第176話 再拡大
1919年11月2日 アメリカ合衆国 ワシントンD.C バトラービル 財務省公衆衛生局
「クソ、一体どうしろというんだ…」
「局長、一度お休みなられた方が」
「休んでいる時間など無い。それは実地調査をした君が一番よく知ってるんじゃないのかね?ゴールドバーグ君」
「はい、ですが…失礼を承知で言わせてもらいますが、今の局長は冷静さを欠いています。合衆国市民の命を左右する我々が最も冷静さを欠くというの問題があるはずです」
「ああ、そうか、そうだな…よし、水を一杯もらおうか」
暫くして運ばれてきた水を飲みほした公衆衛生局局長、ルパート-ブルーは部下であるジョセフ-ゴールドバーガーに礼を言うと話を再開した。
「とにかくだ。例のメキシコ風邪は北部およぶ深南部にて再拡大の兆候が見られている。しかも、アラバマ州バーミンガムでの君の調査によれば、それは従来型の物ではなく、明らかに変異したものだという、つまり、従来の感染対策をもってしてもなお、感染の再拡大を防ぐには不十分という事だ」
「そのとおりです局長。ですから、局長はレポートをまとめた上で…」
「…だめだったよ…」
「はい?」
「だから、駄目だと言われたんだ。現在北部及び深南部では反マスク連盟の活動が活発化しており、それを連邦法を持って抑え込むのは不可能であり、現実的ではない。感染拡大が続けば遠からず各州知事によって非常事態と隔離の宣言が出るはずであり、公衆衛生局はそれを待つように、とな」
「待ってください。それでは北部及び深南部の市民は見殺しですか、確かに反マスク連盟が愚かな活動をしているのはわかりますが、だからといって防げるかもしれない感染拡大を前に黙ってみていろというのは…」
「私もそう言ったがね、治療薬すらない現状では我々がいくら情報発信をしようにもそれはいたずらに混乱を拡大させるだけだと言われたよ」
「まさか、財務長官は愛国党の支持基盤で無いからといって見殺しに…」
「…さすがにそこまでは考えてないだろうが、選挙対策なのは確かだな。そもそも反マスク連盟自体が我々の推進してきた感染対策を強権的と非難するための組織だからな。ならば、介入を控えて音を上げるまで待つつもりだろう」
ブルーのいったことは正解だった。
メキシコ風邪流行開始時の財務長官ジョージ-ブルース-コーテルユーの退任後に新たに財務長官に就任したジェームズ-ルドルフ-ガーフィールドは公衆衛生局からのレポートを元にした感染対策が、主に反マスク連盟による活動の結果として、抑圧的なものとして一般市民から大きな反発を受けている事を問題視しており、公衆衛生局の介入を一時的に抑えた上で自然終息を待ち、終息しなかった場合には州知事からの要請を待って介入するという方針を打ち出した。
仮にも政府の人間が考えたとは思えない場当たり的な政策だったが、これにはもう一つの事情があった。
それは、現在感染対策が緩んでいる州は基本的には愛国党ではない、共和党或いは民主党の勢力が強い州であり、こうした州は自らの事を"自由州"とよんで感染対策を行なわないばかりかそれと全く反対の事をするような始末だったが、こうした"自由州"でもしも感染が拡大した場合には改めて愛国党の政策の正しさが証明される、とガーフィールドは主張した。
もっとも、これはガーフィールド本人が考えたものではなく共和党から愛国党に鞍替えした上院議員で、ガーフィールドと同じオハイオ州選出だったことからガーフィールドの腹心的立場だったウォレン-ガメイリアル-ハーディングが考え出したものだったのだか、ともかくこうした主張は感染対策に全力を注いできた公衆衛生局の職員たちには大きな衝撃だった。
「そんな…たしかに現在ではメキシコ風邪単体への治療薬はありませんが、アスピリンやキニーネなどを混合させて使えば、いくらか抑え込みができるとの報告も…」
「そのキニーネの確保も問題だ。どうも、オランダとイギリスがキニーネの輸出を渋り始めているらしい」
「東インドとセイロンからの輸出が絞られるとなると、後は南米ですか」
「流石に南米諸国からは良い返事貰えたようだが、メキシコ風邪の治療にキニーネが必要と知ったら連中もどう出るかわからん」
「南部地域でのマラリア治療のためとごまかすのも限界ですか」
「場合によってはキニーネの輸出を盾に何らかの政治的な要求をしてくるかもしれん…クソ、どいつもこいつも政治ばかりか」
キニーネは元々南米原産のキナノキから作られる物質だったが、熱帯地域へのヨーロッパ人の進出に伴いマラリア治療薬として需要が高まり、オランダ領東インド、イギリス領セイロンには大規模なプランテーションが作られるようになり、いまや、世界への供給の大部分を担うようになっていた。特にオランダはキニーネ局という専門の部門を政府内に設置して輸出管理を行なっていた。
アメリカはメキシコ風邪治療のために南部地域で依然として流行が続いていたマラリア治療のためとしてキニーネの大量輸入を行なったが、オランダやイギリスはだんだんと輸出量を調整するようになっていった。
これに対してアメリカは影響下にあるボリビア、エクアドル、コロンビアといった南米諸国からの輸入を画策した。今のところは輸入はうまくいっていたが、メキシコ風邪がそれらの国の国内で大流行するような事になればどうなるかは判らなかった。
自らの提案をことごとく無視され、もはやブルーは神に対して国内外でメキシコ風邪が大流行しないようにと祈るほかなかったが、その祈りもむなしくメキシコ風邪の流行はアメリカ国内外へ広がっていくことになる。
アメリカ国内はもとより地続きのカナダ、メキシコ、未だイベリアの内戦と第2次モロッコ危機で揺れるヨーロッパとその植民地、内戦の火の手が上がり始めたロシア帝国、アメリカの介入に怯えながらも自立を目指す南アメリカ大陸、そして、愛国党政権が敵とみなすアジアの大清帝国と大日本帝国、メキシコ風邪という病魔は愛国党政権とは違い人種や政治的信条とは関係なく広がり、そして多くの人間を殺す事になる。




