第138話 対地攻撃王と禁忌の兵器
1917年12月24日 オスマン帝国 ブルサ 上空
「はぁ、今日も敵機無し…か」
ドイツ帝国航空隊のヘルマン-ゲーリング中尉は乗機であるユンカースJⅠの中で愚痴っぽくそう言った。ゲーリングは対地攻撃で名を挙げていた操縦士だったが、バルカン戦争従軍中に友人でもありドイツ義勇軍のエースパイロットでもあるブルーノ-レールツァーに影響されて航空隊に転属したゲーリングとしては敵機と戦ってエースの仲間入りを果たしたかった。
地上の味方からは対地攻撃王と呼ばれ信頼されていたが、ゲーリング本人はその呼び名にを酷く嫌っていたのだ。
ゲーリングの愛機であるユンカースJⅠは世界初の実用的全金属機だったが、その誕生にはバルカン戦争の戦訓とドイツ帝国の誇る飛行船のパイオニアであるフェルディナント-フォン-ツェッペリン伯爵の死が関係していた。
バルカン戦争において世界初の戦略爆撃とも言われるイタリア陸軍航空隊によるブレンナー爆撃を経験したドイツ軍では鈍重な飛行船よりも高速な爆撃機を主力にするべきという意見が主流となっていった。
飛行船自体の生産も爆撃機に比べれば手間のかかるものであり、フェルディナント-フォン-ツェッペリン伯爵の死によって、ツェッペリン社内部でもアルフレート-コールスマンが中心となって飛行船の製造を中止して、より利益の上がる製品を作るべきだという声が上がり始めた。
そこに目を付けたのが装甲戦闘機の名で全金属機の開発に取り組んでいたユンカース社だった。彼らはツェッペリン社に対し、ユンカース社へ全金属機製造の為、飛行船用のアルミニウム合金を供給するように依頼し、あくまでも飛行船の製造を望んでいた第2代社長だったフーゴー-エッケナーは拒否したが、最終的に航空隊からの圧力によって協力を余儀なくされていた。実は、ユンカース社による要請は全金属機の開発という情報を聞きつけたコールスマンがツッペリン社を存続させるためにユンカース社社長であるフーゴー-ユンカースや全金属機の開発ではユンカースと共に早くから取り組んでいた航空技術者でツェッペリン伯爵と繋がりのあったクラウディス-ドルニエに持ちかけたものであり、コールスマンとしてはツッペリン社と繋がりのあったドルニエにアルミニウム合金を供給しようと考えていたが、ドイツ帝国航空隊は装甲戦闘機の開発をユンカースのみに任せており、結局、ユンカースが選ばれた。とはいえこの実績によりコールスマンの目論見通りにツェッペリン社はその後も航空機材料製造会社として存続する事になる。
ともかく、アルミニウム合金という従来使われていた鋼板よりもはるかに軽い材料を得たフーゴー-ユンカースをはじめとする設計陣は、今までの停滞が嘘のように開発を大幅に進め、今回の対オスマン戦争に間に合わせていた。
この世界初の全金属機の開発と実戦投入は全世界に大きな衝撃を与える事になり、各国での開発及び保有競争の激化や従来の航空機ではできなかった記録の樹立競争などが行なわれる事になるのだが、それは今のゲーリングには関係のない事だった。
1917年12月25日 ドイツ帝国 ウォラウ県 ディヘルンフルト 工場
古くからのユダヤ人コミュニティが存在したということ以外は特に見るべき価値のないこの街には、数年前に警備の厳重な工場群が建てられた。そしてこの日、その工場で製造された製品がドイツ帝国自慢のバルカン鉄道を使って遠くアナトリアに送り込まれようとしていた。
「そおっとだ。丁寧に扱えよ」
工場の中の引き込み線の駅で積み込み作業の指示を出していたのは、製品の開発者であるヨハン-フリードリヒ-カール-シャル博士だった。ミカエリス-アルブーゾフ反応で知られるアウグスト-ミカエリス博士の弟子であるシャルはジエチルアミノの類似体を研究していた時にたまたまジアルキルアミノシアノホスホン酸エチルの合成に成功したのだった。
その時は特にこれといった用途も無かったため、ジアルキルアミノシアノホスホン酸エチルの研究は放置されていたのだが、やがて勃発した第一次世界大戦において、硫黄ガスや亜硫酸ガス、催涙ガス、シアン化水素などの化学兵器が猛威を振るい始めるとシャルも自らの研究が何か祖国であるドイツの役に立たないかと考えて研究をはじめ、実権を重ねるうちに、かつて自らが研究していたジアルキルアミノシアノホスホン酸エチルが恐るべき毒性を持った化学物質であることに気が付いたのだった。
それまでの毒ガスと違い、即効性があるジアルキルアミノシアノホスホン酸エチルを直ぐに兵器として実用化する事でドイツの多くの若者を死から救おうと採用を訴えたシャルだったが、意外にもドイツ軍部の答えは否だった。
その理由はジアルキルアミノシアノホスホン酸エチルの特性にあった。ジアルキルアミノシアノホスホン酸エチルはそれまでの毒ガスの類とは違い皮膚に触れただけで呼吸困難や痙攣を引き起こすため、通常のガスマスクでは対策として不十分であり、全身を追う防護服が必要だが、そういった装備は速やかな進撃を妨げるのではないか、との意見があったためだった。
こうしてジアルキルアミノシアノホスホン酸エチルは禁忌の兵器としてタブンという名称で呼ばれる事になった。
そうして封印されたはずのタブンだったが、1914年のバルカン戦争の勃発に危機感を覚えたドイツ軍では来たるべき次の大戦に備えて新兵器の製作を進めることになり、そうした取り組みの一環としてタブンの製造も秘密裏に開始されたのだった。
ドイツ帝国のバルカン戦争参戦後も実戦投入はされなかったタブンだが、オスマン帝国軍によるコンスタンティノープル破壊への報復として、初めての実戦投入がなされようとしていたのだった。




