した。梁啓超としてはとりあえず返還に繋がりそうな言葉さえ引き出す事が出来れば、国内向けとしては十分だった。
しかし、話し合いはこれで終わりではなかった。旧ドイツ植民地の処遇については未だイギリスとフランスの間で溝があったし、スペイン及びポルトガルの植民地についてもそうだった。いや、そもそもスペインとポルトガルに至っては本国政府としてどの政府を承認するのかという所から始めなければならなかった。会議はまだ始まったばかりだった。




