第122話 後退と前進
1917年6月4日 アメリカ合衆国 ニューヨーク州 ニューヨーク市 マンハッタン ニューヨーク-ワールド-ビルディング ニューヨーク-ワールド紙 社長室
1890年に竣工した当初には世界一高いビルだったこの建物には、その名の由来となったニューヨーク-ワールド紙の本社があった。
そしてこの日、ニューヨーク-ワールド紙の社長室を訪れた一人の民主党所属の州議会上院議員がいた。
「今日はわざわざ御時間を作っていただきありがとうございます。ピューリッツァーさん」
「いえ、こちらとしてもニューヨークの民主党改革派のリーダーであるルーズベルト議員にお会いできて光栄です」
そう言って、社長室に案内されてきた民主党所属のニューヨーク州議会上院議員、フランクリン-デラノ-ルーズベルトとニューヨーク-ワールド紙社長ラルフ-ピューリッツァーは握手を交わした。
ラルフ-ピューリッツァーはピュリッツァー賞の創設などで有名なアメリカを代表するジャーナリストであるジョセフ-ピューリッツァーの息子であり、ピューリッツァーの死後はその後継者としてニューヨーク-ワールド紙の社長となっていた。
「それで、今日ここを訪れたのは…」
「わかっておりますとも。反"ホール"の活動への支援をしてほしい…そういうことですな?」
「理解が早くて助かります…では…」
「生憎と直ぐに決断する事は出来ません」
「何故ですか、市長選は11月に迫っているんですよ。直ぐに決断しなければ"ホール"を利する事になるだけです」
「…ですが、反"ホール"を掲げる事は、民主党以外の全て勢力を利する事になる。まして愛国党が次の市長にしようとしているのは、あのハーストです。彼にだけは勝たせるわけにはいかないのです。その理由はお分かりでしょう?」
ピューリッツァーは断固たる決意を込めてそう言った。
ハーストとピューリッツァーの父であるジョセフ-ピューリッツァーは双方の所有する新聞の売り上げを確保するために激しい競争を行なっていたことで良く知られていた。晩年、ジョセフは良きジャーナリズムが確立される事を願ってピューリッツァー賞の創設以外でもコロンビア大学にジャーナリズム大学院を創設するためにその財産の一部を提供したが、ジョセフ自身はハーストと並ぶ悪しきイエロージャーナリズムの代表格だった。そして、ハーストとジョセフの競争はジョセフの死によってニューヨーク-ワールド紙の事実上の敗北に終わっていた。
息子のラルフとしてはいくら"ホール"を潰すためとはいえ、そのためにハーストを市長として当選させるなどありえない話だった。
「たとえそれが、合衆国を侵す害悪を生きながらえさせることに繋がるとしてもですか、ピューリッツァーさん?」
「…私が言いたいのは、そう急ぐことも無いだろうという事ですよ」
「そう急ぐことも無いだろう、ですか…では、一体いつまで待てばいいのですかね?」
「…それは私にもわかりません。ですが、必ずその機会は訪れます。今はただそれを信じて耐えましょう」
ルーズベルトは激しく打ちのめされ、それ以上何も言う事が出来なかった。まさかここまで、消極的だとは思ってもいなかったからだった。こうして、ルーズベルトの掲げる改革は一歩後退する事を余儀なくされるのだった。
1917年6月10日 アメリカ合衆国 フロリダ州 ペンサコーラ 海軍航空基地
「どうだね。タワーズ君?」
「はい、順調です中佐」
「サンディエゴからここまで飛べたのだからな。何度か試験飛行を重ねたら、次は大西洋横断だ」
「はあ…しかし、中佐…」
「そう心配そうな顔をするな、君ならやれるさ」
アメリカ海軍所属の操縦士であるジョン-ヘンリー-タワーズ少佐は上官であるウィリアム-アジャー-モフェット中佐の言葉を聞いても未だに不安そうだった。
「別に大西洋を越える航空機を飛ばすだけならば、あれでもいいのではありませんか?」
そう言って、タワーズが見た方向には操縦士のいない航空機があった。その名をヒューイット-スペリー-オートマチック-プレーンというその機体は後にスペリー社として知られることになるスペリー-ジャイロスコープ社の創設者で発明家のエルマー-アンブローズ-スペリーと水銀灯や水銀整流器の開発で著名な発明家ピーター-クーパー-ヒューイットがアメリカ海軍の要請で共同開発した、飛行爆弾あるいは無人航空機というべき代物だった。初期のころは失敗ばかりだったがカール-ルーカス-ノルデンによるジャイロの改良などの結果、普通の航空機と変わらない様に飛行できるようになっていた。
「あの機体にしても、離陸時には人の手を借りねばならないのは変わらないからな。なんでも将来的には全て無人でできるようにするつもりらしいが…私として飛行船から飛ばしてはどうかと考えているんだがね」
「飛行船ですか?」
「うん、航空機と違って長時間待機できるからな。必要な時まで待機しておいて、そのあとすぐに攻撃できる。洋上哨戒なんかにも使えるだろうな」
「はあ、そうなると航空機は…」
「そっちにも使い道が無いわけじゃない。飛行船は哨戒やあらかじめ待機しておくのには有利だが、やはり戦場の真ん中で偵察を行なうのであれば、航空機のような速度と身軽さが要求されるからな。それに敵機がこのアメリカに侵入しようとしてきた際の迎撃にも使えるしな…タワーズ君、君に敢えて航空機で大西洋を越えてくれと私が言ったのは、何故だと思う?」
「わかりません」
「誰もがその可能性を考えていないと思ったからだよ。大分前に英仏海峡を初めて航空機が飛んだ時、イギリス国民はドーバー海峡とロイヤルネイビーという今までイギリスを守ってきた鉄壁の防御が敗れ去った事を実感したそうだ。だが、我が合衆国には未だそんな衝撃的な事は起こった事が無い。先の大戦にも不参加だった合衆国では未だに多くの人間が大西洋と太平洋という壁が合衆国をいつまでも守り続けてくれると信じている。だから、タワーズ君、君には大西洋の向こう側まで飛んで行ってそんな時代遅れの壁など最早意味をなさないという事を証明してほしいのだよ」
「わかりました。中佐。必ずやり遂げ見せます」
タワーズはモフェットの言葉に力強く返事をした。こうして、大西洋横断飛行に向かって、また一歩前進したのだった。




