第127話 越境準備(上)
1917年8月10日 ロシア帝国トルキスタン総督府直轄領 タシュケント 総督府
「なるほど、では中佐、そのシムコ-シカクとやらはこちらの提案を受け入れたのだな」
「はい、閣下、彼はこちらの計画に従って行動を起こすべく待機しているとの事です」
「ふむ、あの"トルコ人"…今まで半信半疑だったが、使い物になるようでよかったよ」
「総督、彼は"クルド人"では?」
「…中佐、我々にとってはトルコ人もクルド人も無いよ。ただ帝国のために役に立つ人間とたたない人間がいるだけだよ」
ラーヴル-ゲオルギエヴィチ-コルニーロフ中佐に間違いを指摘されたトルキスタン総督フョードル-エドゥアルドヴィチ-ケルレルははぐらかした。
ケルレルの言う"トルコ人"とはオスマン帝国の元外交官アブドゥルレザック-ベディルカーンのことで、ベディルカーンはクルド人ながらオスマン帝国の外交官としてペルシアやロシアなどに駐在していたが、やがてアブデュルハミト2世を批判してロシア帝国に亡命していた。ロシア帝国に亡命後は、アブデュルハミト2世への批判に加えてクルド人の独立を主張するようになっていたが、ロシア政府には相手にされていなかった。
ケルレルはベディルカーンに接触すると同時に部下であり、ペルシア情勢に明るいコルニーロフにベディルカーンの計画の実現性を探らせた。コルニーロフがマシュハドで接触したシムコ-シカクはホラーサーン地方のクルド人の指導者の一人だった。
ホラーサーン地方北部にはサファヴィー朝を建国したイスマーイール1世による強制移住の結果、少なからぬ数のクルド人が居住していた。さらにアラベスターンのアラブ人の反乱を切っ掛けにペルシアが混沌とし始めるとペルシア北西部に暮らしていたクルド人の中には、かつての同族の子孫を頼ってホラーサーン地方北部へと移動し始める者たちもいた。しかし、こうしたクルド人の急速かつ大規模な流入は現地のペルシア人はもとより地元コミュニティに根付いていたクルド人からも大きな反発を受け、西から逃れてきたクルド人たちは孤立し、生きる為に盗賊となるものも多かった。もともとはクルド人の一部族であるシャカク族の長に過ぎなかったシムコ-シカクはそうした盗賊としての活動によって名を挙げた男だった。
コルニーロフはシカクと接触する中で、シカクがクルド人として強い意識を持っていることや、クルド人国家の独立を願っている事を知り、ケルレルがベディルカーンに書かせたクルド人の決起を促す内容の書簡を手渡した。シカクは快諾し、後はトルキスタン総督府指揮下のロシア軍が"治安維持"のために越境するのを待つだけだった。
「…しかし、今回の軍事行動…政府が許すでしょうか」
「恐らく、ペトログラードは大慌てだろうな。だが、だからこそ良いのだ」
「と言いますと」
「ペルシアで戦っているのはペルシア人だけではないからだ。我らと同じ正教徒であるアルメニア人、今回君が引き入れてきたクルド人はもちろんだが、フーゼスタンで反乱を起こしたアラブ人や隣接するインドを支配するイギリス人、そして、特定の民族という訳ではないが反乱軍と手を結んだ共産主義者だ」
「カフカスから逃げ出した連中ですな」
「そうだ。そして我が国は今イギリス資本の導入を積極的に進めている最中だ。だが、イギリス人はインドの隣接地域であるペルシアに我が国の勢力が及ぶことは好まんだろう」
「…ペトログラードが金蔓のイギリス人と我が国にとっての明白な脅威となる共産主義者どちらを重視するか、確かめようという事ですか」
「その通りだ」
「しかし、総督」
「何かね中佐?」
「ペトログラードが何らかの妥協をする可能性もあるのでは?例えばイギリスとのペルシアの分割協定の締結や共産主義者の排除を目的とした体制側への大規模援助、逆に共産主義者の排除を条件にした反乱軍への支援…あるいは、もっと直接的に共産主義者の指導部の暗殺などです」
「そう言った可能性は、考えて見たがな…まず最初の分割協定だが、イギリス人は現在我が国に対して多くの投資を行なっている。そう言った経済的な優位を元に自国に有利な協定を結ばせようとするのは明らかだ。腹立たしい事に我が国は先の大戦で最初に手を挙げた国だと思われているからな。次に共産主義者排除のためのペルシア政府あるいは反乱軍に対する援助だが、我々はペルシア人の反感を買い過ぎている。私がペルシア人ならばロシアを揺さぶるための手札の一つとして取っておくだろうな。そして最後だが、それついては今まさにペルシアで共産主義者が戦っているという事実がその答えだ」
「と、いいますと」
「…社会革命党が合法路線に転換し、モスクワでレーニンという過激派指導者が姿を消した。彼らの信じる共産主義革命という希望はロシアから消滅しようとしている。にも拘らず奴らは戦いを止めようとしていない。何故だと思う?」
「思想的な要因でしょうか」
「…戦いは終わる事は無いとおもっているからだよ。厄介な事に連中の信じる思想は、一見とても科学的でそれでいて普遍的だ。いくら弾圧を続けてもその思想に感化されるものは必ず出てくるだろう」
「つまり、指導部を殺したところで戦いは末端組織によって継続されるという事ですか」
「その通りだ。それならばロシア帝国の総力をもってペルシア侵攻を行ない、連中を根絶やしにした方が良い。無論、頭も末端も全てだ」
「…もし、政府が帝国の安全よりイギリス人への配慮を優先したらどうします」
「その時は…行き先が変わる事になるだけだな」
「と、いいますと?」
「ペトログラードかあるいはそこにたどり着く前に捕らえられて刑場送りか、そのどちらかだろうな。まあ、銃殺されるよりは愛国者として戦って死んだほうがマシだがな」
「それは…」
あまりにも呆気らかんと反逆者として死ぬ可能性に言及したケルレルに対しどう返答しようかコルニーロフは悩んだが、コルニーロフが喋るより前にケルレルは机の中から一枚の手紙を取り出した。
「総督、これは?」
「手紙だよ。ペルシアから帰ったばかりで済まないがな、これをクルスクに届けてくれ。直接だぞ」
「クルスクですか」
「うん、私の甥っ子がいるんだよ」
「甥っ子…まさか」
ケルレルは優秀な軍人として知られており、それ故にトルキスタン総督を任されていたのだが、彼の甥はケルレル以上に優秀な軍人として知られていた。それが騎兵将校フョードル-アルトゥーロヴィチ-ケルレルだった。
そんな人物に親族とはいえ下手をすればロシア帝国に対する反乱と見なされかねない計画を練っている人物が手紙を、しかも郵便ではなく防諜の為、自分を使者として送る、と聞いてコルニーロフは嫌な予感しかしなかった。




