第101話 初顔合わせ
1916年9月19日 大日本帝国 東京 京橋区 木挽町 帝国国際情勢研究所本部
その日、山本条太郎は新たな職場への道を急いでいた。新たに設立される帝国国際情勢研究所、半官半民のシンクタンクだった。
研究所の設立の音頭を取ったのは、山本も所属していた近東及び巴爾幹問題調査会の面々だったが、予算規模の関係もあり流石に調査会の全員を所属させる事は出来ず、また、各省の面子や思惑もある為、調査会の中から選ばれた人員と政府の諸官庁からの出向者で構成される予定であり、今日はその初顔合わせが行なわれる予定だった。
帝国国際情勢研究所は各省庁や政党の垣根を超えた超党派の組織という事になっているが、実際の所は国際寝台車疑獄事件で総辞職した星内閣に代わろうとした進歩党を、予想に反して抑え込む事に成功して、成立した原敬内閣の意向を受けて政友会系の人間が多かった。
(まあ、進歩党が政権を取ったら、次は進歩党の人間が増えるのだろうなぁ。まあ、失職しないようにどこかで"口利き"はあるだろうが)
山本は何とも言えない気分となった。政友会、進歩党の二大政党制が確立されて以降、大日本帝国は常にこの2つの政党を中心に動いていた。政権自体は政友会が担当する事が圧倒的に多く、進歩党は第二次台湾出兵や第一次世界大戦などの政友会の失策によって何とか政権を取る事が出来たに過ぎず(第一次世界大戦に関しては日本の国際的評価が高まったという点を考えれば必ずしも失策とは言えなかったが、あまりにも大きな犠牲の割に得たものが少なすぎ、事実上の敗戦にも等しい、と進歩党は帝国議会で追及を重ねた結果、戦後の選挙で勝利していた)、表面上だけ見れば政友会の圧倒的有利だったが、相手を容赦なく叩き潰す事を好まない日本人らしく、実際には随所で妥協が繰り返されており、議会の勢力図が実際の政治に多大な影響を及ぼす猟官制国家ながらも、相手に対するそれなりの配慮をしながら政権運営をするのは大日本帝国の悪しき特徴だった。
(最近、民本主義が流行るのもまあしょうがないか)
民本主義とは政府は人民のために政権運営を行なうべきであり、そのために民意に基づいて政策を決定するべきであるという茅原崋山、吉野作造が提唱した思想だった。
実際には茅原と吉野の間には思想的な隔たりがあった(吉野が民本主義を民主主義に至るための通過段階と見做していたのに対し茅原はあくまでも一般国民の生活の向上を目的としていた)が、帝国議会の腐敗ともいえる現状を前に両者は今のところ団結していた。
更に中心人物である茅原が元々社会主義に批判的な人物であり、吉野の弟子にあたる福田徳三が市場経済を維持しながらの国家による社会保障を訴えた事によって、結果として反市場経済の社会主義的な思想とも決別を余儀なくされたことが逆に既存の政治とも社会主義とも違う第三の政治潮流としての地位を確立させる事になった。
最近では左派から転向した高畠素之がフェルディナント-ラッサールの著作の中から国家社会主義的なものを抄訳して、従来の社会主義路線とは違う国家社会主義を標榜して、これまた左派に打撃を与えていた。
高畠自身は自らの事を民本主義者とは認めていなかったが、転向の背景には民本主義の高まりが少なからず影響としてあったのではないかと言われていた。
山本は政府より宛がわれた研究所の中に入った。
ここはもともと福沢諭吉の建てた演説会用の施設である明治会堂が立っていたが、民権派の弁士と警官隊との衝突に嫌気の刺した福沢は農商務省に建物を売却した。
その後は厚生館と名を変えたが、何か行事あった際に思い出したかのように利用されるだけであり、1880年に専修大学の仮校舎として使用された他は特筆すべき利用がなされる事は無かった。
そこで今回の帝国国際情勢研究所の発足に伴い、旧厚生館は研究所本部として払い下げられる事となったのだった。
建物の中に入り、東亜課と書かれたフロアに入ると多くの男たちがせわしなく動いている中で、良く見知った顔を見つけた。三井時代からの後輩だった森格だった。
山本はすぐに声をかけようとしたが、途中で森がだれかと雑談している事に気が付いた。よく見ると雑談というよりは相手が一方的に森に対して話しているようであり、声をかけるのを少し戸惑ってしまった。
「山本さん、お久しぶりです」
やがて話が終わったのか、森は山本が声をかける前にそれまで雑談をしていた相手と共に山本の方へやってきた。
「お話は森さんから聞いています。外務省より出向しております。松岡洋右と申します」
森と話していた相手は松岡洋介と名乗った。アメリカへの留学経験を持つ秀才であるが、外務省入省後は欧米を重視する外務省の本流からは外れ、清国をはじめとする東アジア地域を重視しており、その扱いづらい性格もあってか、国際情勢研究所の発足に伴い半ば左遷のような形で出向させられた男だった。
もっとも本人の側も外務省にはうんざりしていたらしく、喜びながら出向の辞令を受け取っていたのだが。
後に松岡は山本の下でその才覚を発揮する事になる。




