第193話 帝国の終焉
1921年3月23日 ドイツ帝国 プロイセン王国 ケーニヒスベルク ケーニヒスベルク城
「…父上、ホーエンツォレルン2の用意が整いました。取りあえずはスウェーデンへ、それからイギリスに」
「アーダルベルト、イギリスへはお前ひとりで行け、私はあの国が好きではない」
「皇帝陛下、いえ兄上も父上が生きてイギリスに行く事を望んでいます。どうかここは…」
「…いや、やはり私はここを離れる訳にはいかん。ヴィルヘルムは不甲斐ない私の代わりに祖国を導こうとしたために今その命を散らそうとしているのだ。息子を身代わりにする父親など笑い話の種にしかならないだろう」
「しかし、その息子が父上に刃を向けた反逆者であるならば話はまた別でしょう。父上、父上がもし今も祖国を思っているというならば立ち上がってください。そして、ご覧ください、この窓の外を」
皇室専用ヨット、ホーエンツォレルン2への乗船を進めてきたドイツ帝国前皇帝ヴィルヘルム2世の3男であるアーダルベルト-フォン-プロイセンは乗船を拒む父親に対して城の窓から外を見るように言った。
ケーニヒスベルクにはポーランド王国やプロイセンをはじめとするドイツ各地から集まってきた避難民の群れが殺到していた。こうした光景はここだけではなくバルト海各地の港町で見られるようになっていた。
蜂起した社会主義者たちは基本的には社会民主主義者であった為に、革命後もブルジョワや貴族階級出身者であっても政治参加の権利を含む自由権を認められてはいたが、同時にその財産についてはしかるべき再分配を実施するとしていたために、亡命できるうちに亡命しようとする人間は後を絶たず、そしてその数は社会主義者がベルリンに迫るにつれてさらに増えていた。
そうした避難民の列はクーデターとその後のヴィルヘルム3世の戴冠以後に療養の名目の下で前皇帝ヴィルヘルム2世が事実上軟禁されていたケーニヒスベルク城からも良く見えた。
社会主義者のベルリン突入が間近に迫ると現皇帝ヴィルヘルム3世は父親だけでも外国に逃がそうと考え、皇室専用ヨット共にアーダルベルトをケーニヒスベルク城に派遣した。これは説得の意味もあったが、アーダルベルトがドイツ海軍軍人として操船経験もあった事から、度重なる叛乱や出撃拒否により、軍に対して不信感を持ち始めていたヴィルヘルム3世が通常の海軍軍人を信用していないかったための措置でもあった。
「父上、どうか…皇帝の存在こそがドイツを正しく導くのです。そしてそれはたとえ国土を失えど変わる事はありません。どうか、共に…」
「いや、やはり私はいかぬ。…マンシュタインはいるか」
「は、ここに」
「まずは、今までご苦労だった。そして、これが、最後の命令になるかもしれんが…アーダルベルトに付き従い、いつの日かドイツへと帰還せよ。赤旗を振る愚民どものいない、美しき祖国へと…必ず帰って来るのだ。…頼んだぞ、我が息子とドイツの未来を」
「…はい、陛下」
ヴィルヘルム2世がケーニヒスベルク城において最も信頼する副官であるフリッツ-エーリヒ-フォン-レヴィンスキー-ゲナント-フォン-マンシュタイン大尉は少しの間を置いてから力強く返事をした。
「そして、アーダルベルト。お前もヴィルヘルムも私のことを思ってくれたのは父として本当にうれしい。だが、私に必要なのは愛情ではない、断罪なのだ。お前たちの苦しみは私が皇帝としての職務を全うしなかったゆえのものだ。ドイツが、我が祖国が蹂躙されていくのは、全ては私のせいだ。…ああ、私がハインリヒの代わりに死んでいればよかったのだ…」
ヴィルヘルム2世は今までため込んでいたそのすべて吐き出すように話した。
第2次ヘルゴラント海戦において大海艦隊司令であった実弟ハインリヒ-フォン-プロイセンを戦艦薩摩が最後に放った砲弾によって失って以降、ヴィルヘルム2世は政務に関しては無関心な状態が続いた。それがために当時皇太子であったヴィルヘルム3世にクーデターを起こされて玉座から追われたが、その事に対してヴィルヘルム2世が何も感じていない訳ではなかった。
むしろ、ドイツ帝国の近況を聞くたびにヴィルヘルム2世の罪の意識というものは増え続けていった。そしてそれは社会主義者の蜂起以降ますます強くなっていった。社会主義者がベルリンに突入間近と聞いたヴィルヘルム2世にとって亡命などはじめから論外な選択肢でしかなかったのだった。
こうして、この日、アーダルベルトはマンシュタインと共にスウェーデンを通りイギリスへと亡命するために出発した。
そして、それを見届けたのちにヴィルヘルム2世は自らの人生に終止符を打つことになる。
皇帝ヴィルヘルム3世がベルリンでの市街戦で戦死し、ドイツ自由社会主義共和国が勝利宣言を発したのは、その1週間後の事だった。
だが、それでドイツ革命に伴う騒乱がそれで終わったわけではなかった。
ポーランド東部で蜂起していたロマン-ドモフスキ率いるポーランド国民連盟はロシア帝国に対し援助を求め、極東や中央アジアでの苦戦が続いていたロシア帝国政府は失地奪回を掲げてこれを快諾した。明らかに失墜しつつあったロシア帝国の権威を取り戻すために動きだったが、結果として極東や中央アジアでは社会革命党による蜂起が継続する事となった。反面ポーランドとロシアに挟まれたウクライナやバルト海地域ではその支配下から逃れようと社会主義ドイツやバルカン諸国へと流れていくものが増える事になった。
一方、フランス共和国はドイツ帝国の事実上の滅亡に伴いライン川地域の接収を目論んだが、亡命を望む避難民たちのフランス軍支配地域への移動とそれに伴うメキシコ風邪やその他伝染病の感染爆発と隣国ドイツでの社会主義革命の成功に勢いづいたジュール-ゲード率いるフランス国社会党の武装蜂起による混乱により撤退を余儀なくされ、植民地についても多くがフランスの侵攻に先んじてイギリスによる保証占領を願い出ていた為、わずかにフランス領コンゴと接していたムバム川以東、サナガ川以南のカメルーンを領有したに過ぎなかった。
対照的なのがイタリア王国でありチロル地域、イストリア半島、ダルマチアなどをその支配下に置いていた。
こうしたドイツ革命の混乱と、それに伴う人の流れはやがて世界史を大きく動かす事になる。




