第155話 モデルニスモと壁画運動
1918年7月12日 アルゼンチン共和国 ブエノスアイレス
この日、アルゼンチンの大地に立った1人のイタリア人と1人の日本人がいた。
「着いたなハルキチ。ここがアルゼンチンだ」
「アメリカでは大分足止めを喰らいましたからね。先生」
ハルキチこと下位春吉は、先生ことガブリエーレ-ダヌンツィオ対してそう言った。
2年ほど前に世界のイタリア人コミュニティを巡る旅に出たダヌンツィオと下位は、ナポリからアメリカに渡り、イタリア人コミュニティの間で大歓迎を受け、アメリカの作家たちとも交流を重ねた。
こうして次の目的地である南米を目指そうとしてところで、不幸にもメキシコ風邪の流行に巻き込まれてしまった。このメキシコ風邪の流行開始直後からアメリカ以外の各国はアメリカより来るヒトやモノに対して、厳しい検疫を行なっており、特に感染源となる人間や動物の移動ついては、かなり強く警戒していたため、ダヌンツィオたちの渡航許可が下りるには時間がかかってしまった。
先月にメキシコ風邪の流行はほぼ終息しつつある、との発表がアメリカ財務省の公衆衛生局から発表されたこともありようやく各国による厳しい検疫体制も緩められ、ダヌンツィオたちもアルゼンチンの地を踏む事ができたのだ。この、公衆衛生局の発表後には各国がそれまで停滞したヒトやモノの移動を活発化させる事になり、それはメキシコ風邪の流行以前をしのぐ勢いだった。
これまでの辛い日々を思い返し、2人が感動していると、背後から誰かがぶつかってきた。
「おっと、これは失礼…もしやあなたは、イタリアのダヌンツィオ先生ではないですか」
「いかにも私はダヌンツィオだが、君は?」
「これは失礼をいたしました。レオポルド-ルゴーネスと申します」
ぶつかってきた紳士然とした男、ルゴーネスはアルゼンチンで最も有名な詩人だった。
ルゴーネスはモデルニスモと呼ばれる文学運動の担い手の一人だった。モデルニスモとは、かつて、植民地であったラテンアメリカ諸国で起こった文学運動で、それらの旧植民地におけるアイデンティティの確立を目的とした文学運動だったが、一方で完全にヨーロッパの影響から抜け出したわけでもなくロマン主義文学の影響も多く受けた文学運動だった。
代表的な担い手にはキューバの独立運動家であるホセ-フリアン-マルティ-ペレス、ペルーの無政府主義者であるマヌエル-ゴンザレス-プラダ、ベネズエラの外務大臣を務めたマヌエル-ディアス-ロドリゲスのように政治的活躍した人物も多かった。
だが、残念な事にルゴーネスはそうした政治的な活躍とは無縁の人物だった。
詩人とは社会の指導者として大衆を導くべしという信念の下でルゴーネスは初めは無政府主義に傾倒し、現在は社会主義に惹かれていたが、どちらの活動においてもルゴーネスの望むような活躍は出来ていなかった。
バルカン戦争でイタリアに絶望してアルゼンチンを訪れたダンヌンツィオは、イタリア時代には文壇のみならず政界でも活躍した人物であり、ルゴーネスはダンヌンツィオに対し憧れと尊敬の念を持っていた。
ダンヌンツィオはルゴーネスとの出会いを通して失っていた活力を取り戻し、ルゴーネスはダンヌンツィオから大いに刺激を受ける事になった。
1918年7月20日 ペルー共和国 リマ 旧市街 サン-マルティン広場
ペルー共和国首都リマにあるペルー独立の英雄ホセ-サン-マルティン記念した広場を1人のメキシコ人が訪れていた。
彼の名はホセ-ヴァスコンセロス-カルデロン。メキシコの哲学者にして作家である彼は、革命派として反ディアス、反デ-ラ-バーラ政権の活動をしていたのだが、昨年のメキシコ出兵が全てを変えた。
デ-ラ-バーラ政権が打倒されたのは良かったのだが、ヴァスコンセロスが支持していた自由主義者が政権を取るには至らず、ハリスコ州を拠点に活動していたベルナルド-ドロテオ-レイエス-オガソン元国防相が率いていた軍閥を正統政権としてアメリカが承認したのを皮切りに各国がハリスコ州軍閥を正統政権として扱いはじめ、そのままアメリカ軍の支援の下にメキシコシティを陥落させてしまった。
その後、正式に大統領となったオガソンはソノラ州を拠点に活動していた自由主義者たちを降伏させ、未だに抵抗活動を続けているのはモレロス州や隣国グアテマラのロスアルトス地域などで活躍してる無政府主義者たちだけだった。
自由主義者たちの中にはハリスコ州軍閥とその背後にいるアメリカを憎むあまりに思想信条を曲げて、無政府主義者の下で戦うものもいたが、多くはヨーロッパや南米諸国への亡命を選んだ。ヴァスコンセロスもその一人だった。
「ヴァスコンセロスさんですか、本日は取材の申し込みを受けていただいてありがとうございます。『ヌエラトラ-エポカ』のホセ-カルロス-マリアテギといいます」
まだ、若い男がヴァスコンセロスに対してそう言った。
ヴァスコンセロスが1882年生まれなのに対してマリアテギは1894年生まれで12歳も若かったが、今年、友人のセザール-ファルコン-ガルフィアスと共に『ヌエラトラ-エポカ』という雑誌を創設していた。マリアテギは『ヌエラトラ-エポカ』において、従来の伝統的な社会とアメリカのモンロー主義政策によって、ペルーがアメリカの強い影響下に置かれている事を批判し、貧しい労働者、農民、そして植民地時代から変わらぬ扱いを受け続けるインディオの側に立った政治をすべきだと訴えた。
そして、そうした活動を通してメキシコから亡命してきたヴァスコンセロスに興味を持ち、アメリカによるメキシコ出兵を帝国主義的介入として批難する記事を書くための取材をするべく、ヴァスコンセロスと待ち合わせをしていたのだった。
この取材をきっかけにヴァスコンセロスはマリアテギやガルフィアスに共感し、自らの祖国であるメキシコと同じような事にならないように、ペルーを変えるべく『ヌエラトラ-エポカ』に論文を寄稿したり、古くはオルメカ文明にまで遡ることのできると言われる、メキシコの壁画制作の伝統をペルーに持ち込み、労働者や農民の苦境やスペイン征服以前のインカ帝国の栄光を視覚的訴えるべく、それらを題材とした壁画制作を始めた。
これらの壁画制作にはドクトル-アトルーやディエゴ-リベラ、ダヴィド-アルファロ-シケイロスなどヴァスコンセロスと同じようにメキシコを離れてヨーロッパへと亡命していた画家たちも参加するようになり、のちにペルー壁画運動と呼ばれる芸術運動に発展する事になる。




