第150話 共和国誕生とその影響
1918年4月10日 イーラーン民主連邦共和国 テヘラン ゴレスターン宮殿
「諸君、今ここに無能な帝政の時代は終わった。我々はここにイーラーン民主連邦共和国の建国を宣言する。今日、この日は我らイーラーン人にとっての夜明けである」
ペルシアで長らく活動を続けてきたに立憲派の中心人物ミルザ-クチク-ハーンは、そう宣言した。クチク-ハーン率いる立憲派に加え、モハンマド-タギー-ヘシアンやレザー-ハーンといったペルシア軍からの離脱者、それにグレゴリー-コンスタンティノヴィッチ-オルジョニキーゼなどの元ボリシェヴィキやニコライ-セミョ―ノヴィッチ-チヘイゼのようなグルジア人などの外国人勢力などが加わった。アジア最初の共和国、イーラーン民主連邦共和国が誕生した瞬間だった。
とはいえ問題は山積みだった。
当初、クチク-ハーンは立憲派といわれたように当初は憲法制定と議会設立を求めていただけだったのだが、国王モハンマド-アリー-シャーはこれを拒否、なし崩し的に反乱を起こす事になり結果としてガージャール朝が崩壊するという結果となったのだ。
進歩的ではあるものの基本的には穏健派に過ぎなかったクチク-ハーンにとっては大問題だった。
クチク-ハーンが望むのはガージャール朝の改革であってもその崩壊ではなく、オルジョニキーゼやチヘイゼのような外国人が新生イーラーンの国政に介入するようになるなど悪夢でしかなかった。そうした外国人と手を組んだのはあくまでガージャール朝側に叩き潰されないためで、まさかガージャール朝があっさりと崩れ落ちるとは思っていなかった。
だが、外的な要因がそうした一時しのぎの為の協力体制を持続させていた。
昨年から続いた対オスマン帝国戦争が原因だった。あの戦争において多少は善戦するだろうと思われたオスマン帝国軍は、結局、イスタンブルを自らの手で破壊するという蛮行によって、逆に全キリスト教世界の敵という連合軍側の怒りをかった以外は特に何もなくあっさりと消滅してしまった。その後釜には、カリフを名乗ったメッカのハーシム家とそれを支えるエジプトが座ったが、エジプトの本当の主人がイギリスである事はクチク-ハーンにもわかっていた。
だからこそ、クチク-ハーンも、イギリス勢力圏のクウェートと隣接するアラベスターン地域を治めるハザール-カーン-イブン-ハジ-ジャビル-カーンには共和国に加わるようにとの、形式的な宣言を一度出しただけで特に触れようとも思わなかった。ジャビル-カーンを刺激するとクウェートどころかイギリスまで巻き込みかねないからだ。
かといって、イギリスと長い間争っていたロシア帝国を頼るという選択肢もなかった。現在のロシア帝国は衰退しており、また、ロシア帝国による弾圧受け続けた末にイーラーンに流れてきた元ボリシェヴィキたちがどのような行動に出るか分からなかったからだ。
そこで、クチク-ハーンはイギリスでもロシアでもない第三国による支援を望んだ。
かつて、ガージャール朝の戦いにおいて共に戦い、現在はオスマン帝国の崩壊に伴いアルメニア人居住区域にオスマン帝国並びにガージャール朝に対して抵抗活動をつづけたアルメニア人の英雄として帰還しているアンドラニク-オザニアンを通して、アルメニア人ネットワークを使ってアメリカ合衆国を引き込もうと考えたのだった。アメリカ政府は現在頑ななまでのモンロー主義政策をとっているが、財界は別だろうし、アジア最初の共和国というイメージを打ち出せば、一般大衆すらも支援してくれるかもしれない、と考えたのだった。
意外にも資本主義を打倒すべきものとして考えているはずのボリシェヴィキたちの反応も悪くは無かった、革命の主体は労働者であり、そのためにはまず工業化が必須だからだった。こうしてイーラーン共和国はアメリカの支援を得るべく動き出した。一方で、イギリスを刺激しないためにも、イギリスが計画していたケープ-カイロ鉄道の最終的に清国まで至る延長路線の建設についてもありとあらゆる協力を惜しまないと宣言した。
しかし、イーラーン民主連邦共和国の成立はクチク-ハーンが想像すらしなかった所で歴史を大きく動かそうとしていた。
一つはロシア帝国だった。
未だ対オスマン帝国戦争の戦勝の興奮も冷めやらぬロシアでは、以前よりストルイピン政権の打倒を目指していた右派の黒百人組と左派の社会革命党がそろって、イーラーン民主連邦共和国にボリシェヴィキが加わっているという理由ですぐに介入をするように求めた。
合法路線に転換してからかなりの年月が過ぎた社会革命党からすればボリシェヴィキとは、かつて始末したはずの者たちであり、ボリシェヴィキが生き残っているというだけで社会革命党にとっての脅威だったし、黒百人組からすればボリシェヴィキをはじめとする共産主義者は存在自体がロシアの敵であり、絶対に滅ぼさねばいけないものであり、共和国成立後に真っ先にクチク-ハーンがイギリスの鉄道路線建設への協力を表明したことは、明確な親イギリス姿勢と受けとめられ、かつて、ガージャール朝ペルシアへの介入を断念したストルイピン政権への批判は一層強まった。
また、黒百人組の指導者であるウラジーミル-ミトロファノヴィッチ-プリシュケヴィッチは国会での追及に満足せず、ストルイピン排除のため、とある陰謀を企て始めた。その陰謀は黒百人組そのものを危険に晒しかねないものだったが、プリシュケヴィッチは黒百人組の全てを犠牲にしてもやり遂げる覚悟だった。
そして、もう一つは主にヨーロッパを中心に活動を展開する社会主義者たちだった。
特に社会主義活動においてボリシェヴィキの首魁であるレーニン亡き後、指導的地位を担うものであると自他ともに考えていたカール-リープクネヒトやローザ-ルクセンブルグなどが中心となったスパルタクス団内部でいくら、ヨーロッパから離れたペルシアで且つ現地人との連立政権とはいえ、ボリシェヴィキ残党が自らを差し置いて政権に加わった事に対して動揺が広がった。
そのため、6月に予定されていた第3インターナショナル第1回大会の開催を大幅に前倒しして、5月とせざるを得なかった。
5月1日、メーデー。リープクネヒトの誘いに応じた世界各地の社会主義者たちが、スイス、ツィンマ―ヴァルトに集まっていた。




