第153話 愛情と賭け
1918年6月2日 ロシア帝国 ペトログラード ウラジーミル宮殿
「プリシュケヴィッチ、話はわかった」
「おお、では…」
「勘違いはしないで欲しい…私は話はわかったと言っただけだ」
早とちりしかけた黒百人組の指導者ウラジーミル-ミトロファノヴィッチ-プリシュケヴィッチに対して、この宮殿の主であるマリア-パヴロヴナは威厳を込めながらそう言った。
(私はどうすればいいの…こんな時、ウラジーミルがいてくれれば…)
マリア-パヴロヴナはそう思わずにいられなかったが、ウラジーミル、先帝にアレクサンドル3世の弟であり、彼女の愛する夫だった人物は9年前に亡くなっていた。第一次世界大戦の時に、マリア-パヴロヴナがドイツ出身であることを理由にドイツ帝国のスパイと誹謗中傷された時には、ウラジーミル大公はマリア-パヴロヴナの事を庇った。そして、マリア-パヴロヴナもロシア帝国こそが自らの祖国であると示すかのように、それまでの信仰を捨ててルター派から正教会へと改宗した。
だが、その改宗でさえ、息子たちの帝位継承権を確保するためのものである、と思われており、世間の反応は冷ややかだった。
勿論、マリア-パヴロヴナとて、皇族として、そして何より母として我が子に帝位を、と思わなかったことはない。
しかし、長男であるキリル大公がロマノフ家家長である皇帝ニコライ2世の反対を押し切ってのヴィクトリア-メリタとの婚姻で帝位継承権を失なったあとは表立っては動けなくなり、また、1909年にウラジーミルが亡くなった後はマリア-パヴロヴナ自身もギャンブルに溺れるようになり、さらにはかつて、未だロシア帝国において絶大な影響力を持つ皇太后マリア-フョードロヴナと宮廷の社交界の指導的地位を巡って対立した事が現在でも尾を引いていたこともあり、マリア-パヴロヴナは宮廷内で孤立しつつあった。
マリア-パヴロヴナが最も溺愛していた次男のボリスが皇太子アレクセイに次ぐ帝位継承権第3位となった事が唯一の慰めだったが、これでさえニコライ2世の弟であるミハイル大公が貴賤結婚で継承権を失うという大事件が無ければ、恐らくこうはならなかっただろう。
何としてでも、ボリスを、息子を皇帝とするためにはマリア-パヴロヴナは手段を選ばないないつもりだったが、目の前の男の提案はマリア-パヴロヴナが考えていたどんな計画よりも危険なものだった。
黒百人組が危険な極右組織であることを考えれば、ボリスやマリア-パヴロヴナを嵌める為の罠とも考えられたし、仮に事が成功したとしても黒百人組から切り捨てられる恐れもあった。
(だが、ここで悩んでいても仕方がない…私の道は緩やかな破滅しかない、あの皇太后に、皇帝一家に、これ以上好きにさせてたまるものか、それに…恐らくこれは勝てる勝負)
結局、マリア-パヴロヴナはプリシュケヴィッチの提案に乗る事にした。何としてもボリスを皇帝にするという強い思いがあったためだが、それ以上にウラジーミルの死後に覚えたギャンブルで培った勘が、自分こそが勝者であると、そう告げていたからだった。
こうして、プリシュケヴィッチはマリア-パヴロヴナを通してボリス大公という御輿を、マリア-パヴロヴナはプリシュケヴィッチというボリスを皇帝とする為の手足を得たのだった。
1918年6月15日 モンテネグロ王国 ツェティニェ 王宮
「ミルコ、これはどういう事だ」
「見ての通りですよ。陛下…いえ、父上。すでに青の宮殿の兄上も拘束しました」
「お前は…なぜこのような事をしたのだ」
モンテネグロ王ニコラ1世は、突如乱入してきた武器を持った男たちに取り囲まれながらそう言った。もちろん王宮だけあってモンテネグロ軍の兵士たちによる厳重な警備がなされていたのだが、武器を持った男たちは私服姿に、小銃を持ち即席手榴弾をぶら下げただけという格好にも拘らず、その姿からは考えられないほどに戦い慣れており、どこかから情報が漏れていたこともあり瞬く間に制圧された。
見るものが見れば男たちが手にしている武器がモーゼル-コカ小銃のようなセルビア製銃器であることが分かっただろうが、ニコラ1世は気付かなかった。そして、王宮の制圧後に現れたニコラ1世の次男ミルコ-ペトロヴィッチからミルコの兄でモンテネグロ王太子ダニーロの住む宮殿、青の宮殿を制圧したと告げられたのだった。
父親である自分と長男を次男が指示を出して拘束させたという事実に衝撃を受けたニコラ1世は、その理由を問わずにはいられなかった。
「わかりませんか、…数年前にドイツ帝国ではヴィルヘルム2世を当時はまだ皇太子だったヴィルヘルム3世が退位させましたが、その理由は祖国に迫る危機に対処するためでした」
「ああ、それは知っている…だが、今の我が祖国に、モンテネグロにどのような危機があるというのか、バルカン戦争も、アルバニアでの紛争も終わったのだぞ」
「父上には現実が見えていないようですな。バルカン戦争が終わったですと?あれは列強諸国が適当な枠を作りそこに我が国のようなバルカン諸国が押し込められただけです。ベオグラードを含む多くの地域を失ったセルビア、トラキアもマケドニアも手に入れ損ねたギリシアでは今でも多くのものが不満をため込んでいます。何か事があればすぐにでも暴発するでしょう。アルバニアでの紛争が終わったというのも形ばかりです。アルバニア反乱軍の多くは散り散りになりましたが、彼等は散った先で各地の反政府勢力に与しています。幸いにして我がモンテネグロでは国境地帯での山賊程度しか被害は出ていませんが、例えば、マケドニアなどではマケドニア人と連携してブルガリア王国に対するテロを行なっています。…父上、今、モンテネグロは多くの不安定要因に取り囲まれています。だからこそ私はモンテネグロを救うために行動を起こしたのです」
「お前は…何を考えているのだ…」
モンテネグロを救う為、そのために自分を王位から引き摺り下ろしたあと、息子は何を考えているのか、統治者として、一人の親として不安になったニコラ1世は再び質問した。
「そうですな、差し当たってはセルビアとの合邦でしょうか」
「ふざけるな、お前は祖国をセルビアに売り渡す気か」
「いいえ、私がセルビア王になるのです」
「……お前はまだそんな古い約束を覚えていたのか…まさか、それを本気で信じているわけではあるまいな…やめろ、お前は…お前は狂っている、国とは賭け事のかけ金ではないのだぞ、ミルコ…やめるんだ」
「狂っているとは心外ですな、父上…」
ニコラ1世の言葉は最後の方は父親としての愛情が込められた言葉だったが、息子であるミルコ-ペトロヴィッチはそれを無視して退出したのだった。
ミルコ・ペトロヴィチは史実だと1918年5月2日に亡くなっているのですが、ロシア語ウィキペディアによると暗殺された可能性があるとの事だったので、この世界では存命です。
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