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トラベラーズ・レコード  作者: くるい
至るべき世界
91/91

九十話 何もかもを失って

 戦いから数日が経過した。


 魔法都市アリュミエール全域を巻き込んだ戦争は終わりを迎えたが、被った損害は酷いものであった。

 魔神が齎した魔力の波によって魔法使いの大半は死に絶え、辛うじて生き残ったとしても再起不能な者が多い。


 また、住民の死者も多数発生していた。

 アリュミエールによれば次元を歪めて各地方へ繋げた緊急避難路が都市の様々な箇所に設置してあり、それが正常に起動していたため大多数は逃げ延びることが出来たとは言っていたが――。

 一度使えば避難路も閉じられてしまうため、樹海という天然要塞に囲まれたこの都市へと帰って来るのは不可能だ。


 結果的に、魔法使いの都市は壊滅した。

 再興を果たすには人手が足りず、魔神によって強力な爪痕を残された都市には現在もなお異常な魔力が蓄積し続けている。

 残された魔法使い達にこの残留魔力を適切に処理する余力もなく――この辺り一帯は、じきに魔物の巣食う異界と化すであろう。


「……っと」


 だが、俺達は都市からすぐに抜け出せる状況にはいない。

 人のいなくなった家を借り、そのソファへと座り込んだ俺は、吹き抜けとなった天井から空を見上げる。


 赤く、どす黒く染まった世界は解消された。

 どこまでも澄み渡る青い空が、大地を照らしている――今だけが、平和でいられる最後の時間なのだろう。


「この後どうしよう、って顔してるわね。まぁ、手詰まりは手詰まりだけどさ」

「サーリャか。どうした」


 その天井から、青い長髪を垂らす少女が一人。

 炎を思わせる紅蓮のローブをはためかせ、彼女は俺の隣へ飛び降りてきた。


「どうしたもこうしたもないでしょうよ。こんなところで何をやっているの?」

「少し思索に耽っていただけだ」

「ふぅん」


 魔法使いサーリャ。

 この都市における最強の十二人に数えられている彼女は現在、完全に魔力が枯渇して自由に動けない状況にある。


 原因は魔神との戦いによる魔力の酷使だ。

 限界を超えてもなお行使し続けた魔法の代償が、彼女を苛んでいた。


 魔力の欠乏症状。

 人体に魔力は必ず必要で、本来はある一定値までは魔力を身体に溜め込んでおかねばならない。

 それは何も魔法使いに限った話でもなく、生物であれば共通事項となっている。魔力は単なるエネルギーやリソースなのではない。この世界の生物にとって魔力は血液と同じであり、一定のラインを下回ると肉体機能に異常が発生する。


 そのため、本来であればそこまで魔力が枯渇しないような設計(リミット)があるはずなのだが、サーリャはその底まで魔力を絞り出してしまったために欠乏状態に陥っているわけだ。

 これは魔力を自在に扱う魔法使いだからこそできた芸当で、想定していない人体の状態故に――深刻である。


 無理に活動を続ければ、それが即座に死に繋がる状況だ。

 今こうして活動を続けられていることがそもそも異常であるし、それほどまでに彼女の肉体は消耗し弱りきっている。


 そんな状態にありながら、こいつはわざわざ俺に接触を図ってきた。

 俺は隣に座る彼女へと視線をやると、やがて重々しく口を開く。


「動いていいのか? お前は」

「魔力を伴わない行動ならね。休養が必要だと言っても、寝たきりじゃなきゃいけないわけではないから。あなたの調子こそどうなのよ?」

「俺か?」


 俺は自らの身体へ視線を落とし、ふむと頷く。


 動作におかしな部分はない。

 魔力による不具合もなければ、酷使した肉体の損傷も元通りに修復されていると言えよう。適応は上手く済んだ、というわけだ。


「肉体の最適化は済ませた。心配は要らん」

「いや意味わかんないけど」

「俺のことはいい。他の連中は?」

「……私と大体一緒よ。一部の連中は私ほどじゃないけど、全員キツイのに変わりないわね」


 やれやれと首を振りながら軽く言うサーリャにいつもの力強さはなかった。口調こそ常と変わらないが、無理をしているのだろう。

 ――それは、戦いを経た全員に共通していることだった。


 ガデリアはゲートの接続を断った時点で俺との繋がりを共有できなくなり、能力の一部を制限されている状態となっている。アリュミエールはそのゲートの維持に全力を注いで貰った上に俺やガデリアの補助を全て任せていたため、与えた負担が大きい。

 サーリャと同じく魔力が枯渇寸前になってしまった彼にも同じように休養して貰っている。


 魔晶を連続使用したノアに関しては反動が酷く、とても動けた状態ではなかった。

 魔力が尽きることはなくても、酷使した肉体は休ませねばなるまい。


 それはソーマも同じである。

 特殊な機構を組み込んだことで生まれる雷、その能力によって自在に変形する専用の武器――あんなものを長時間振るい続けていた肉体は、誰よりも酷く損傷していた。

 能力の過負荷により全身の禁繊維が酷い断裂を起こし、内臓に異常を来してしまっている。

 しかし、治療を行える魔法使いの魔力が枯渇している今、彼を治療することができないため、例のポッドの中に入れて眠らせている。


 リーゼも、あれから眠り続けていて目を覚まさない。


 つまるところ全員が全員満身創痍というわけで。

 影響がないのは、最早人の肉の身すら持たない俺だけだ。


「……ふむ。都市に魔物が巣食う前には脱出といきたいところだが、ひとまずは回復まで凌げる防備が必要か。ならば、そうだな――」

「――レーデ」


 俺は思案するのを止め、ソファに深く沈み込んでいるサーリャと視線を合わせた。

 彼女は俺から視線を逸らすよう下を向き、それから覚悟を決めた面持ちでゆっくりと顔を上げる。見つめる三白眼の瞳――瞬きが一つ。

 彼女は一呼吸を置いて、言った。


あの子(リーゼ)は何も言わないけれど、私は確証を得て、あなたに聞くわ。話してくれる気は――ある?」


 そう言った彼女の目がうっすらと細められる。俺は彼女の表情を確かめて、ああと頷いた。


「知っているんだな」

「予想が付いているだけ。私はあなたじゃなく、イデアを知っているわ」


 サーリャは魔物の動向を独自に追っていたのだ。

 アウラベッドなどの魔物を追う上で、彼女に近付く機会はあったのだろう。


 ならば、そろそろ開示すべきだ。

 どのみち俺がこのことを隠している意味ない。後は、本人が信じられるか否かだけだ。


「お前の予想している通りだよ。俺はこの世界には存在しない。遥か天上からやってきた、神だ」

「そう。何をしに此処へ来たの?」


 やはり彼女は驚いた様子もなく、次の問いを投げてくる。

 彼女が不安に感じていたのは俺の存在そのもの。神という俺の立場をこそ知りたがっている。

 ならば、言うべきはこれしかないのだろう。


「だが、俺はイデアの敵だ」

「それを証明する手段は?」

「ない。俺が此方側にいることだけが、俺の全てだ」

「……分かったわ」


 彼女はそれだけを言うと右手で後頭部を引っ掻いた。

 微妙な表情、思案げに揺らめく瞳がはっきりと俺の目に映る。


 やはりこれだけでは伝わらないのだろう。

 何も伝えられない。本当に俺の意図を説明したいのなら――俺は、()()を話さなくてはならないだろう。


 俺は両手を組み、前屈みに態勢を変える。

 ちらと隣へ視線だけをやり、しきりにこめかみを小突くようにしていた彼女を一瞥する。


 だとすると――何から、話すべきか。

 組んでいた両拳を額に当て思考の海に沈み込む。


 少しの間そうしてから、右側で頭の整理を付けている彼女へ俺はこう伝えた。


「代わりに、お前には俺の全てを教える」

「……は?」

 眉をひそめた彼女へ、

「俺が()となる前の話をしよう。何故俺が奴と――イデアと敵対しているのか、その末路を語ろう。それを以て、俺が敵であるか否かを判断してくれ」

「え、いや……いいわけ? そんな、簡単に」

「近い内に話すつもりではあったんだ。それに、既にガデリアとアリュミエールは知っている」


 狭間に置かれた世界では無限に等しい時間があったからな。

 こちらで話すには少々、長話になるやもしれんが……。


「――なら。判断させて貰うわ、話して」


 彼女は俺へと身体を傾けると、ゆっくりと顔を上げる。


 その言葉に俺は小さく頷いて。

 最初の台詞を頭の中で選びつつ、話し始めた。


「この世界ではない、昔の話だ。それは俺が、神へと成る話――」

 ――些細な、とある世界の物語。


 ぽつりぽつり、記録を頭で辿りながら、俺は彼女へ伝える。

 滔々と語る。


 覚えていないけれど、俺が記録し刻んでいった話を。

 神へと至り、俺がイデアと行ってきた救世の話を。

 そして俺が無様にもイデアから逃げ出すことを選んだ――そんな話を。


 なるべく覚えていることを全て。

 俺の全てを、サーリャへと伝える。


 話が終わるまで、彼女はただ静かに聞いていた。


 ――やがて。


「そう」


 最後の台詞を終えた時、彼女はそれだけ言って口を閉ざす。しばらく間が空いて、返答を待っていた俺に――彼女は、こう言ってきた。


「それが、あなたの正体なのね」

「思ったよりも滑稽だろう。笑うか?」

「笑えやしないわよ。酷く、錆び付いた話を聞かされたわ。よく今日までそんな感情で生きていられた(・・・・・・・)わね」

「死に続けているだけだ」


 否定すると、彼女はわずかに表情を曇らせた。


「それで。探していたものは見つかったの?」

「見つかっていたら俺はとうに死んでいるさ。だが、折り合いはついた」

「それが、神様(イデア)との決別だと?」

「決別はしない、いいや出来ない。そして俺が死ぬことすら出来ないことを、俺はようやく理解した」


 記憶すらも摩耗するような長い歴史を歩み、やっとのことで理解したその結末。なんと、小さなことだろうか。

 俺がそれに気付くのが遅かっただけで、答えはどこにでも転がっていたというのに。


「俺は、俺の意志というものを今まで伝えたことがなかったのだ、ということに気付いてな。俺の旅路はそれだけの事を理解するためのものだったとさえ思う。だから俺はこの感情を奴に伝えよう、その為に俺は奴の敵となる。その後は、まあ何も決めていないが――」


 胸の奥。ぽっかりと拳大に空いた、空虚な感情。

 心の奥底に沈められたそれを押し込めて、いつまでも引き上げなかったからこそ、俺はこうして死に続けている。

 果たして奴に最初から感情をぶつけていたのなら、俺は今頃どうしていたのだろうか。


 だが、それもまた無駄ではないとも思うのだ。

 何故なら俺には終わりがない。ならば、今からでも遅くはないだろう。


「そう。なんか色々言いたいことはあったんだけど、あなたのそんな顔見たら全部吹き飛んだわ」


 サーリャは首を傾げると、苦笑しながら立ち上がった。


「俺が? 可笑しな顔をしているつもりは」

「――それ、リーゼには話していないんでしょう」

 無視して彼女は続ける。

「さっき目を覚ましたわよ。状態は良好、意識も正常――あの子はあなたのことを捜していたわ」

「……そうか」

「あなたから話を聞きたかったのは本当。でも、私はもういいわ。会いに行ってあげなさい」


 こちらを振り返ることなく言い終えると、彼女はさっさと部屋を出て行ってしまう。


 俺の所へ来た一番の目的はそれだったのか。

 だから、俺の正体だけを確認しようとして。


「――そうか。目を覚ましたか」


 思えばどれほど時間が経過したのか。

 俺も遅れて立ち上がる。


 戦争の後、俺達は比較的被害の少ない空き家を使って休息を取っていた。ノアが最初こそ抵抗の意を見せたが、今後魔物が蔓延る以上は誰も使えぬ家などに遠慮する必要はない、とはガデリアの言。

 それでノアも納得し幾つかの家を借りたわけで、その内一番被害がなく頑丈な家の寝室にリーゼを寝かせていたはずだ。

 捜しているとは言ったがサーリャが俺を迎えに来た以上、リーゼは自力で部屋から動いたりはしていないはずだ。


 俺は一度片手で眉間を揉み込み、ぼろぼろの上着を手に取って羽織る。歩きながら袖に手を通しつつ、先に袖の通った右手の平で一度額から顎先までを撫でた。


 無精髭も伸びたものだ。触るとそれが良く分かる。

 まぁ、折を見て剃るとしよう。


「――俺を心配しているのだろうな、あいつは」


 早く会いに行ってやらねば、と。自然に足が動いた。






 ◇






 リーゼはベッドから上半身を出してぼうっとしていた。


 彼女は半分ほど瞼を落とし、窓の外を眺めている。

 起床はしているが意識は希薄だった。彼女から普段感じられていたハズの強烈な存在感は、今では見る影もない。

 幽霊のようにぼうっと――何かを捜しているような、目で。


「レーデ、さん?」


 傍まで寄ると、ようやく彼女は俺の方を向いた。


 びく、と震わせるような仕草を一つ。

 目を見開き、驚いた素振りが一つ。

 そのまま停止して、数秒の時が流れる。


「あぁ、俺だ」


 どこか違和感があった。それを感じ取った俺は数秒だけ彼女を注視するも、その違和感は不明のまま。

 驚いただけではなく、恐怖――だが俺に怯えたわけでもなさそうだ。そんな動きには見えなかった。俺を捜していたのだから、それは当然であろうが。


 けれど、微妙な違和感は拭えなかった。

 いつもの彼女ではないのは承知の上だったが……何だ、この感覚は……気のせいか?


 俺は僅かに首を捻った。

 気取られない程度に様子を窺いつつ、ベッド横に設えてある椅子に座る。


「レーデさん……良かったです。やっぱり生きていたんですね」

「何とかな。長らく離れる羽目にはなったが、こうして無事に生きている(・・・・・)


 そう言うと、彼女は薄く笑みを引く。

 どこか安堵したような顔で、俺に手を差し伸べてきた。俺も同じように手を伸ばすと、予想に反して彼女の手は俺の腕をすり抜け、頬に触れてくる。


「……なんだ?」

「そんな顔をしたレーデさんは初めて見た気がします、私」

「そう、か」


 同じようなことを先ほども言われた気がしたが、さっぱり分からない。

 俺はわずかに顔をしかめ、話題を逸らす。


「リーゼ。身体の調子はどうだ? 力に異常を来していることも、不調続きで無理矢理力を使ったことも聞いている」

「――あ、ええと……とりあえず意識の方は。もういきなり眠ったりはしないと思います」


 力の不調というより喪失か。

 彼女にあるべきはずの力が彼女の中から抜け落ちた結果、代償と負担だけが彼女に残った――それが不調と長期昏睡の原因。


 その状態にありながらも勇者の力を振り絞っていたのだ、見た目以上に調子は悪いはず。


 しかし――彼女から勇者の力が消えたわけではない。

 ベッドに寝かせた時、彼女を見たガデリアはそう判じている。


 曰く、力だけを掠める要因が彼女と勇者との中間に存在しているのだと。それはリーゼに降り注ぐはずの力だけを奪い、その代償だけをリーゼに押し付けている、と。


 原因があるとすれば――恐らくヲレス・クレイバー。

 俺が関われなかったタイミングで彼女に何かを仕掛けられるような存在と言えば、俺にはアレ以外思いつかないのだが……。


「あの、レーデさん」


 考え込む俺に、リーゼが顔を近付け声を掛けてくる。


「私、ちょっと記憶が曖昧で……これまで何があったのか、簡単でいいので教えて貰ってもいいですか?」

「記憶? まさか無くなっているのか?」

「いえ。そうじゃないんですけど、起きている時も意識が続かなくて……」


 力を失ったことによる対価。本来の許容量を大幅に超えた代償。勇者の維持なくしては肉体の摩耗を抑えられず、意識が保てない――か。


「分かった。伝えられる事項は伝えよう。まずは、お前と別れてからのことを話した方が良さそうだな」

「はい。お願いします」


 リーゼは少しだけ頬を緩ませ、弱々しく頷いた。

 目元の隈と生気の薄い瞳――このまま起こしておくのも辛いだろう。


 ひとまず彼女を仰向けに寝かせた。

 会話は問題なく行える。俺には彼女の状態を専門的な目で把握することができないが、余計な体力を使わせない方がいいことだけは確かなのだから。


 

 ――話していて分かったのは、彼女に明確な変化が起きているということだった。


 何も彼女の性格が変わってしまったわけではない。口調などの表層に変化は見られない。

 だが、根本的な部分に変化が起きている――彼女から言わせれば俺も少し変わったそうだが――俺が彼女に抱いた違和感の一つは、きっとそれであろう。


 ここまでの間に様々な事態が彼女の身に起きていたのだ。力の喪失、場の変化による影響、彼女を変える要因は無数にある。


 彼女に宿っていた強固な意志が今は感じられないのが、最たる理由か。〝勇者〟が大きく欠けてしまったのも関係が深いだろう。

 満ち満ちとしていた彼女の気迫のような何かが、なくなっている。


「それなら、レーデさんは出会って来たんですね。〝イデア〟さんと」

「まあ、そうなる」


 辿っていた道程の話をしていた俺は、微妙な顔で頷く。

 これでも二度と会わない為に様々な工作をしてきたものだが、そいつは晴れて無意味になったわけだ。

 少し前の俺がその事実を知っていたら全力で回避しようとしていたのだろうが――。


「私も、会いましたよ」

「――は?」

 一瞬、俺は思考に詰まった。

「まて、まさか奴が、お前に接触を図ったというのか」


 イデアがリーゼに?

 一体何のため……いや、流石にそれくらいは分かっている。

 俺がリーゼと離れたタイミングでしか俺と行動を共にしていたリーゼと邂逅できないのだから。


 が、そこまでしてやっと出会ったところでイデアがすることは――余計なお節介だけ。しかし奴にとってはそれが全てで、それが一番の重要事項だ。

 アレは何者かを陥れる為に画策したり行動する女ではない。


 俺は少し考える。

 一瞬だけ眉根を寄せ、そして彼女へ聞いた。


「何を話したんだ?」

「魔物のことを教えて貰いました。()()が元々、私達と同じ人であったことを」

「……そうか」


 やはりその辺り、か。

 それは俺がガデリアから聞かねば知り得なかった情報だ。そして俺が知ったとしてもリーゼに直接伝えることはまずないこと。

 だが魔物と行動を共にするイデアならそれを知っている。奴ならリーゼに伝えるくらいは平気でする。


 リーゼはぼうっと天井を見上げつつ「やっぱり」と小さく呟いた。


「本当のこと、なんですね。きっと嘘ではないんだろうなと思っていましたが……レーデさんの顔を見たら、納得しちゃいました」


 それはまるで、どこか遠くを見つめるような目で。

 リーゼは毛布から細腕を出すと、天井へ向けて伸ばす。何かを掴むように弱々しく握り込んで――そこまでやって限界が訪れたか、毛布の上に腕を落とした。


 白く細った、弱々しい腕。薄弱な意志に蚊の鳴くような声。

 リーゼは肉体そのものが強靭なわけではなかったが、それにしても今の姿は、衰弱が一目で分かってしまうほどに痛々しいものであった。


 俺の視線に気付いたか、リーゼはさっと腕を毛布の下へとしまい込んだ。視線を俺に返し、乾いた笑みを浮かべる。


「私は今まで、人を殺していたんですね。魔物ではなく、自分と同じ人間を。私は平和を標榜しながら、そんな表向きの正義を勇者の力で振りかざして――人を魔物だと決めつけて、一方的に殺戮を繰り返していたんです」

「……お前」

「アウラベッドさんや、ギルディアさんや、私が殺してしまったレイリドルさん。そして、イデアさんはそれに気付いて欲しくて私に話し掛けてきたのだと思います。そうじゃなかったら……言葉なんて交わそうとしませんから」


 ――私がこうなっているのは、その報い。

 何の迷いもなく言ったリーゼの言葉でようやく俺は理解した。

 何故彼女が〝こうなっているのか〟を。


 リーゼは自ら己が勇者であることを否定し続けている――。


 勇者という機構は、彼女に植え付けられたその役割は、言ってしまえば人を護るために設定されたものだ。その彼女が人を傷付けたと認識した瞬間、彼女という存在は機構にある勇者像から外れてしまう。

 力の喪失の一端は、それが原因にある。


 とはいえ魔神戦で勇者の力を解放していたなら、自身が勇者である認識までをも捨て切ってはいないのだろうが……自分で自分を否定していればそりゃ能力も不安定になろう。


 勇者の機構はは半ば信仰に近い在り方で成り立つ能力だ。

 そのため不信から生ずる隙間は多く、不安定な箇所をヲレスに突かれ(・・・)ていると考えれば納得は自然にいく。


 恐らく、リーゼは迷いから生じる機構の歪みに何らかの形で介入され、一部の術式を上塗りされているのだ。リーゼに仕込む隙は――俺が、ヲレスに与えてしまっている。その可能性は高い。


「お前は今までお前がしてきた行為を、間違いだと思っているか?」


 ――ならば。

 俺はリーゼにそんな問いを放つ。


 魔物の真実を知らなかったが故に、そのダメージが彼女の心にどの程度影響を及ぼしているのか。

 奴らの大元が人だと理解したからこそ揺らいだその意志、根元には何がある。


 彼女がどの程度の深度で自らを否定しているのかは知らないが――その認識に至っている理由は知らねばならない。

 何故ならば、今までのお前はそのようなことを口には出さなかったからだ。


「……分かりません」

 リーゼはぽつりと呟いて、けれどと言葉を紡ぐ。

「私がもっと彼らに目を向けていれば、助けられる命があったんじゃないかって思うんです」


 ――彼女の認識は、純粋な後悔から来る贖罪か。


 彼女は険しい顔で、辛そうに声を震わせてそう言うのだ。まるで自らの痛みを語るが如く。私が彼らの事を理解出来たのなら、もう少し歩み寄ることが出来たのならば――同じ世界を生きられたのではないのか、と。


 それについては、俺が返すべき言葉は一つ。


「断言するが、助けられる命などない」

「……だけど()()は」

「確かにアウラベッドは人語を解する。他に数体存在する魔物も同じように俺達と同じ言語で会話することを可能とした。だが魔物は、奴は〝人〟ではないんだよ」


 例え原点が同じ人間だったとしても、それは変わらない。

 いや、直接魔物に変えられたとされる人間はそうだったのかもしれないが。

 彼らの時代であれば、誰かが何らかの手段で人間の姿へ戻すことは可能であったのかもしれないが。


 ――しかし、それには遅過ぎた。


 世代を重ねた魔物の元は、あくまで魔物なのだ。

 最初から魔物として生まれた彼らは、その生を終えれば次の世代、その次の世代へと命を繋いでいく。


 ――既に人間だった魂は魔物という別種へと変質してしまった。

 アウラベッド達魔物も、人という種でないという点は同じだ。


 彼らはイデアの介入で飛躍的に進化を遂げ、人の形こそしているが、人間にはない特徴があるのがその証左。それが角や羽に尻尾。水棲に特化した皮膚や、鎧のような外皮である。


 人間が持ち得るはずのない特徴を持つ彼らがそれでもベースに人型を選ぶのは、〝人間〟へ回帰しているからなのではない。

 現時点での魔法文明に於いて〝人型〟が最も魔法に適した生命だった。それだけの話なのだ。


 一時代での急速な進化は歪に映るが、あれはあれで合理的な形なのだろう。魔人とでも呼ぶべきその姿は、人である利点と魔物である利点を最大限に反映した形である。


「経緯はどうあれ奴らは魔物として生まれ、魔物として育ってきている。いくら勇者とはいえお前が救える存在ではないんだ」

「……でも!」


 尚も続けようとした彼女に対して、俺は言葉を被せて封殺する。

 〝勇者〟だから救えないのだ、とは言わず。

 俺は彼女へ釘を刺す。


「そもそも、救うというその感情こそがおこがましいのだ。お前はその時点で魔物を人間の下に見ている――お前はそんなことを考えながら、誰かを助ける奴だったのか」


 言ったところで彼女が完全に納得出来ないのは承知の上――いや、正確には彼女が持つ勇者(・・)が、と言った方がいいか。

 ともかく俺が言葉を挟んだだけで呑み込めるのなら、最初から悩んだりはしない。

 だが知ってしまった以上は言わねばな。


 彼女には知る必要がある。

 勇者という機構はそんなに高潔なものではなく、お前がイメージする勇者とは乖離しているものだということを。

 しかし、それでいいのだということをな。


 この世界に於ける勇者など所詮機構(システム)だ。

 ならばそれを扱う者は機構(からくり)であってはならない。

 力をどう扱うのかを決めるのは勇者ではなく、リーゼ自身だ。


「お前は勇者だから〝人間〟を助けているわけではないのだろう。それとも、魔物は〝人間〟だったから助けたかったのか?」

「――そ、れは」

「違うだろう、お前は魔物が魔物であろうと助ける奴だからな。お前が何かを手に掛ける時はどうしようもなくなったと感じた時だけだ。それ以外に方法がなかった場合だけだ。そこに人間や魔物の区別は付いていない」


 は、と。

 何かに気付いたようにリーゼが目を見開く。微かに唇が震えた。


 だが敢えてそのまま言おう。

 それはお前だけの認識ではなく、俺の言葉で保証をしてやる。


「しかしそれでいいんだよ、お前はやりたいようにやれ。お前は勇者だから助けるのではなく、リーゼだから人間を助けるんだ。魔物は魔物として助ければいい。お前が何かを殺した時は、何かを助けるためにやったことだ。お前の行為は別に間違ってはいない」

「でも、正しくはなくて――」

「お前はもう少し穢れるくらいが丁度いいんだよ。お前も他の人間と同じだ。神などではないし、人が人を助けるのに高潔で潔白な魂である必要もないだろう」


 神に位置付けされている俺達が高潔であるかはさておき――。


「一度でも殺した命があれば正しくなくなるというのなら、正しくある必要もない」


 リーゼが掲げる勇者という像は、どこまで行っても理想でしかないものだ。語るには易いが、それを実現することなど不可能。

 その機構は人間には背負える荷ではないのだ。

 偶像の神に望むような幻想――それを組み込んだ連中は、余程未来が見えていなかったらしい。


 このやり方では依り代にされた人間が長く持たない事など誰でも予見できたはずだ。


 どのような教育と洗脳の果てに勇者を仕上げても、過ぎたる理想は己を喰らう。成長するほど、知見を広げるほどに理想は浸食され、やがて自己矛盾を抱えて崩壊に至る。


 根本の歪みを切除しなければ必ず勇者の崩壊が訪れるだろう。兆候は既に表出している。

 その際彼女がどうなるかなど、これまで数多くの勇者が存在していたことを考えれば言うまでもない。


「助ける助けないなど、所詮は人間が勝手に抱いている価値観だ。お前の考えを忠実に実行するのであれば――お前は、生きることすら赦されない」

「……分かって、います。頭では、分かっています。でも――私の何処かが、私を否定しているんです。それじゃ駄目だって」

「お前の中の〝勇者〟がそう言っているわけだな」


 葛藤を続ける内、彼女は息を荒げ玉の汗を肌に浮かべる。心の苦しみが肉体に強い影響を与えている――俺は彼女の額へ右手の平を置いた。

「……あ」

 一瞬、彼女の動きが止まった。乱れた呼吸が少し平静を取り戻す。


 ――そうか。

 機構の大部分がリーゼの意識に根を張っているとなると、下手に刺激すれば彼女の根幹そのものを抉ることになる。


 取り除くには外部から勇者とリーゼを切り離すか、それとも機構を弄るか――どちらも、まずは介入されている影響を取り除いてからでなければ危険過ぎるな。


 ひとまずは……。


「己を騙せ(・・)。勇者とお前の認識を擦り合わせ、最低限活動出来る程度に自己を保つんだ」

「難しいです……そんな器用なこと、私には」

「勇者は魔物を殲滅し、人々の平和を維持するための機構だ。そしてお前は同じように平和を望んでいる。だが同時に、必要のない争いは避けるべきだとも叫んでいる。そこが勇者とお前の乖離する部分だ」


 揺らぎの中心点は魔物(にんげん)を殺したこと。

 リーゼがそう認識し、正しく理解してしまったことに起因する。それが彼女に自己矛盾を起こし、結果勇者の力が正常に機能しなくなっていると考えられるが。


「お前は己を人殺しだと言ったな。だが俺は先ほども言ったように、お前が何かを手に掛ける時は必ず何かを救っている。お前がやらねば、必ずそれ以上の死が平和を蝕んでいる」


 魔物を狩らねば町が全滅する。どうあっても救えぬ悪人を逃がせば、そいつが死ぬ以上の被害がもたらされるだろう。


「だから他に道はない。お前しか対処できない以上、お前がやらねば全てが無に帰すのだ。お前がそうすることで、人と魔物の平和を保っている――今は、そう思っておけ」

「……レーデ、さん」


 リーゼは、額に乗せた俺の手に両手を重ねてきた。それから、弱々しげに腕に抱き付いてくる。


「悪いな。俺には、腑にまで落ちる言葉は掛けてやれん」

「いいえ。少し、楽になりました。少なくともあなたは私を肯定してくれるんです。私がやっていることは正しくはないけど、でも間違っていない――って」

「そうだ。だが、その葛藤は常に心に留めておけ。どちらかに偏れば今度こそお前はただの人殺しだ」

「はい――……レーデさん」

「何だ」


 リーゼは両手で俺の腕を強く握りしめる。


「私は、もう使い物にならないかもしれません。それでも、一緒にいてくれるんですか」

「……どういう意味だ」


 眉をしかめると、リーゼは乾いた笑いを浮かべる。


「だって私、もうあなたを守れないんですよ。あなたの剣にはなれそうにありません――もう、一緒に居てくれる理由は、ないじゃないですか」

「……」


 俺は――弱々しく、どこか縋るように腕を抱き締めてくるリーゼを見つめた。

 縋りつくような姿に――俺は、どこか逃げるように視界を閉じる。

 儚い感触だった。このまま再び目を開けただけで彼女ごと消え去ってしまいそうな、脆い感触。


 ――そうか。そうだったのか。

 お前はそんなことを考えていたから、震えていたのか。


 どうやら俺は相当に酷い奴だと思われていたらしい。

 全く……いや、確かに俺は酷い奴だった。お前はずっと、不安だったんだな。


 俺は額に当てていた手で、そっと彼女の頭を撫でた。


「何馬鹿な事を言ってる。余計なことを考える暇があるのなら、さっさと休んで動けるように身体を回復させておけ」


 言い終えてから、席を立つ。

 手が離れれば自然に彼女の腕もずるりと抜け落ち、毛布の上にぽすりと乗った。


「はい。レーデさん」


 はにかんだリーゼに、俺は首裏を掻いて僅かに視線を逸らす。


「……俺はお前を道具だとは思っていないぞ」

「じゃあ、どう思ってくれているんですか?」


 すかさず飛んで来た言葉に――口を噤む。

 どう思う、か。どうなんだろうな。


 最初の町でリーゼを購入した時、確かに俺はこいつを戦力の一部としか考えていなかった。リーゼは俺のことを家族と呼びたがったが、きっぱり言い切ったりもした。

 まあ、今でもそこは変わらないが――。


 俺にない物ばかりを持っていたお前は、俺にとってはただひたすらに眩しい存在だったのだ。きっとお前が居なければ、俺はここまで辿りつけていない。途中で平然とどこかへ逃げ出していたかもしれない。


 一人の時には、お前ならどう動くかだなんてことを俺はいつも考えていた気がする。

 ……そうだな。


「――仲間だ。共に世界を救うぞ、リーゼ」

「――はい!」


 屈託のない笑顔で頷くリーゼに、俺は苦笑を零す。


 あぁ、この世界での話も終幕に近付いて来た。

 俺の永遠とも思えた逃避行はあっさりと終焉を迎えたし、世界を脅かす元凶も見つかっている。それはこの世界で最初に仲間となったリーゼが持つ〝勇者〟の根源。

 魔物を生み、争いを引き起こし、世界へ魔法を齎し狂わせた――原初の魔法使い。


 どこかに隠れている元凶を倒せば、恐らく終わりだ。

 その後に魔物や勇者や教会関連、魔法やそれを扱う魔法使いなど、元凶によって変化を加えられた事項について細かな調整を行えば、俺とイデアの役目は無くなる。

 この世界に接続できる縁が切れるわけだ。


 まあ、俺の方はその前にヲレス・クレイバーをどうにかする必要があるが――。


 ――かちり。

 かちり。かちり。


「……?」


 ――無機質な音が、同時に脳裏へ響き渡った。

 まるで時計の針が動いているような、それでいて不規則に鳴らされる不愉快な音。

 一瞬自分の耳がおかしくなかったのかとも思ったが……違う。


 俺は目を見開き、周囲へ視線を動かす。

 何も(・・)動いていないのだ。部屋の中は静寂そのもの、リーゼも笑顔のまま固まっている――固まって?

 窓から見える青空に漂う雲も、空気が肌に当たる感触すらもない。


「時間が……止まって(・・・・)いる」


 笑顔のまま停止していたリーゼを見て、俺はこの状況が異常であると遅まきながら察知した。

 いつからだ――。


「やぁ。久し振りだね」


 突然発された声。

 反射的に振り返ると、そこに見慣れた男が立っていた。


 白衣を羽織る白い肌の青年。

 そいつは片眼鏡(・・・)越しに、俺を観察している――。


「何故、お前が」


 そいつは今この都市にはいないはずの男。

 こちらから捜しても見つかることさえなかった、ヲレス・クレイバー当人――。


「理解は不能だろうね。だからまずは、君が分かるように改竄した記憶(・・)を戻してあげるとしよう」


 ぱちん、右手の指が鳴らされる。

 その瞬間、俺の脳裏に激しい耳鳴りが起こった。


 視界がちかちかと明滅する。静止した世界がぐるぐると渦巻き、立つことさえ困難な状態に陥る。


 なんだ、これ、は。

 何かが脳に、流れ込んでくる。気味の悪い液体が頭蓋骨を砕いて侵入してくる。

 そんな違和感と痛みが身体の隅々まで駆け巡って。


 かちり。

 全てが、繋がった。


「ヲレス、貴様」


 床に膝を付いた俺は、吐き気を催す気持ちの悪さの中で、確かにその男を睨み付けていた。


 俺の眼前で悠々立っている男。

 此処に居るはずがない男――彼の言葉が脳裏に、蘇る。


「思い出したかい? 学長を殺したのは僕だとあの時僕は言ったね。何故か君は、思い出せなかったみたいだけど」

「――俺に、何をした。そんな隙は無かったはずだ」


 俺の周りをヲレスが歩く。

 たん、たたん、たん、不気味なリズムが周囲を刻み、足音が俺の耳へぬるりと侵入してくる。


 視界が元に戻らない、酩酊のような状態から抜け出せない。何故だ、どうやって、俺に干渉してきている――こいつは、何者だ。


「ああ、惜しい逸材を失ってしまったよ。次元という概念を渡り、世界を見通す魔法まで習得した彼がああも容易く死んでしまうだなんて……それはさておき、用があって来たんだ」


 ぱちん。俺の視界が黒く塗りつぶされる。

 今度は何も、見えない。


 抵抗しようにも身体が自由に動かせず、何が起きているのかを掴むことができない。


「実は、君達が二人きりの時に再会するとこの僕が自動的に(・・・・)再生されるようにしていたんだ。つまり、分かるね(・・・・)。僕がどこまで知っているのかを」


 視界は塞がれたが、位置取りだけは変わらないはず――。

 俺はそのままヲレスがいるはずの(・・・・・)位置に蹴りを叩き込む。しかし当然のように空振りに終わった蹴りは、俺の態勢を崩すだけ。


 こつ、こつ、妙な間隔を空けた足音だけが聞こえてくる。


「勇者の力の解析も済んだんだ。結果としてはあまり面白いものではなかったけれど、折角だから僕が貰うことにするよ」

「貰うだと――ふざけるな」

「さあ、用件の話へ移ろう。つい先日、魔神や彼の()を通して面白い解析データが手に入ってね。これも()に介入出来ている時点で分かってもらえると思うけど」


 暗闇の中でヲレスの足音だけが鮮明に響く。

 たん、たん。それは俺の真後ろで止まって――俺の肩に、何かが触れる感覚があった。


「僕は君の力が欲しいんだ、僕達の理から逸脱した神の力をね。君も僕の腕を切り取ったんだ、僕が君の〝ソレ〟を切除するくらい――構わないだろう?」


 粘着質な台詞を最後に、フッと背後の気配が掻き消えた。

 俺が暗闇の中でどうにか立ち上がる(・・・・・)と、視界にノイズが走って――徐々に正常な視覚情報が取り戻されていく。


「……っ」


 よろけた右足を左で庇って転倒を避け、俺は深く息を吸い込んだ。

 どうやら今まで一切の息をしていなかったらしい。肩まで上下する荒い息に気付いた俺は、ひとまず額の脂汗を拭った。


「――奴は、いない」


 急ぎ周囲へ視線を巡らせるも、既にヲレスはどこにもいなかった。


 平衡感覚は取り戻した。妙な音も聞こえない。

 激痛や違和感も無くなっており、俺の脳は正常に活動しているようだ。

 今のは幻覚……? そんなはずはない。


 奴は確かにここに居た。


 あの姿も、言葉も、対峙したヲレス・クレイバーそのものだ。だが、どうやってここに現れた? 俺の身体に一体、いつ、何の細工を仕掛けたというのだ?

 肉体はあの時(・・・)のモノですらないというのに――。


「レーデさん?」


 そう声を掛けられ、リーゼが怪訝な表情でこちらを見つめていたことに俺は気が付いた。


「リーゼ、お前は大丈夫か? お前はヲレスに何らかの干渉を受けてはいないか」

「え……? えっと、とりあえず落ち着いてください。レーデさんこそ大丈夫ですか? いきなり倒れ込んできたのでどうしちゃったのかと」


 リーゼは上体を起こして俺へと右手を伸ばしてくる。

 その手が俺の肩に触れて(・・・)初めて、俺は自分が立ち上がって(・・・・・・)すらいなかったことを理解した。


 ――俺は、ベッドの手前で膝をついていたのだ。

 確かに一度立ち上がり、ヲレスの姿を捜していたハズなのに。


「……俺は、どんな風に、倒れたんだ?」

「覚えていないんですか? 話してる途中に突然呻き出して、それで私の上に倒れ込んだんですよ」

「……そうか。済まない」


 言って、今度こそ立ち上がる。身体に重さが残っている気はするが、身体機能に問題はないはずだ。

 見下ろせば、リーゼは不安げに俺を見つめている。


「今、何があったんですか」

 そして、こう聞いてきた。

「さっきのレーデさんは普通じゃありませんでした。それに……ヲレスって、言いましたよね」


 その反応を見るに、リーゼの方にはヲレスは現れてこなかったらしい。

 となると干渉されたのは俺だけか……時間が停止していた感覚があったが、リーゼの説明からすれば俺は動いてすら(・・・・・)いなかった。


 つまり、物理的な方法で俺に干渉してきたわけではないということ。何らかの手段で、何らかの条件を満たすことで発動する魔法でも俺に仕掛けていたのか。

 駄目だ、さっぱり分からない。


 ヲレスは俺とリーゼが二人きりで再会した瞬間に現れるようになっていた(・・・・・)と言ったが。

 その言葉をそのまま呑み込んだとして、ならばどこでそのような細工を行ったというのだ。


 これは、俺一人で考えて答えが出るものではなさそうだ。まずは今の経緯をリーゼに伝え、すぐに他の連中に共有する必要がある。魔法の造詣に詳しいサーリャやアリュミエールであれば、何か手掛かりが見つかるかもしれない。


「ああ、そうだな。少し説明しづらいんだが――」


 その先を言おうとして、しかし俺は言葉を失った。

 リーゼが俺の異変を察知してか何度も呼び掛けてくる。その声がどこか遠くから、俺の耳を通り抜けて行った。


 俺は右手で、己の心臓の辺りを押さえる。

 ――無い。


 慌てて意識を深層に落とし、己の(うち)を必死にまさぐる。

 ――無い。


「――奪われた?」


 俺のどこにも、存在しない。


 イデアより授けられ、植え付けられた神の権能が。

 永遠にも思える年月を掛けて破棄しようと奮闘し、それでも決して俺の中から剥離できなかった呪いの力――。


 ようやく折り合いを付けたのだ。

 だが〝ソレ〟は、俺の中から綺麗さっぱり消滅していたのだった。

 次章、最終章です。

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