第199話 第2の革命
1921年6月25日 ルクセンブルク大公国 ルクセンブルク アルム広場
「ここに我らは真の同胞たるドイツ人と共に社会主義国家として歩む事を宣言するものである。市民諸君、国民諸君、悪しき大公はこの国より永遠に去る事になるだろう。社会主義ルクセンブルク万歳」
ルクセンブルク大公国の首都であるルクセンブルクではルクセンブルク公安委員会議長エミール-セルヴェの演説が行なわれていた。
ルクセンブルク大公国の歴史は複雑だった。
元々はベルギーと共にハプスブルグ家の所領である南ネーデルラントを構成していたが、ウィーン会議後にオランダ王国領となった。1830年に勃発したベルギー独立革命においてもルクセンブルクの人々は多くが独立派であったが、中心都市であるルクセンブルク市において起こった独立派の暴動を駐屯していたプロイセン王国軍が鎮圧してしまった為、完全な独立はならず、結局ベルギーを後押しするフランスとそのフランスの復活を阻止したい各国の思惑が入り乱れた結果、1831年に国土を独立したベルギー王国とオランダで分割する事決定され、ベルギー、オランダ両国が共に受け入れた為にオランダ領に残された部分だけがオランダとの同君連合であるルクセンブルク大公国となった。一方ベルギー国内では、ルクセンブルクの併合を求めるものも多かったが、結局はオランダとの同君連合を認めざるを得なかった。
その後、1890年にオランダ王ウィレム3世が崩御した際、ルクセンブルク大公国は独立したのだが、試練がやってきたのはすぐの事だった。
1906年に勃発した第一次世界大戦においてルクセンブルクはドイツ帝国の侵攻を受けて占領され、その支配下に置かれた。それに対し連合国、特にベルギーは戦後構想においてルクセンブルクの併合を掲げ、ルクセンブルク国内では半連合国感情が高まった。その後1908年のロンドン会議においては結局、ルクセンブルクは戦前の通りに復帰したのだが、それでもベルギーではルクセンブルクの併合論はおさまる気配は無かった。
これにはベルギー国内の事情が関係しており、ベルギーが国土の多くが戦場となっていたのに対し、平和的に占領を受け入れたルクセンブルクは無傷であった事に対する妬みもあったが一番大きかったのはベルギー国王アルベール1世が自身の実績として強く望んだからだった。
大戦前はコンゴにおける残忍な統治によるベルギーに対する国際的批判を招いたことや王妃の死後に愛人との間に私生児を設けるなどの醜聞が絶えなかった先代のベルギー王レオポルド2世が大戦の勃発に際しては、70代の老齢にもかかわらず祖国のために戦う兵士たちを鼓舞し、希望を失いかけていた国民を激励し続けたことにより、国民からの信頼を回復させる事に成功したのに対し、王太子の早期の死により王位継承者となったアルベール1世は半ば偶然を継承する事になったに過ぎなかったために実績に乏しかった。
そしてその思いは大戦終結目前に亡くなったレオポルド2世の棺がブリュッセルのノートルダム-ド-ラーケン教会に安置される際に、レオポルド2世に対し花を捧げようとする市民で溢れかえる光景を見てさらに強くなった。
実際の所はアルベール1世に対してもベルギー国民は変わらず敬意を持って接していたのだが、アルベール1世にはそうは思えなかった。
こうしてベルギーとルクセンブルクとの関係は微妙な関係が続いていたのだが、第2次モロッコ危機からドイツとフランスの緊張が高まると、ルクセンブルク国内で親独派、親仏派、中立派で三つ巴の争いが始まってしまった。
三つ巴の争いは暫く続いていたが、フランス軍のアルザス侵攻が始まるとフランスはルクセンブルクをドイツによって占領される前に保証占領する構えを見せた。
これに対し、ルクセンブルク大公マリー-アデライトはドイツによる介入をあてにしはじめ、こうした独仏間での綱引きを見たベルギーが強く反発し、ルクセンブルクをめぐるさらに情勢は混沌としていった。
だが、ドイツ革命の成功は親独派にとって後ろ盾がいなくなる衝撃的な出来事であり、その後のフランスでの革命を目指した過激派であるフランス国社会党の蜂起と失敗によってフランスもルクセンブルクどころでは無くなり、ルクセンブルクでは隣国ドイツでの社会主義革命の影響で、社会主義勢力がその勢いを増していった。
これに対し革命の波及を恐れるルクセンブルク政府は自国軍だけでなく、ドイツ革命において帝国側として戦ったものたちを再組織して、社会主義勢力との戦いを開始しベルギーもそれまでの対立を棚上げしてルクセンブルクを援助した。これに対し社会主義勢力の側も旧フランス国社会党の敗残兵たちを集めて戦いをはじめた。ルクセンブルクという小国においてドイツ人とフランス人が代理戦争を行なうという皮肉な状況が出現したのだった。
そして、予想を裏切り、短くも激しい戦いを制したのは社会主義勢力であった。結局、国民の多くはベルギー人のいない方を支持したという事だろう。こうしてルクセンブルクの社会主義者たちはフランス革命期のジャコバン派の組織を模した公安委員会を創設し革命の成功を宣言したのだった。その後、ルクセンブルクの鉄鋼業は社会主義ドイツの発展に大きく付与する事になる。
一方、ルクセンブルク大公家に関しては同じオラニエ=ナッサウ家の治めるオランダ王国への亡命が認められた。
これはドイツ帝国とオーストリア=ハンガリー帝国での革命においての両皇帝の戦死やギリシア王国での革命に伴う王族の処刑といった悲劇をルクセンブルクにおいては回避すべく自他ともに認める社会主義勢力の指導的立場にあるドイツ自由社会主義共和国と関係国であるオランダ王国、ベルギー王国との間で協議が行なわれた結果であり、これが革命後のドイツとの外国政府の初の公式協議となった。
ドイツとしてこの協議をきっかけに自国の存在をヨーロッパ各国に正式に認めさせたいという思惑があり、その後、オランダ、ベルギーとの間に正式な国交が樹立されたことを皮切りに世界中で、主に左派勢力を中心にドイツの承認を求める声が高まる事になる。




