第140話 大芸術家の激怒と平和主義者たち
1918年1月15日 ドイツ帝国 バイエルン王国 ミュンヘン
「これで、よし…と、そっちの図面は出来たか」
「ええ、どうぞ、ヒトラーさん」
「…なんだ、これは…トート、貴様は私の美しい設計にまた手を加えたな」
未来派の巨匠フィリッポ-トンマーゾ-マリネッティの愛弟子であり、ミュンヘンを拠点にドイツ未来派の中心人物として活躍しているアドルフ-ヒトラーは、渡された図面を見るなり激怒した。それに対しトートと呼ばれた建築士、フリッツ-トートは控えめに反論を試みた。
「し、しかし、先生、先生の設計では…その、強度が…」
「黙れ、貴様は数字にこだわり過ぎるのだ。数字、計算、数学…そうしたものからは決して新しいものは生まれない。未来を作るのは計算ではなく情熱だ」
「…ですが、建築物に強度は不可欠です。ポスターや彫刻とは違うのです」
「技術的な進歩というものを分かっていない人間はこれだから困るな。新素材である鉄筋コンクリートは従来の石やレンガよりも頑丈なのだぞ」
「それはわかっています。ですが、その上で申し上げます。ここの吹き抜けは諦めるしかありません」
「だめだ、認められん」
「なら、せめて柱の数を倍に…」
「柱は今のままで十分だ」
「ですから、それでは強度が足りないんです。数をそのままにするなら太くするほか…」
「私は今のままで十分だと言ったはずだぞ、トート君。数も太さも何一つ変える必要ない。私の『新ビザンチウム計画』は完璧だ」
トートの反論に対してヒトラーは自信に満ちた態度でそれを否定した、自身の設計が完璧であると考えているからこその態度だった。トートはドイツ最古の工科大学であるカールスルーエ工科大学で学位を取得した秀才だったが、ヒトラーのカリスマ的な魅力の前には大学時代に得た知識に基づく理論的な反論でさえも出来なくなってしまうのが日常となっていた。
ことに、今回、手掛けている都市計画案である『新ビザンチウム計画』はヒトラーがこれまで取り組んできたどんな芸術よりも重要である、と位置付けていた為、その建築を『勝手に改竄された』事に対する怒りはすさまじいものがあった。
『新ビザンチウム計画』は誰に依頼されたものでもなく、ヒトラーがオスマン帝国軍によるビザンチウム(イスタンブール)の破壊の知らせを聞いて、その復興計画として作り始めたものだった。
324年にローマ皇帝コンスタンティヌス1世が都に定めて以来、1453年にオスマン帝国によって東ローマ帝国が滅ぼされるまで首都だった歴史を持つ、伝統ある都市ビザンチウムを未来派の建築思想に基づき、鋼鉄とコンクリートで造られた無機質だが機能美にあふれた建築群で再建することで、新しき時代の象徴とする、という壮大なものだった。ヒトラーにとってはそれこそがかつてウィーン時代に自らを馬鹿にした古き芸術家たちへの復讐だった。
そしてヒトラーにはもう一つの狙いがあった。
バルカン戦争以降なぜかすっかりと気落ちして芸術活動から遠ざかってしまった、尊敬する師であるマリネッティを奮起させようと考えており、イギリス時代に世話を焼いてくれたクリストファー-リチャード-ウィン-ネヴィンソンを通じて共同制作者として、ぜひ参加してほしいとマリネッティに打診したのだが、断られてしまった。そのためヒトラーとしては何としても近く開かれるであろう設計競技において優勝し、せめてそれをマリネッティに見てもらいたかったのだ。
「大変です。先生、見てください」
駆け込んできた男がヒトラーに新聞を手渡した。それを見たヒトラーは激怒した。
「ふざけるな。これまで私のしてきたことは無駄だったとでもいうのか、瓦礫になったものを作り直して何になるというのだ」
その新聞にはこう書かれていた、
『ヨーロッパ、そしてアメリカの平和主義者たちがスイスのアラマン城で会合を行ない、ビザンチウム復興のための基金の設立を宣言。国内外の主要人物がこれを称賛し、すでに我がドイツでも皇帝陛下やクルップ財閥など政財界の要人が多額の寄付を行なった模様、ミュンヘンでも明日より各駅前で募金が行なわれる予定』
スイス連邦共和国ヴォ―州にあるアラマン城で決議がなされた『アラマン城憲章』はフランス共和国きっての平和主義者だったエルトゥールネス-ド-コンスタン男爵やアメリカ合衆国のコロンビア大学学長でカーネギー国際平和基金の設立に貢献したニコラス-マレー-バトラーが中心となって作り上げたもので、その中ではっきりと、
『戦争或いは災害によって破壊または毀損された建造物並びに文化的に重要な品々については速やかに且つ完全に復元され、維持されるべき』
と記されていた。
つまり、この憲章に従えばビザンチウムは速やかに元の姿に戻されるべきであり、ヒトラーの思い描くような再建案は実現しないということだった。
なぜ、このような憲章が出来たのかと言えば、第一次世界大戦において、戦場となった各国の歴史的、文化的に重要な建造物が損壊または破壊される事例が多かったからだった。
だが、大戦中には信念を曲げなかった少数の例外やイギリス、イタリア、アメリカなどの中立国の人間を除けば、多くの平和主義者たちが敵国を批難し、自国の戦争遂行に協力しており、彼ら平和主義者たちがそうした問題を気にする事は無かった。
やがて、戦争が終わると平和主義者は再び団結を始めたが、大戦中の活動からすっかりと不信感が生まれてしまっており、そうした状況に危機感を持った『平和主義者』たちはかつて自らが糾弾した信念を貫き通したものたち、フランスでいえばドイツのスパイとして批難されたド-コンスタン男爵などを頼って組織の再建を目指した。だが、続くバルカン戦争において何の役割も果たせなかったことから、その権威は失墜寸前だった。
そんな時に起こったのがオスマン帝国軍によるビザンチウムの破壊だった。これを聞いたド-コンスタン男爵はすぐさまバトラーに連絡をして、アラマン城で会合を開く事を決定した。なぜ、アラマン城が選ばれたのかと言えば、この城はスイスの平和主義者にして死刑廃止論者だったジャン-ジャック-ド-セロンが1830年にヨーロッパ各国の平和主義者たちを集めて最初の国際会議を行なった場所であり、近代ヨーロッパの平和主義の原点ともいえる地だったからだ。
こうして生まれた憲章とそれをもとに設立された基金を後押ししたのは皮肉にもイギリスのヴィッカース社やフランスのシュナイダー社、ドイツのクルップ社などによる莫大な寄付だった。
このため、屍で溢れる大地の上に死の商人たちが札束で祭壇を作り、その祭壇に立って平和と書かれた旗を振るド-コンスタン男爵をはじめとする平和主義者たち、という風刺画まで描かれたほどだった。
様々な問題点はあれど『アラマン城憲章』は今日まで続く国際的な文化財再建、保護の取り組みの始まりとして高く評価されている。
一方、ヒトラーのような各国の新進気鋭の建築家たちが苦労して作り上げたビザンチウムの再建案は幻に終わったのだった。
そんなわけで、評価ポイント1100pt突破記念作品でした。
アラマン城憲章については、史実でも1931年のアテネ憲章とかありましたし、イスタンブルの破壊を受けて何らかの動きあってもいいのではと思ったことから、こんな形になりました。
元々は感想に対する返信をしている中で降りてきたネタだったのですが、ヒトラーネタと絡ませた結果こうなりました。
やはり、自分一人で考えるより他人と話した方が良いネタが降りてきますね。




