第123話 不満とジャズ
1917年6月22日 ブラジル合衆国 リオ-デ-ジャネイロ 某所
「では、政府はやはりアメリカを選ぶという事か」
「その可能性は高いと思われます」
「…せっかくここまで来たのだがなぁ。"元帥"が知ったら何と思われるか」
「今の大統領が"元帥"が大統領をされていた時の副大統領だったことを考えると、もしかすればすでに話はまとまっていたのでは?…いずれにしても、今後は我々のようなドイツ留学組の肩身は狭くなるでしょうな」
「…アメリカの選挙で愛国党が政権を取ったのがまずかったな、今後はアメリカの裏庭である我がブラジルをはじめとする南米諸国への締め付けが強まると思って先手を打ったのだろうが…そろそろ我が国も自立してしかるべきではないのかね」
「いずれにしても政府があの様子では無理でしょう」
そう言って話していた男たちはため息をついた。男たちは皆ドイツ帝国への留学経験を持つブラジル陸軍軍人だった。
19世紀末にブラジル帝国が革命によって倒れる事で成立したブラジル合衆国は、ゴムや鉄鉱石をはじめとする多くの資源を産出する資源大国であり、それらを利用して南米の大国として順調な滑り出しを…しようとして失敗した。
革命後のブラジルでは混乱が絶えなかった。とくに北東部のベルナンブ―コ州のカンガセイロの名で知られる匪賊(民衆からは義賊としてもてはやされた)と南部のパラナ州とサンタ-カトリーナ州ではホセ-マリア-デ-サント-アゴスティーニョを指導者とする千年王国思想に基づいたカルト集団による反乱は鎮圧までにかなりの時間を要した。
一方でそれらの反政府活動に対応すべき軍は、時代遅れの装備と腐敗した将校に士気を欠いた兵士たちという最悪の状態にあった。
そこで、前大統領であり、南部のカルト集団による反乱鎮圧の功労者でもあるエルメス-ダ-フォンセカは軍人時代から進めていた軍改革を1910年の大統領就任後に本格的に推し進めた。
フォンセカの進めた改革、それはドイツ帝国に対して留学生として若手将校らを派遣し、合わせてドイツ帝国からも軍事顧問を招くというものだった。
これらの改革は主に陸軍が中心だったが、この改革が軌道に乗ればブラジルは列強諸国にも劣らない存在にもなれるはずだった。
この政策はフォンセカの1914年の退任後もその後継者となったヴェンセズラウ-ブラスが中心となってさらに推し進められた。
しかし、先年のアメリカ大統領選挙の愛国党の勝利を受けて、ブラス政権は急遽方針を転換する。
大統領となったセオドア-ルーズベルトは棍棒外交で知られた人物であり、西半球においてアメリカ以外の国家が覇権を確立する事を好まない人物であり、それを理解していたブラスはドイツからの軍事顧問団の招聘、兵器の購入及びドイツへの留学生の派遣を取りやめて、代わりにアメリカを新たなパートナーを選んだ。
このあまりにも急な方針転換にドイツは激怒し、アメリカは困惑しながらも称賛した。
こうしたブラス政権の極端なまでの対米追従外交はそれに振り回される形となった軍人たち、とくに失脚したドイツ留学組を中心に大きな反発を招く事になった。
「うん?、この曲は何だね?」
「最近、バイーアの黒人たちの間で流行ってるやつみたいです…たしかジャズとかいったかな」
「ジャズ?、ポルトガル語ではないようだが…何語かね?」
「英語だそうです」
遠くから聞こえてきた音色は、彼ら軍人たちの耳にはなじみのないものだった。それは慣れ親しんだブラジルの音楽でもなければ、ドイツで体験したヨーロッパの物とも違う音楽だったからだ。
元々、ジャズという言葉は熱狂を意味していたが、時として卑猥な意味を持って使われることもあったアメリカ南部のスラングだった。
それが特定の音楽を指すようになったのは20世紀に入ってからだった。
切っ掛けはラグタイムと呼ばれる奴隷解放後の黒人たちによる音楽だった。このラグタイムは黒人、白人といった人種を問わず演奏されたが、政治的、人種的な対立がそれ以上の発展を阻害する事になった。
当時のアメリカは、黒人による新興宗教ムーリッシュ-サイエンス-テンプル-オブ-アメリカが黒人たちによって熱狂的に支持されており、南部ではそれに対抗するべくクー-クラックス-クランの再結成が行なわれるなど多くの問題が起こっていた時期だったためだった。
こうした事を受けて音楽業界などでも『アフリカ的な』音楽は徐々に敬遠されるようになっていった。
一方、アメリカ以外の国ではまた別だった。
ムーリッシュ-サイエンス-テンプル-オブ-アメリカはアメリカ以外でも布教活動を行なっていたのだが、特にブラジルでは熱心にその布教を行なっていた。
ポルトガル植民地時代にサトウキビ栽培を目的に導入された奴隷制度は独立後も続き、1888年に奴隷制を廃止するまで黒人たちは依然として奴隷として扱われていた。
しかし、奴隷制廃止後は主にヨーロッパ的な人権思想を理想とする知識人たちはカンドンブレのような黒人民間信仰をはじめとした黒人文化を称賛し始めた。これにはブラジルを『進歩的』な国にしようとする知識人たちと、奴隷解放後に『市民』となった黒人たちを支持者として取り込みたいという政治的な思惑があったからなのだが、ともかくブラジルには表向きには『アフリカ的な』ものが受け入れられているように見える社会が完成していたのだった。
こうしてムーリッシュ-サイエンス-テンプル-オブ-アメリカは、ブラジルの黒人文化の中心地バイーア州サルヴァドールを拠点に布教を開始した。だが、ブラジルの黒人たちの心に響いたのはその教義ではなく、彼らが持ち込んだ音楽だった。ルイジアナ州ニューオーリンズの黒人ミュージシャン、バディ-ボールデンがラグタイムにブルースやゴスペルの要素を合わせて作り上げたニューオーリンズスタイルと呼ばれるものだった。不幸な事にボールデン自身は精神を病んでこの時すでに病院の中だったが、その音楽は不滅だった。
その音楽は熱狂的に受け入れられ、やがて、その音楽そのものが熱狂を意味するスラングから"ジャズ"と呼ばれる事になった。そうした情報はアメリカにも伝わり、ニューオーリンズなどから黒人ミュージシャンなどが活躍の場を求めてバイーアを訪れるようになり、のちにバイーアは"ジャズ"の聖地と呼ばれる事になる。




