第125話 奇妙な実験
1917年7月10日 フランス共和国 パリ 7区 ブルボン宮殿 代議院 議場
「賛成多数によりルロー=ドゥガージュ議員提出の本法案は可決…」
「反対、我々はまだ納得していないぞ」
「何が賛成多数だ、ふざけるな」
「社会主義者と手を組んだ自由人民行動党を許すな」
「反動勢力と妥協したゲード派は猛省せよ」
「本法案は民主制に対する冒涜である」
「一人一票の原則を崩すという事は許されない」
「どのような形であれ女性参政権には断固反対する」
反対の声が議場に満ちる中、議長は法案が可決されたことを告げた。
フランス第三共和制の下院である代議院では、この日投票権を定めた法律である従来の法である1889年2月13日選挙法に代わり、後に1917年7月10日選挙法、またはルロー=ドゥガージュ法と呼ばれる新選挙法が成立した。
この法律の特徴は2つあり、1つはある女性参政権をフランスの法としては初めて認めた事だった。
選挙権を得る条件は21歳以上のフランス国民の女性である事だった。被選挙権については定められなかったが、これは女性参政権を認めていた他国、例えばニュージーランドなどでもまだ被選挙権については認められていなかったことを考えるとごく自然なことだった。
そしてもう1つの特徴はその女性が行使できる投票権は子供の数に応じて加算されるというものだった。
例えば、子供が1人いる家庭ではその女性本人に加えて1票、つまり、2票を投票する事ができるというものであり、こちらは今までにない特徴だった。
基本的に近代的な議会においては一人一票が原則だからだ。にも拘らずその原則を覆すような法案が提出されたのはフランスの抱えた特有の事情があった。
フランスはフランス革命にはじまり、ナポレオン戦争に終わった長い戦争の後遺症から未だ抜け出せておらず、仮想敵国であるドイツ帝国に対して人口では劣位にあった。そしてそれは第一次世界大戦でさらに加速したのだった。
そのため、共和主義者連盟所属議員であるアンリ-ジョルジュ-ルロー=ドゥガージュは、限定的女性参政権付与を通じて人口回復を図るべくこのような奇策を採用したのだった。
最初は共和主義者連盟内部でも真剣に考えられなかった提案だったが、党内右派指導者で保守的なカトリックだったヴィクター-ペレが賛成意見を表明するとそこから一気に動き始めた。
ペレは、この法案を通して伝統的な社会の再構築を目論んでいた。
フランスを代表する極右組織となったアクシオン-フランセーズの指導者シャルル-モーラスは、かねてより女性参政権を主張していた。理由は簡単で女性の方が男性より保守的であり、故に女性に参政権を付与する事は社会全体の保守化を促すと考えていたからだった。
そして、この時のアクシオン-フランセーズは後発組織であるセルクル-プルードンに対抗すべく宣伝活動を活発に行なっていたため、そうした言説はペレも耳にした事があった。そのため、右派ではあったが、共和主義者でもあったペレはルロ=ドゥガージュの法案成立を後押しする事で、保守的な共和主義に基づくフランスを作り上げようとしたのだった。
そして、ペレは共和主義者連盟指導部の説得に取り掛かった。中道保守を掲げる最大政党ではあるものの、現状では中道左派の急進党との連立によって何とかブリアン政権に閣僚を送り込めているに過ぎない共和主義者連盟としては保守層の支持を画期的に増やせるかもしれないこの法案に乗ったのだった。
ペレは右派の少数政党である自由人民行動党にも声をかけた。自由人民行動党は勢力的には大したことは無いのだが、この政党は元々オルレアニストだったジャック-ピウが共和国への協力を求めたローマ教皇レオ13世の要請に応じて設立した共和主義的な右派政党だった事から、いわばローマ教皇お墨付きの政党ともいえる政党だったが、オルレアニストから共和制の擁護ともいえる政治姿勢に転換した事からあくまで共和政治打倒を訴えるアクシオン-フランセーズからは一方的に敵視されていた。
そうした政党がこの法案を支持する事により、女性への参政権付与という右派的には拒否反応を引き起こしかねない革新的なこの法案を円滑に通そうと考えたのだった。
さらに、法案の賛同者はペレが全く予想していなかった所からもあらわれた。ペレにとっては皮肉な事に左翼の最大政党であるフランス社会党内部からも賛同者が現れたのだった。
当時のフランス社会党内部では、積極的に閣僚など送り込む事によって斬新的な改革の実現を目指すジャン-ジョレスとあくまでも反政権の立場を取るべきだと訴えるジュール-ゲードの両者が対立していた。
社会党内部でこの法案に賛成したのは意外な事に反政権の立場を取るゲード派だった。
ゲード派が賛成したのは、当時のフランスで唱えられていた優生学への反対のためだった。
元々、フランスの優生学はアナキストのポール-ロビンなどが中心に提唱していたものだったが、1913年に設立されたフランス優生学会は名誉会員に急進党議員で元インドシナ総督のポール-ドゥメールがいた事からわかるように急進党よりの組織だった。
フランス優生学会では、ノーベル生理学-医学賞受賞者でもあるシャルル-ロベール-リシェなどが中心となって議論を行ない、劣った人種とされた有色人種との婚姻の禁止の他、また白人であっても犯罪者や障害を持った人間の断種を提案した。
しかし、こうした見解、特に後者は社会主義者たちによって問題視された。犯罪者の定義があやふやなものであったため、自分たちの支持層である労働者たちが多くを占める下層階級ばかりが狙われるのではないかと疑念を引き起こした。実際、アメリカで優生学に関する著作をいくつか執筆した作家であるロスロップ-スタッタードは断種とまではいかないまでも下層階級の避妊を提案していた。
こうしたことから、社会階層に関係なく人口増加を促す法案であるルロー=ドゥガージュ法が成立する事は下層階級である労働者の増加に繋がり、結果としてフランス社会党にとって有益であるとゲード派は考えたのだった。
もちろん、優生学会に強い影響力を持っていた急進党やその急進党と協力しようと考えていた社会党ジョレス派、また、アクシオン-フランセーズと同じく風変わりな右派政党ではあったがアクシオン-フランセーズとは敵対政党であったセルクル-プルードンなどはルロー=ドゥガージュ法に反対票を投じたのだった。
ともあれ、その後このルロー=ドゥガージュ法は上院でも通過し、のちにフランスの奇妙な実験と呼ばれる人口増加策はこうして始まる事になったのだった。
女性の投票数を子供の数だけ増やすという提案は1923年に実際に行われたものですが、当世界では第一次世界大戦の勃発がはやまったため、提案も前倒しなるかなと思って早めました。
あとロスロップ-スタッタードが優生学に関する著作を書き始めるのも本来は20年代に入ってからなのですが、こちらについても前倒ししてます。愛国党の勝利などからもわかる通り、反移民感情が強いので、その影響です。
ジャン-ジョレスが生きているのは…まあ、歴史の変化の結果という事で




