表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
192/330

第192話 先輩後輩

1921年2月1日 ポーランド王国 ワルシャワ

ワルシャワは度重なる戦闘で廃墟となり果てており、行進してくる兵士たちを出迎える人々の顔は不安に満ちていた。行進しているのは社会主義勢力に属するポーランド革命軍の兵士たちであり、それを見守る二人の男がいた。


「まったく…実に、実に壮観だな。ドモフスキは今頃悔しがっているだろう。…何か言いたそうだな同志?」

「いや、ただ、私が言うのもなんだが、少し信じられなかっただけだ」

「ほう、君は同志を疑うのかね?」

「そういう意味ではない。だが、あれほど強い民族主義者だった貴方が熱心な社会主義になるなど、少し前ならば貴方自身でさえも信じることはなかっただろう。貴方にとっては社会主義とは民族独立の為に利用するものではあっても、殉じるほどの価値があるものではないと思っていたが」

「なるほどな、だがなフェリクス、我々を投獄したルーデンドルフでさえも今や我々が同志と呼ぶべき存在なのだ。人は変わるのだよ。無理に信じろとは言わないがね」

「いいや、信じるとも、貴方が信じろというならば私は貴方を信じよう」

「ありがとう同志…いや、フェリクス」


ポーランド革命軍司令官ユゼフ-ピウスツキは同志であるポーランド社会主義革命委員会議長フェリクス-ジェルジンスキーに対して感謝の言葉を口にした。


1867年に没落した貴族の家に生まれたピウスツキは強い民族主義的思想の持ち主であり、1887年には当時のロシア皇帝アレクサンドル3世の暗殺計画に兄ブロニスワウが関与していた事からピウスツキ自身も関与が疑われた結果、シベリアへと流刑にされる事になった。しかし、ここで同じく流刑にされていた社会主義者たちと交流を持ったピウスツキは1892年にポーランドに戻ると社会主義政党であるポーランド社会党の結党に参加した。


しかし、相変わらず強い民族主義意識を持っていたピウスツキは、やがて、社会主義の為ならばポーランド独立を棄てる事さえもいとわない国際主義者が主流だった社会主義者の中で徐々に孤立する事になっていった。


1906年に第一次世界大戦が勃発するとピウスツキは社会党を離党し、ポーランドを分割していた3国の1つであるオーストリア=ハンガリー帝国に接近し、1908年には武装闘争連合という初のポーランド人による公的な軍事組織を設立するまでに至った。これに対して親ロシア的な運動家であったロマン-ドモフスキは即座にこれを批判し、また、ポーランドの社会主義政党では最大勢力であるポーランド-リトアニア王国社会民主党のレオ-ヨギヘスもピウスツキを批判した。

だが、ピウスツキはそのような批判に対して特に気もしていなかった。手段はどうあれポーランド解放という目的が達成できるのであれば別に構わなかったからだ。しかし、1909年のロンドン講和条約によってポーランドを含めた東欧の事実上のドイツの勢力圏化が列強諸国によって認められるとピウスツキの計画は崩れ始めた。


戦後にハプスブルク家のカール-シュテファン-フォン-エスタ―ライヒを王とするポーランド王国が成立したが、既にオーストリア=ハンガリー帝国には後ろ盾となるほどの余力は残っておらず、ドイツ帝国が実質的な支配者なのは明らかだった。


経済的にも政治的にもドイツ帝国の従属化に置かれたポーランド人はポーランド王国を自分たちの祖国ではなく、ただの傀儡政権と見なして失望を強める一方だった。


1915年から始まったドモフスキ率いるポーランド国民連盟が中心となった武装蜂起に際しては、多くのポーランド人がテロやストライキなどを行なって、これを支援した事はその失望がどれだけ強いものであったかを表していた。


この間、ピウスツキは武装闘争連合が母体となったポーランド王国軍の司令官として当初はドモフスキとの戦いに身を投じていたものの、相次ぐ叛乱に恐れをなしたポーランド王国政府がドイツ帝国に正式に介入を要請した事に対して反対の姿勢を示すと、逆にポーランド王国軍は解散を命じられ、司令官の地位もはく奪され、収監されてしまった。


そこで、ピウスツキは意外な人物と再会を果たす事になった。それがジェルジンスキーだった。


1877年にロシア帝国領のミンスクに生まれたジェルジンスキーはヴィリナのギムナジウムに入学し、そこで上級生であったピウスツキとは親しい間柄だった。


そんなジェルジンスキーは青年期になると社会主義に傾倒するようになり、1899年のポーランド-リトアニア王国社会民主党の結党に際してはリトアニア側の意見をまとめるなど若輩ながらも指導者として尊敬を集めるようになっていた。


第一次世界大戦中には積極的に戦争に関わったピウスツキとは対照的に、反戦活動を積極的に行ない、逮捕と脱獄を繰り返した。戦後も労働運動においてはその影響力は健在であり、1915年から始まった武装蜂起とその後のドイツ軍の介入にはどちらも反対の立場を貫いていたが、ジェルジンスキーを野放しにする事によってポーランド人労働者の本格的な武装蜂起を恐れたドイツ軍によって拘束されていた。


そこで、ジェルジンスキーはかつての先輩であったピウスツキと出会い、改めて交流を重ねた。


ジェルジンスキーはポーランド王国を不完全な国家として批判し、社会主義ポーランドの実現こそがポーランド人の真の平等を実現すると説いたが、それに対して未だ独立にこだわるピウスツキは反論し2人の溝は埋まらなかった。しかし、それでも2人は出獄後も連絡を取り続けるようになり、ピウスツキはジェルジンスキーの仲介でかつての古巣であるポーランド社会党を吸収していたポーランド-リトアニア王国社会民主党に入党する事が出来た。


ポーランドの独立を否定するツィンマーヴァルト綱領にはピウスツキとしては思う所もあったが、それでもドイツでスパルタクス団などの武装蜂起が始まると、真っ先にポーランドでも同様の行動を開始する事を主張した。社会主義革命におけるポーランドの動きがその後の運命を決めると信じてのものだった。


結果として、蜂起したポーランド革命軍は士気が下がりきったドイツ軍に対して有利に戦いを続け、ドイツ軍との長い戦いを続けて消耗していたポーランド国民連盟に先んじてワルシャワを解放する事が出来たのだった。


それでも、ピウスツキは警戒を緩めようとはしなかった。ピウスツキはもはや戦力とはいえないドイツ軍よりもポーランド国民連盟こそが最大の敵であると認識していたからだった。


ポーランド人同士によって行われる第2の戦いの勃発はすぐそこにまで迫っていたが、それよりも確かなのはドイツ帝国がそれよりも早く崩壊するということだった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ