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第169話 義勇兵

1919年7月10日 スペイン王国 カタルーニャ地方 タラゴナ県 モンブラン

モンブランはカタルーニャの伝承においては聖ゲオルギウスの龍退治の舞台となった地であり、中世以来の城壁のある街並みで知られる街であったが、現在はその城壁を防衛線として活用する反乱軍と攻勢をしかける政府軍との間で激しい戦闘が行なわれていた。


「この城壁から中には一歩もいれるな」


カタルーニャ語で声を張り上げていた男はイタリア人だった。カタルーニャ人の上官が戦死したため臨時で指揮を執っている男、ベニート-ムッソリーニは兵士たちを鼓舞した。


イタリア社会党員として活動していたムッソリーニが何故この地で戦っているかといえば、全ての原因はバルカン戦争にまで遡る。


1914年に勃発したバルカン戦争に際してムッソリーニは社会党員でありながら、いわゆる未回収のイタリアの回収を強く訴えた愛国社会党員(敵対していたジャコモ-マッティオッティなどからは好戦社会党員などと呼ばれた)の代表例であり、参戦後には一兵士として戦うという約束を有言実行して危険な突撃兵として従軍した事もあり、ムッソリーニは一躍イタリアでは知らぬ者のいない存在となった。


しかし、バルカン戦争がイタリアにとって何の成果もないまま終わると、マッティオッティらの復帰によって愛国社会党員の中でも名が知られていたムッソリーニは見せしめとして除名処分を受けてしまった。


ムッソリーニの失望は大きかった。祖国のために戦ったのに祖国から見捨てられた。そんな気さえしたのだ。ムッソリーニはヨーロッパ各地を放浪し続けた。


そうして、このカタルーニャ地方に落ち着いたのだった。

ここでムッソリーニはイタリアのシチリア島出身でアルモガパルスと呼ばれたカタルーニャ人傭兵を率いて、シチリアから東ローマ帝国までを縦横無尽に駆け抜け、東ローマ帝国大公の地位と皇帝の姪を嫁に迎えるまでになったが、最後には傭兵たちへの報酬をめぐり東ローマ帝国政府と不和となり、皇太子によって暗殺される、という13世紀末から14世紀初頭に活躍した悲劇的なカタルーニャ傭兵のイタリア人指揮官ルジェ-ダ-フローにムッソリーニは自らを重ねた。


語学に通じていたムッソリーニはカタルーニャ語を習い、ルジェ-ダ-フローの部隊で傭兵として戦って、後に著述家となったラモン-ムンタネーが執筆した年代記『クロニカ』のイタリア語への翻訳を試みた。


ムンタネーの故郷であるパララーダにてのんびりと翻訳に励んでいたムッソリーニだったが、緊迫していたカタルーニャ情勢がそれを許さなかった。


産業化が進んでいたカタルーニャにおいては以前より労働争議が多発していたが、それに対して雇用主たちはある意味で単純な解決策をとっていた。労動争議の中心人物や参加者の暗殺或いは脅迫だった。

ピストレリスモと呼ばれるこの手法はカタルーニャ各地で実行され、一時的には労働争議はおさまったが、3月のガリシアでの蜂起に影響される形でそれまで抑え込まれていた不満が爆発し、要求はピストレリスモの廃止と関係者の処罰から一気にスペイン王国からの離脱にまで膨れ上がっていった。


これに対し、過剰に反応したスペイン政府は各地でカタルーニャ人民族主義者とみられる人物の逮捕を行ない、イタリア人であるにも拘らずムッソリーニもカタルーニャ民族主義に与するものとしてとらえられてしまった。

カタルーニャ語で書かれ、カタルーニャの兵士たちの勇猛さを讃える歴史書である『クロニカ』はカタルーニャ人にとっては数々の文学作品の題材にもなった、偉大な書物であり、その翻訳をしようとしているというだけで当時のスペイン政府はムッソリーニを危険人物と見做したのだった。


ムッソリーニは他のカタルーニャ人達ともにバルセロナにある監獄へと収監されたがそこで、捕らえられた独立運動家たちと交流を重ねた。傍観者に過ぎなかったムッソリーニが本格的に民族主義運動と関わりを持つようになったきっかけが監獄に収監された事だったのは何とも皮肉なことだと言えるだろう。


やがて、カタルーニャ人民族主義者に率いられた暴徒たちが監獄に押し寄せてきて、ムッソリーニを含む民族主義者を解放した後、カタルーニャ政府の樹立が宣言され、外国人であるムッソリーニは国外への亡命か義勇兵としてカタルーニャ独立軍に入り戦うかの2択を迫られた。ムッソリーニは迷わず後者を選択した。こうしてムッソリーニは一兵士として再び銃をとったのだった。

しかし、独立直後のカタルーニャではフランセスク-マシア率いる共和主義勢力、サルバドール-セギールビナット率いる無政府共産主義者、そして伝統を重視しマドリード公ハイメ-デ-ボルボンの統治を望むカルリスタ、その他の雑多な勢力が入り乱れて対立を繰り返しており、そこに国王アルフォンソ13世の思い付きのような発言によって立案、実行された政府軍の上陸作戦によって首都が陥落するという最悪の事態を迎えていた。ムッソリーニはバルセロナ陥落後はモンブランへと撤退して、その防衛に加わっていた。


結果的に政府軍が進撃を急ぎ過ぎていて補給が万全でなかったことや、それを埋め合わせるための略奪に反発した住民によるゲリラ活動によってさらに補給が滞っていたことが幸いして、辛くもモンブランに対する攻撃を凌ぐ事が出来た。


このモンブランの戦いの勝利によってムッソリーニはカタルーニャ側のプロパガンダによって『現代のルジェ-ダ-フロー』としてまつり上げられることになったのは別の話である。


一方、カタルーニャ方面で戦線が停滞しているのを見たカタルーニャ以外の各地の勢力はそれぞれ攻勢を計画しはじめる。特にカルリスタたちはそれまで各地でバラバラに行動していた事から一致した行動をとるべく王であるマドリード公ハイメ-デ-ボルボンの帰還を画策し始める。


それを受けた政府軍も植民地からの兵力移動を行なって反乱軍の攻勢に備えた。兵力移動が行なわれた植民地の中には未だにベルベル人との争いが絶えないモロッコ保護領の名があった。

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