第160話 アメリカ帰りの男
1918年10月1日 イーラーン民主連邦共和国 バンダレ-アッバース
この日、誕生から暫く経ったイーラーン民主連邦共和国にアメリカ合衆国から貨物船に乗ってやってきた1人の男がいた。
彼の名はアレクサンドル-ミハイロヴィチ-クラスノシチョーコフ。
現在はドイツ帝国領となっているウクライナ、チェルノブイリの出身でキエフにいた時に社会主義に影響されて活動を行なうも、ロシア帝国政府により1898年に逮捕され、沿海州のニコラエフスクに流刑された後、ドイツを経てアメリカへと渡っていた。
クラスノシチョーコフはアメリカで働きながら夜間学校で専門的な知識を身に着け、さらに、アメリカ社会党に入党して再び社会主義者としても活動していた。
「やあ、船旅はどうだったかね?同志クラスノシチョーコフ」
「不便というほどでもありませんでしたが快適でもない、といったところでしょうか同志ガネツキー」
「…なるほどな。同志パルヴス、帰りはもう少しましな船を手配してやったらどうだ」
「バカを言うな。ただでさえこれから金を湯水のごとく使うんだ。バルカン戦争で儲けた銭などすぐに吹き飛ぶぞ」
ガネツキーとパルヴスは、クラスノシチョーコフをイーラーンに連れてくるうえでいろいろと手配してくれた人間だった。
ガネツキーことヤーコフ-スタニスラヴィチ-ガネツキーはかつてボリシェヴィキの指導者であったウラジーミル-イリイッチ-レーニンの側近として働いていたが、その死後はデンマーク王国コペンハーゲンに脱出して、小さな貿易会社を営んでいた。
そんな、ガネツキーに接触したのがパルヴスこと、アレクサンドル-パルヴスだった。
パルヴスはボリシェヴィキとメンシェヴィキに分裂する以前のロシア社会民主労働党の機関紙である『イスクラ』の創設にも関わった人間だった。
暫くはレーニンらと共にスイスに留まっていたパルヴスだったが、第一次世界大戦の勃発と共にスイスで事業を起こし、各国、特に海上封鎖で苦しんでいたドイツ帝国とオーストリア=ハンガリー帝国に物資を売り始めた。
初めは食料品や日用品が主だったが、取り扱う品物は次々と増えていった。これは両国がそれだけ海上封鎖に苦しめられていたからだった。
予想を超える発注に頭を抱えていたパルヴスの所にロンドンから一通の手紙が届いた。
差出人はバジル-ザハロフ、トルコ生まれのギリシア人で死の商人の代表格ともいえる男だった。
内容はパルヴスをザハロフの設立した対同盟国向けの貿易会社の経営者として雇いたいというものだった。
ザハロフがなぜパルヴスを雇おうとしたのかと言えば、当時のイギリスでは、連合国により海上封鎖に関してはとても評判が悪かったが、一方でフランスが落ちれば次はイギリスであるとの意見も多く、全体としてはドイツやオーストリアよりも連合国に対して好意的だった。そのためいくら死の商人であるとはいえイギリスで活動している以上表だっては動けず、代理人としてパルヴスに目を付けたのだった。
こうしてザハロフの下で本格的にその商人として才能を開花させたパルヴスはバルカン戦争では各国に物資を売りさばき巨万の富を築いた。その一方でかつての同志たちへの援助も忘れず、イーラーン革命の際には立憲派に多くの武器弾薬や資金を提供した。
そんな、パルヴスが憂慮していたのが、革命後のイーラーン、特に国家を運用するのに必要な財政についてだった。
革命と共にガージャール朝によって雇われていた顧問たちは皆それぞれの母国へと帰還していた。
そのため、パルヴスはまずは自らが財政顧問に就任しようとしたが、これは連邦共和国政府とボリシェヴィキの双方から拒否された。
連邦共和国政府からすれば、革命が成功した以上外国人、特にその中でも最も過激なボリシェヴィキは不要であり、その力を削ぎつつ、イギリスやアメリカとの交渉を行なわねばならないのに関わらず、ボリシェヴィキの中でも特に悪い意味で著名な人物であるパルヴスを据えるつもりはなかった。
また、ボリシェヴィキの側からしてもパルヴスは、
『悪辣な資本主義者であるザカロフと手を組んで、第一次世界大戦およびバルカン戦争の際に私利私欲のために物資を売りさばいていた』
との批判があり、さらにひどいものでは、
『パルヴスはレーニンとの間で、スイスでの事業を巡って対立があり、都合が悪くなったパルヴスがレーニンを秘密警察に売った』
というものまでいた。
後世の研究者の調べによれば、スイス時代にパルヴスに対して批判的な声があったのは事実だが、現実主義者であったレーニンはパルヴスの事業は革命のための資金調達に不可欠であり、また戦争を長引かせる事で労働者の不満を高め、革命を誘発できると考えていた事やスイスで活動していたボリシェヴィキ内でレーニンに次ぐ地位にあり、パルヴスの友人であったレフ-ダヴィドヴィチ-トロツキーの擁護もあって、相次ぐ批判にもかかわらずパルヴスの事業は黙認されていたことがわかっている。
ともあれ、こうしたにより、パルヴスは自身が就任するのを諦め、代わりに知り合いだったガネツキーを推薦し、こちらはボリシェヴィキたちの了承を得るも、元ボリシェヴィキという事から連邦共和国政府からは再び拒否された。
そこで、パルヴスが目を付けたのがクラスノシチョーコフだった。クラスノシチョーコフはニコラエフスクに流刑にされた際にトロツキーと面識があったため、パルヴスとクラスノシチョーコフは互いに友人の友人という関係だった。
クラスノシチョーコフが思想的にはメンシェヴィキよりの社会民主主義者であることについてボリシェヴィキからは反発の声が上がったが、ガネツキーが賛同に回った事で、クラスノシチョーコフがボリシェヴィキに参加する事を条件に承認された。
連邦共和国政府は相変わらず難色を示したが、ボリシェヴィキに参加している点はともかく思想的には社会民主主義者であることやアメリカ政府との交渉が上手くいっていなかったことから、アメリカ社会党が母体となったアメリカ社会革新党を通して草の根レベルで支持を集める事への期待から、結局、クラスノシチョーコフの就任に賛成した。
こうして、クラスノシチョーコフはイーラーンの地で財政顧問として働く事になる。




