第195話 保護領の誕生と衝撃戦
1921年5月17日 ヒヴァ-ハン国 クフナ-ウルゲンチ
旧ウルゲンチはかつて、モンゴル帝国の遠征によって攻め滅ぼされたホラズム朝の首都であり、モンゴル軍による虐殺の後に、ほとんど忘れられた都市となっていた。
「見よ、このおぞましき破壊の跡を、これぞイスラームの堕落の元凶たるモンゴルの征西が如何に残虐極まりないものであったかを示している。我々はこのおぞましき殺戮を決して忘れる事無く、失われた真のイスラームを取り戻さなければならない」
そんな、クフナ-ウルゲンチにおいて演説をしていたのはブルガール民族主義を掲げる神秘主義教団ヴァイソフ神軍の司令官イナーン-ヴァイソフだった。
もともとはカザン県を中心に活動していたヴァイソフ神軍が何故ヒヴァ-ハン国にいるかといえば、ロシア帝国内外の情勢の変化があった。
ヴァイソフ神軍はかつてのヴォルガ-ブルガール王国の王族は預言者ムハンマドの子孫であったとし、モンゴル帝国によって滅亡させられた際に真のイスラーム信仰が失われてしまったと説き、ヴォルガ-ブルガール人の子孫であるヴォルガ-タタール人は堕落した他のタタール人とは違う、真の信仰を取り戻さなければならない、というイスラーム神秘教団の下でもかなり変わった教義を持つ教団であり、その特異性に目を付けた当時のストルイピン政権からタタール人の分断統治の為にその活動を容認されていた。そうしてカザン県では順調に勢力拡大を続けていたのだが、ニコライ2世とストルイピンの暗殺とその後の社会革命党の蜂起から始まる内戦、特に中央アジアでの社会革命党の新たな蜂起とドイツ帝国の滅亡とそれに伴うウクライナ及びポーランドへの介入によって変化が訪れた。
中央アジアでの蜂起を鎮圧すべく軍を派遣したロシア帝国だったが、同時期にドイツ帝国の滅亡とポーランドで活動していたロマン-ドモフスキ率いるポーランド国民連盟からの介入要請に応じた事に加え、従来自治権が保障されていたフィンランド大公国において社会主義者が多数活動していた為、これ以上の社会主義者の反乱を抑え込むべく、秘密裏にフィンランド方面への軍の展開を急がせており、流石のロシア帝国であっても兵力不足は深刻化しつつあった。
一方で国家の将来を考えた場合、第一次大戦で失った土地、特に穀倉地帯であるウクライナ西部は何としても奪還すべき土地であり、また社会主義ドイツの伸張を防ぐという視点から考えても可能な限り領土は広げたかった。しかし、兵力不足はどうする事も出来ず中央アジア蜂起論まで噴出する有様だったが、ロシア帝国という国家全体を考えた場合、すでに極東において社会主義者たちが事実上の国家を築いている以上、一時的なものであっても社会主義者を勢いづかせるような行動はとれなかった。
そこで、ロシア政府が目を付けたのがヴァイソフ神軍だった。政府はヴァイソフ神軍を正式に、ブルガール人の子孫として承認した上で中央アジアにおいて無神論者である社会主義者との戦いを行なうように呼びかけたのだった。何とも都合の良すぎる申し出ではあったが実際にタシュケントの霊廟やモスクが略奪を受けたのは事実であった為、ヴァイソフ神軍の士気は上がった。こうしてヴァイソフ神軍はまずブハラ首長国とは違い反乱の抑制に失敗したヒヴァ-ハン国へと送られたのだった。
最終的にヴァイソフ神軍は社会革命党中央アジア支部の反乱鎮圧後、カスピ海横断鉄道より南の地域をザカスピ-ブルガール保護領として治める事になった。
このザカスピ-ブルガール保護領の誕生はロシア帝国の国内外に影響を与える事になり、とくに従来親英的だったインド-ムスリム連盟がインド国民会議との連携を打ち出して以降、対オスマン戦争前後より蔓延っていたイスラームに対する偏見も相まって、英領インド帝国政府はしばらくムスリムをロシアの尖兵として警戒することになる。そして、同様にザカスピ-ブルガール保護領の誕生によってイラン革命において打倒した保守勢力の復権を招くのではないかと警戒するイラン民主連邦共和国とも連携する事になる。
1921年5月23日 フィンランド大公国 ヴィボルグ
ヴィボルグはフィンランド大公国第2の都市であり、ロシア帝国の度重なる混乱にもかかわらず街は平穏そのものだった。
そのヴィボルグに突如としてロシア帝国空軍の誇るイリヤ-ムローメッツ爆撃機が飛来し、ヴィボルグの防衛拠点であるアンネンクローネ要塞とフィンランドの誇る近代建築家であるエリエル-サーリネンが設計したヴィボルグ駅に爆弾を投下した。続いてロシア帝国陸軍の戦車であるヴェズジェホート2と歩兵が満載されたアメリカ合衆国のガーフォード-モーター-トラック-カンパニー製のトラックがヴィボルグ市内に向かって進撃した。
ヴィボルグ市民はもちろんとして駐留するフィンランド大公国軍すら何が起こっていたか分かっていなかった為、あっさりとヴィボルグはロシア軍の占領下におかれた。フィンランド攻略戦のはじまりだった。
「まあ、上々だな」
制圧されたヴィボルグの街を歩きながらロシア軍部隊の指揮官であるラーヴル-ゲオルギエヴィチ-コルニーロフ大佐は満足そうにうなずいた。
フィンランド大公国の制圧にあたり問題視されたのが、いかに迅速に制圧するかという問題だった。今のロシアに予備兵力が少ない以上フィンランド人の抵抗活動が長引く事だけは避けたかった。
そのため、投入されたのがコルニーロフが指揮する衝撃隊という部隊だった。これは今は亡きドイツ帝国の第一装甲突撃大隊と同様に戦車と自動車化された歩兵で構成された部隊だったが、第一装甲突撃大隊と違うのは航空部隊をもその指揮下に組み込んだ空陸一体の部隊という所だった。従来の砲兵を航空機で置き換える事によって、長々とした準備砲撃の時間を大幅に短縮する事が出来た。
勿論、当時の航空機には無線などというものは存在しないため事前に指定された目標を大まかに爆撃するだけだったが、コルニーロフは奇襲効果の大きさから積極的に活用していた。勿論、次のヘルシンキ攻略では十分な奇襲効果は発揮できないと考えていたコルニーロフは通常の爆弾の代わりに化学兵器を投下する事を提案し承認された。その為ヘルシンキにいたエヴノ-フィシェレヴィッチ-アゼフなどの社会革命党指導部の多くは抵抗すら出来ずに化学兵器の前に倒れていった。
こうして、航空機を利用した化学兵器また通常の爆弾による攻撃によって敵の中枢を攻撃して敵軍の混乱を誘発し、そこに機械化された部隊の投入することによって、敵の抵抗を許さぬまま制圧するというこのフィンランド攻略戦のロシア軍の戦法は衝撃隊の名から、国外では衝撃戦と呼ばれるようになり、各国で研究または模倣されるようになる。コルニーロフはその立役者として世界的に知られるようになるのだが、それはまた別の話だった。




