第161話 日陰者と変わり者
1918年10月13日 大日本帝国 大日本帝国海軍 第六潜水艦
(演習開始まで、もう少しか…狙うは赤軍旗艦扶桑のみ、佐久間さんの為にも潜水艦乗りの実力をここで証明する)
大日本帝国初の国産潜水艦である第六潜水艦の艦長、南雲忠一大尉は闘志を燃やしていた。
この演習において扶桑は赤軍つまり、仮想敵の艦隊旗艦として役割を与えられていた。そしてその扶桑を"撃沈"する事が、鬼の様に厳しい指導で南雲をここまで育て上げた恩師ともいえる存在である佐久間勉中佐への恩返しであり、また、帝国海軍の日陰者である潜水艦乗りの未来を切り開く事に繋がると考えて、張り切っていた。
勿論、演習である為、本当に撃沈するためではなくそう判定される事が目標だったが、南雲は今回の演習に実戦さながらの熱意と緊張感を持って臨んでいた。
帝国海軍と潜水艦の関係は古く、1905年ごろにジョン-フィリップ-ホランドが発明したホランド型潜水艦を購入しようとしたのが最初だったという。これは当時、日本の仮想敵国であったロシア帝国がホランド型の他、同じくアメリカ人の発明家であるサイモン-レイクが発明した潜水艦などを購入していた為、それに対抗するためだったが、当時の帝国海軍では後に薩摩型となる新戦艦の建造を開始しており、すでに莫大な予算をつぎ込んでいた。それを考えると潜水艦というよくわからないものを購入するため予算を割くわけにはいかず結局、潜水艦購入の話は流れてしまった。
転機が訪れたのは第一次世界大戦だった。
欧州に派兵した帝国陸海軍は、帰国時には様々な兵器を日本に持ち帰っていたのだがその中にフランスから譲渡された、完成していればカリプソ、シルセと呼ばれたであろう2隻の未完成の潜水艦があった。
この2隻の未完成の潜水艦は1904年の建艦計画において建造が承認され、1898年にフランス海軍初の実用的潜水艦であるナルヴァルを設計したマキシム-ラウブフが設計した潜水艦だった。
1904年の建艦計画にて建造されたこの2艦の特徴は、それまでの主力潜水艦であったエムロード級と異なり、ナルヴァルの設計以来ラウブフの設計の特徴となっていた二重船殻構造を採用した事だった。
こうして、カリプソとシルセは次世代のフランス海軍の主力として活躍…するはずだった。
しかし、そうはならなかった。建造途中に第一次世界大戦が勃発してしまったからだった。しかも運の悪いことに2鑑の機関はドイツ帝国MAN社製のディーゼルエンジンだったため、完成しても肝心の機関が無い事には役に立たなかった。
やむを得ずフランス海軍はエムロード級の内、建造が遅れていたリュビとサフィールの建造を中止して、この両艦に取り付けるはずだったサウター-アルレ社製のディーゼルエンジンを流用する事にしたが、海軍工廠でさえ陸軍向けの兵器生産に追われる有様では、現用艦艇の整備などをするだけで精一杯であり、潜水艦などという、戦果らしい戦果も挙げていない艦種に対して割く時間も予算も無かった。
当時の潜水艦は水中に潜れるというだけで、あまりにも遅く、航続距離も短く、そしてなにより新兵器ゆえに事故率が高かったため、戦時における貴重な将校と水兵の事故による損失を恐れた各国海軍では連合国、同盟国を問わず、自然と潜水艦の活動を制限していった。
後世の歴史家の中には第一次世界大戦の勃発があと十年遅ければ仮装巡洋艦ではなく潜水艦による通商破壊が猛威を振るっていただろうとの見解を示すものもいるが、現実としては潜水艦は危険が多すぎる割に戦果に乏しい、使えない兵器という扱いだった。
そのため、帝国海軍がカリプソとシルセを導入した際には特にフランス海軍も止めようともしなかった。
帝国海軍としても特に深い考えがあったわけでもなく、依然として仮想敵であったロシア海軍が持っている新艦種をただで手に入れる事が出来るのならば、と研究用に導入しただけだった。
しかし、その後帝国海軍の戦略が第二次ヘルゴラント海戦の戦訓から、艦隊決戦から通商破壊及び封鎖戦略へと変わると潜水艦にも俄かに注目が集まり始めた。
切っ掛けは戦後に第一次世界大戦中のロシア海軍によるダンチヒ閉塞作戦の失敗に関する詳細な情報が入ってきたことだった。
ダンチヒ閉塞作戦は米西戦争時のサンチャゴ湾閉塞作戦に着想を得て実施された作戦だったが、封鎖どころかドイツ海軍によって捕捉され、多くの閉塞船が撃沈される有様だった。ロシア海軍を仮想敵としていた帝国海軍も同時期にウラジオストク閉塞作戦を考えていた為、欧州で同様の作戦が失敗した事は衝撃だった。
これに対して、かつてホランド型潜水艦の導入を訴えていた竹下勇大佐が潜水艦による機雷敷設、あるいは待ち伏せ攻撃を提案し、了承された。あっさりと了承されたのは、懸念であった満州、朝鮮への進出が頓挫したためロシア海軍の拠点はウラジオストクのみであり、封鎖ないし待ち伏せは容易だと考えられたからだった。こうして帝国海軍は導入を初めて計画した1905年から5年遅れた1910年にカリプソとシルセをそれぞれ第一潜水艦と第二潜水艦として編入した。これが帝国海軍初の潜水艦だった。
しかし、第一次世界大戦中に大した戦果も無かったという事もあり潜水艦は日陰者扱いだった。
南雲にしても、潜水艦勤務を命じられた際には激しく落胆したが、上官であった佐久間勉中佐による厳しい指導により、潜水艦乗りとしての技術を身に着け、一人前の潜水艦乗りとなっていた。また、人情に篤い性格から乗組員からの信頼も厚く、師である佐久間と比較して鬼の佐久間、仏の南雲と呼ぶ者もいた。
結局、この演習においては南雲の指揮する第六潜水艦は扶桑に対し"雷撃"するも、扶桑の素早い応急修理の為"撃沈"には至らず、逆に護衛の駆逐艦によって第六潜水艦が"撃沈"の判定を喰らうはめになった。演習後に南雲は果敢に攻撃を仕掛けたとして、その敢闘精神を称えられたが、肝心の潜水艦という艦種への評価は上がる事は無かった。
南雲はその後、海軍大学校甲種学生となり潜水艦から離れたが、卒業後に海軍少佐に任官した際には、周囲の反対を押し切って再び潜水艦勤務を志望し、帝国海軍きっての変わり者として知られるようになる。




