第139話 感染症と通貨改革
1918年1月10日 アメリカ合衆国 ワシントン バトラービル 財務省公衆衛生局
バトラービルはマサチューセッツ州選出の下院議員ベンジャミン-フランクリン-バトラーの邸宅だったが、現在ではアメリカ合衆国公衆衛生局の本部が置かれていた。
公衆衛生局は第2代大統領ジョン-アダムスによってけがや病気によって入院を余儀なくされる船員たちのための病院である海洋病院の管理や検疫を担当するマリン-ホスピタルサービスとして始まったが、その後、感染症対策なども視野に入れて、公衆衛生局となった。
「ブルー君、君のレポートは読ませてもらったよ」
「ありがとうございます財務長官」
公衆衛生局局長ルパート-ブルーは公衆衛生局を管轄する財務省の長である財務長官、ジョージ-ブルース-コーテルユーに礼を言った。ブルーがコーテルユーに提出したレポートはメキシコ風邪の流行予測と、その対策として大人数での集会の禁止と大人数を収容できる場所の閉鎖、マスクの装着などの対策、ニューヨークなどの大都市では時差出勤を推奨する事などが記されていた。
ルパートは公衆衛生局の職員の中でも1904年のサンフランシスコでのペストの流行対策や黄熱病対策での蚊の駆除、水質の汚染などの対策に積極的に取り組んできた人間であり、自他ともに認めるアメリカの誇る感染症対策の専門家だった。
コーテルユーはまだオランダ植民地だったころのニューヨークへ移民して、ウォール街の名前の由来となった防壁の建設に参加したり、1900年にイタリアのヴィラ-ディ-カステッロで見つかった事からカステッロ-プランとして知られる最初期のニューヨークの地図を作成した事で知られるジャック-コーテルユーの子孫であり、1901年のルーズベルト政権下ではホワイトハウスの改革を行ない、1904年には共和党全国委員会の議長としてルーズベルトの再選に協力し、その見返りとして1907年から1909年まで財務長官に任命されていた。
コーテルユーは常々他国で言う中央銀行のような組織の創設を含む通貨改革を主張していたが、当時のアメリカは第一次世界大戦に伴う大戦景気の最中であり、コーテルユーの主張した改革案は受け入れられなかった。
失望したコーテルユーは税務長官を辞任し、コンソリーデーテッド-ガスの社長に就任した。だが、結果としてこれがコーテルユーを救う事になった。
ルーズベルト政権後に政権を取ったタフト政権の財務長官であるフランクリン-マクヴェーグはコーテルユーとは違い通貨改革に否定的な人物だったが、タフト政権の誕生から暫くすると、大戦景気の反動ともいえる戦後不況がアメリカを襲った。この不況を受けてコーテルユーはアメリカにおける中央銀行的組織である国家金融委員会を創設する法案である1910年に提出されたオルドリッチ-ヴリーランド法を熱烈に支持した。マクヴェーグは戦後不況への対応を巡って当の内外から批判されていたこともあり法案はあっさり成立し、アメリカの通貨改革は一歩前進したのだった。
そして、コーテルユーは愛国党が結党されてからは共和党を離脱して愛国党員となり、こうして二度目の財務長官を務めていたのだった。
「…だがな、ブルー君、このレポートを認める訳にはいかん」
「何故ですか、私は感染症対策の経験から必要だと感じたからこそ、こうして書いたのです。まさか財務長官まで大統領の妄言を信じたわけではないでしょうな?」
コーテルユーの言葉にブルーは怒りを込めながら、しかし、静かに問い質した。
ブルーの言う大統領の妄言とは、メキシコ遠征軍の中で正体不明の感染症が流行しているといった報道がなされたときに、質問を受けたルーズベルトは
『私はかつて喘息に苦しむ弱い子供だった。そんな私を見かねた父は私にボクシングを習うようにすすめ、そのうちにテニスやハンティング、ポロを習うようになった。臆病だった私が家で本を読んでいるより、外に出る事の方が楽しいと思い始めるようになったころには、もう病気は治っていた』
と記者に向かって語った。
このルーズベルトの言葉から、体を鍛えていればメキシコ風邪にはかからないと言ったデマが各地で拡散され、体の弱い児童などは集団キャンプで徹底的にしごかれるということが起こったが、逆に感染が拡大したのは言うまでも無かった。
公衆衛生局は消毒の徹底や外出禁止令を含む強権的な措置の実施を求めたが、コーテルユーは慎重だった。そうした措置による政権の支持率低下を恐れての事だった。コーテルユーは国家金融委員会より一歩踏み込んだ連邦準備制度の創設を目指しており、その実現のためにも支持率の低下は避けたかった。国家金融委員会ですら、大企業を救済するための組織として批判を受けていた事を考えると、ただの感染症相手にそうした強権的な措置を行なって支持率を下げたくはなかった。
「このまま何も手を打たなければ、中世のペストの再来です。長官どうか適切なご判断を」
「だが…やはりな…」
「通貨とは使うものがあって初めて意味を持つものの筈です。合衆国の国民の死と引き換えの改革など何の意味があるのですか」
「しかし、ここで改革を行なわねば二度とチャンスはないかもしれないのだぞ」
「ですが、まず感染を止めなければ…」
「感染を止めても経済が動いていなければいずれ人は死ぬ」
「感染が止まれば経済などいくらでも動かせます」
「君に経済の何が分かるんだね」
「確かに経済の事は判りませんが、感染症については合衆国で一番よく知っているつもりです」
最後は怒鳴り合いに近かったが、最後のブルーの言葉にコーテルユーは反論できなかった。
「…わかったよ。ブルー君。だが、ワクチンができたら真っ先に私に打ってくれよ?改革を見届けぬまま病気で死ぬのはごめんだからな。…もちろん、私がクビになっていなければの話だが」
「…ありがとうございます長官」
こうして、ブルーレポートとよばれる対策案は、閉鎖対象から教会施設を除いたり、時差出勤やマスク装着については連邦政府として推奨はするものの最終的な判断は各州に任せるといった修正を加えられたうえで実行に移される事になった。
一方、連邦準備制度についてはメキシコ風邪の流行によって経営が傾いた大手銀行をオルドリッチ-ヴリーランド法に基づく緊急貨幣の発行によって救済した事をロバート-マリオン-ラフォレットの革新党とユージーン-ヴィクター-デブスの社会党が合同し誕生した社会革新党に追及され、、愛国党内からも南部系議員を中心に反対意見が出た事から、コーテルユーは責任を取って辞任を余儀なくされ、ブルーとの約束は果たされないままで終わる事になる。




