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第131話 20世紀の十字軍

1917年11月3日、イギリス、フランス共和国、ドイツ帝国、イタリア王国、オーストリア=ハンガリー帝国の各国軍と、スペイン王国やポルトガル共和国、ベルギー王国、オランダ王国、ノルウェー王国、スウェーデン王国、デンマーク王国、ポーランド王国などからの義勇兵が、ギリシア王国領テッサロニキに続々と集結していた。まさしく20世紀の十字軍といっても過言ではなかった。更にこれに加えて、コーカサス方面からもロシア帝国軍が進出するのだから、負けるような事はまずありえないとされていた。しかし、ここに来て不協和音が生じ始めていた。きっかけは、8月中旬にペルシアにおいてロシアの支援を受けたと思われるクルド人が蜂起し、さらに治安維持を名目にロシア帝国軍が越境を始めたとの情報だった。


ロシアはペルシアの占領を狙っているのではないか、と特にイギリスは警戒心を強めた。何しろペルシアに隣接するインドはイギリスにとって必要不可欠な植民地なのだから、当然の事だった。

しかし、混乱していたのはロシア政府も同様だった。何しろそのような軍事行動は政府の知らないところで計画、実行されたものだったからだ。

そのため、ロシア政府としては中央アジア地域を管轄するトルキスタン総督府より話を聞き、取りあえず出兵地域をホラーサーン地方に限定することでイギリスと妥協しようとしていた。


この妥協案がイギリス政府に伝えられると、キッチナー政権は妥協に対し前向きだったが、インドを預かる立場である、インド大臣ジョージ-フランシス-ハミルトンとインド総督オースティン-チェンバレンはこれに猛反発した。単なるインド大臣と総督の反対程度ならば、キッチナーは特に気にしなかっただろうが、両者はキッチナーにとって厄介な相手だった。


ハミルトンは第二次ディズレーリ内閣でインド省政務次官を務め、第一次、及び第二次ソールズベリー内閣では海軍大臣として所謂「二国標準政策」の立案にかかわった保守党内でもかなりの古株として知られる男だった。


そんな、ハミルトンはジョセフ-チェンバレンによる帝国特恵関税提案に反対し、抗議のために当時のバルフォア内閣のインド大臣を辞職した事から失脚したと思われていた。しかし、その後しばらくして勃発した第一次世界大戦において、敵対政党である自由党のキャンベル=バナマン内閣が貿易統制を主張し、それに対し、保守党は渋々ながら自由貿易を擁護するという皮肉な状況が発生した為、ハミルトンは多くの保守党議員が変節を非難される中で、保守党ながら自由貿易を擁護した男、として地盤であるロンドン西部のイーリング地区において自由党議員に大差をつけて勝利した。それ以降、保守党内ではそれなりの影響力を持っている人物だった。


一方、チェンバレンはハミルトンがインド大臣を辞職するきっかけとなった帝国特恵関税提案の発案者であるジョセフ-チェンバレンの息子であり、保守党の次期指導者と期待されている人物だった。もちろん、キッチナーもそんなことは分かっており、チェンバレンをインド総督に据える為にハミルトンに対して圧力をかけ、強引に任命していた。また同時にチェンバレンと共に次期指導者の呼び声の高かったウォルター-ロングに関してもアイルランド担当大臣として可能な限りロンドンから遠ざけようとしていた。


キッチナーからすれば、ハミルトンとチェンバレンが互いに争ってくれればくれるだけよかったのだが、生粋の政治家である2人は、過去の遺恨を超えて密かに手を取り合いキッチナー政権に揺さぶりをかけようと機会を伺っていたのだった。いかに国民から英雄として支持を集めていたとしてもキッチナーは政治家ではなく軍人だった。


ハミルトンとチェンバレンはロシアとの妥協に反対するというメッセージをイギリス国民に対して発し始めた。これに対して、キッチナーは対トルコ戦争を前にキリスト教世界の団結を示すためといって、ロシアとの妥協を進めようとしたが、これがイギリス国民を憤慨させた。長らく南アジアや中央アジア、そして極東やバルカン半島で対峙してきたロシア帝国が第一次世界大戦において最初に手を挙げ、戦後はイギリス企業の市場となっていた事からイギリス国民はそれまでの恐怖心の裏返しとして、過度にロシアを侮る傾向があった。そうしたことからロシアに対する妥協はイギリス人の間でキッチナーが考えていた以上に激烈な反応を引き起こした。


世論の反応を見たキッチナーはすぐに妥協を撤回するとともに逆にロシアに対し圧力をかけた。

これによりロシア側ではイギリスに対する敵対心と不信感が増大したのだが、対イギリス協調政策をとるストルイピン政権は引き下がる事を選択し、皇帝ニコライ2世に対し国際情勢を鑑みて撤兵するように上奏し、表面上はイギリス、ロシア間の衝突の危機は去ったかに見えたが、実際の所はイギリス、ロシア両国で不満と不信感が強くなっただけだった。特にロシアではペルシアでは反乱軍に元ボリシェヴィキが多数加わっていたことから、右派が中心となってストルイピン政権をイギリスからの金欲しさに祖国の危機を放置する売国奴と、厳しく批判する事になる。


このようなイギリスとロシアの対立は連合軍の結束に綻びを生じさせるものであり、ドイツでの社会主義者による反戦活動やオーストリア=ハンガリー帝国での民族独立運動などが活発化する要因となった。

また、敵となるオスマン帝国には、同時に寄せ集めの連合軍恐るるに足らずとの印象を抱かせる事になり、前皇帝アブデュルハミト2世の嫡子であり、現オスマン帝国皇帝にしてカリフたるメフメト5世は、『今こそ全ムスリムはその信仰を守るために行動を起こすべきである』と布告した。これは事実上のジハードの布告だったが、それに応じたのは未だにイタリア王国との戦いを続けていたリビアのサヌーシー教団やアルバニアのいくつかの部族、イギリス領ソマリランドで抵抗運動を指揮していたサイイド-ムハンマド-アブドゥッラー-ハッサンだけだった。それらの多くは宗教的理由よりも列強諸国への反発が主な理由であり、特にリビアとアルバニアではイタリアによる統治への反発が強かった。


イタリアにとって高い組織力と団結力を併せ持つ、サヌーシー教団は存在そのものが厄介であり、その存在を認めることは出来なかった。また、リエージュ会議後にイタリアの保護国として定められたアルバニアでは、北部ではカトリックを信仰する部族であるミルディタ族の族長マルカ-ジョニを首相とする自治政府を作り上げ、南部ではイタリア語などと同じロマンス諸語であるアルーマニア語を話す少数民族であるアルーマニア人たちを積極的に登用していた。イタリア人と宗教的あるいは言語的に近しいものたちを優遇する事で、一種の分断統治を行なっており、それまでのアルバニアの主流派だったアルバニア人ムスリムたちは弾圧されていた。そうした不満が彼らをジハードに駆り立てていたのだった。


かつての十字軍はキリスト教世界対イスラーム世界の全面対決というイメージとは裏腹に、様々な思惑や利害関係が複雑に絡み合った戦争であり、双方ともに団結とは程遠いものだったが、20世紀の十字軍もまた団結とは程遠いものだったのである。

史実のメフメト5世はアブデュルハミト2世の弟メフメト-レジャドのことですが、こちらではアブデュルハミト2世の息子のメフメト-セリムが即位して、名乗っています。

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