八十三話 まだ、戦えるから
最上階に設えた古風な扉を開いた先、簡素な机と椅子が一脚ずつあるだけの部屋が存在する。合成繊維の黒絨毯を敷いた上にはそれしかない。壁には窓も装飾もなく、埃の臭いが強い。
サーリャは天井でちかちかと明滅する魔力灯を見上げた。
周囲の壁と絨毯にも隈なく目を通し、室内へと入室する。
ディッドグリースが後ろからついて来る。
「学長室ね。一応私も確かめには来てみたけれど……何者かに殺された形跡は特に見当たらない。荒らされた形跡も」
「ふむ、私にもこれはただの部屋にしか見えないな。血痕すらも見当たらないけれど、魔力の流れが妙ではある。ここだけ停滞している――ふむ、上手い説明が思いつかないねぇ」
「……そもそも、死体はどこにあるの?」
サーリャは率直に疑問を口にした。
だが、現時点でそれに答えれくれる人間はここには居ない。過去について二人に共有して貰った後、学長の死体を検分しに向かう二人とギリアムは別行動を取ることとなったのだ。
具体的には錬金で学校を要塞化だとか。
リーゼは安全な部屋で眠っている。灰の魔力が彼女を苦しめることはなくなったものの、意識が不安定なのは変わらないようだ。
「さあねぇ。学長室で死んでいたと言っているのだから、死体はあるのではないのかな? この魔力の流れの部分とか」
ディッドグリースは机の横部分の空間を指差した。
その位置には不自然に魔素が停滞しており、様々な魔力が渦巻いていた。そこには魔物の魔力も僅かながらに舞っている。
サーリャはその中心部に、歪のようなものを一瞬だけ発見した。すぐに魔力に隠れて形を見失ってしまったが。
「……これかしら」
自身の魔力を指先に宿して、さきほど歪が見えた部分へ突き込む。するとぎぎぎと異音が発生して、黒点ほど近い歪が魔力の間から姿を見せた。
どうやら停滞した魔素が歪の存在を隠し、魔力の流れが魔素を隠蔽していようだ。歪の内側へと魔力を流して拡張すれば、黒い裂け目が空間を走った。
「っ……!」
その裂け目に停滞していた魔力が呑み込まれると、球体上に裂け目が広がりを見せた。
一歩後退して空間の変異から離れたサーリャは、内部に倒れ伏している〝万能〟の姿を捉える。
それは黒い外衣を羽織る老人だ。
皺だらけの風貌に蓄えた白い髭――見間違うはずもなく、それは万能の魔法使いだった。
「――いた、わね」
「おお、なるほど。まさかこんな場所に隠しているとはね、道理で気配も何もなかったわけだ」
ディッドグリースが死体を覗く。
「出血はしてないね。外傷や〝呪縛〟を受けている様子もないが、生きてはいないようだ」
「死後時間が経過しているのに肉体が腐敗しないってのは、別の空間に囚われていたせいかしら」
「さあどうだろう? 専門じゃないから軽率には答えられないよ」
そうこう話している内にも空間は軋み、徐々に歪が小さく戻ろうとしていく。空間の中に先ほどの数倍魔力を流し込むと、再び内部が観測可能になった。
歪は空間の入口。その先は本来干渉が不可能なはずだが、魔力を押し込んだ分だけ干渉領域が増える、という造りらしい。
「駄目、触れないわ」
しかし、歪の奥に手を触れることはできなかった。
まるで透明な壁にでも阻まれているように、歪の入口で指に押し返される感触が発生する。
「外部からの干渉を制限しているみたいだねぇ。実体による過干渉を封じ、空間を構成している魔力のみを通す……ふむふむ」
突然、ディッドグリースは自らの右手中指を左手で握り、逆方向へ捻じ曲げた。
「ちょ……!」
ばぎゃ、確実に骨を数回砕いた音がして――ディッドグリースの全身から、濃霧が如き紫の魔力が流れ出した。
それは、歪の入口で――弾かれる。
「おっと。攻撃意志があると弾かれてしまうのか……残念だな、パーツを頂いてみたいと思っていたのだけれど」
「何やってんのよ!? 攻撃魔法なら私が試せばよかったでしょ」
「ふふ、まぁいいじゃないか。代わりに君の中指をおくれよ」
「馬鹿言うんじゃないわよ」
即座にサーリャの治癒魔法がディッドグリースの指を癒す。元通りに再生される指を細目で見つめて「ちぇ」と小さく呟かれた気がした。
「結論として干渉は不可能だ。死体を外へ出すことはできそうにはないね」
「無理して引っ張り出す必要はないからいいわ。ちゃんと調べるには直接見て触れられればよかったけれど、死体は確認した。偽物の余地はなく、この死体はアリュミエールその人よ」
そう、サーリャは冷静に分析する。閉じようと作用する空間を再びこじ開けようとはせず、収縮する姿を見送った。
ともかく、学長の死は確かなものだった。
どのようにして殺されたのかは未だに不明だが、〝断層〟という魔法使いの危険度はこれである程度測れたわけだ。
ギリアムの言う通り、〝万能〟は〝断層〟と相性が悪い。クロードのような魔法は彼だけの特別製。それは系統化された火魔法を扱うサーリャも同じであり、万が一にもやり合うべきではない、やりあう状況を作ってはならないのは確かであった。
「歯痒いわね。劣等感があるわけじゃないけど……いえ、ないとも、言えないけど」
悔しさで唇がすぼめられる。だが、それは計算した際の単なる事実である、と己を律した。
サーリャとて魔法陣による戦闘スタイルを新たに獲得しているが、正攻法の延長線上にある魔法が、特別の〝断層〟魔法に打ち勝てるとは全く思っていない。
相性で言えば、隣にいる〝呪縛〟もそう、現在校内を魔改造している〝錬金〟とさえ良くない、それをサーリャは十分に理解している。
歯噛みしたところで勝機が増えるわけではないことは、普通の魔法を極めた自身が痛感していることだった。
黒点まで収縮して魔力の渦に隠された空間を見終え、サーリャは「ねぇ」と隣へ呼び掛けた。
机の埃を指でなぞっていたディッドグリースが振り向く。
「一個聞いていい?」
「なんだい? 別に質問するのは構わないけど、今この場で私が答えられる解答はないと思うよ」
「あー……えっと、クロードや学長について訊きたいわけじゃないの。これ以上調べても意味があるとは思えないし」
サーリャは事実確認を取りに来たのだ。
その事に関しては必要な情報は揃っている。サーリャが聞きたかったのは全く別のことであり、むしろここから話す事こそが学校へ訪れた本来の理由だ。
即ち、リーゼの異変のことである。
「あなたは、リーゼの事をどう思った? 普通の女の子にしか見えないと評していたけれど、実際のところはどうなの?」
「ふむ。彼女が至って普通の女の子であるという評価に嘘偽りはないよ。ただ」
そこで息を吸い直すと、未知の領域を解析するような神妙な顔で彼女は言った。
「なんというかね。呪縛とは別の似通った性質、制約や規定とでも言えばいいのかな、そういった線の束が魂のより深い場所に刻まれているのが見えた。視覚化して表すならば、張られた蜘蛛の巣というのが正しい表現かもしれないねぇ」
「そこまではなんとなく分かっている。きっと、それが彼女を勇者足らしめている根本で、そこに何らかの異常が発生しているのね――あなたは、アレをどうにかできない?」
「どうにか、とは?」
サーリャは迷いのある表情をして、小さく首を横に振る。感情云々は抜きにして、今はきっとこう言うべきなのだと、サーリャは彼女へ答えた。
「リーゼに――勇者の力を取り戻させることは、可能?」
「なるほど」
すぐに返答はなく、ディッドグリースは腕を組んで静かに唸り出した。人差し指が頻りに二の腕を叩いている所を見るに、真剣に可能性を探ってくれているらしい。
やがて彼女は大きく鼻から息を吐き出すと、手のひらを顔の横で踊らせた。
「いいや、不可能とまで断ずるつもりはないけどねぇ。彼女の為を思うのならば、実行はしない方がいいと言っておくとしようか」
「失敗する確率が、高いわけね」
「失敗などという言葉では足りないな、ソレは彼女の根幹に触れる行為だ。魂に刻まれた線に手を加えるということは頭蓋骨を外して外から器具使って脳味噌弄り回すのと同じ。少しでも調整を違えた場合、彼女は彼女として機能しなくなるという惨状にはなるが、許可さえ貰えれば私は喜んで触らせて頂くとしよう」
「……いえ、聞いてみただけだからやらないで。お願い」
「ふふふ酷いなぁ、私は鬼畜の類ではないのだからちゃんと相手の意志は尊重するよ?」
「頼むからそれ、本人の前で言わないでね。どれだけ可能性が低くても、多分やろうとするから」
「おお、それは是非とも試しておっと何でもないよ、だからそう睨まないでおくれよサーリャ」
わたわたと手を振ったディッドグリースは軽薄な笑みを浮かべて一歩後退った。
「結論から言わせて貰えば、私の体内に無数に存在している〝呪縛〟と同じようなものさ。解くには複雑に絡み過ぎている」
「……ごめん、嫌なこと言わせちゃったわね」
「いやいやこれでも私は感謝しているんだよ。勇者という〝機構〟と言ったか、なるほどアレは面白い。それは私の〝呪縛〟の根幹ととても似通っていて、そういう存在があると知れただけでも大変満足だ」
(――てめぇら引き籠ってねぇで外を見ろ。こりゃ最高で最悪の気分だぜ)
テレパスの魔法による通信が魔力によって二人に流れてきた。珍しく焦りすら窺えるギリアムの台詞が脳へと直接伝わり、サーリャがテレパスを送り返す。
(何よ、化物が走り出したとか言うんじゃないでしょうね)
軽口を叩きながらも足は動いていた。翻して扉を乱暴に開き、通路に出て窓から身を乗り出す。
そこに映っていた光景に、己の目を疑った。
(そんなのよりもっと楽しい状況が待ってやがるぜ――どうやら、悠長に拠点造りはさせちゃくれねぇようだ)
眼下の景色を埋め尽くす、赤の塊。それらが地面を這い回るようにして、一直線に学校へと向かっていた。
遅れてサーリャの隣から顔を出したディッドグリースが「おや」と驚いた風に声を上げた。
「――暴走体だ、魔晶の」
背後の天井からギリアムが降りて来る。
「いや……それは分かって……何よ、あの数は!」
狼狽えるサーリャに「まぁなんだ」と頬を掻くようにして、ギリアムは肩を竦めた。
「いよいよクロードが潰しに来たってわけだな。つうか〝断層〟でこちらの事情も好き放題覗けるんだ、それが俺達を覗いてたんなら、対策くらいは打ってくんだろ」
「はぁ!? それ先に言いなさいよ! じゃあ、今までの会話も全部知られていたって……」
「さぁな? だから話しても話さなくても変わんねぇよ。むしろ話さないことで遅らせる方が遥かに建設的ですらある」
ギリアムは片手に赤い結晶を持ち出した。それをころころと手のひらで転がしながら、窓枠に右足を掛ける。
彼の周囲に黒鉄の剣が無数に錬成されていく。それは紛れもなく、戦闘準備であり。
「さて……俺はあの暴走体の一体と一度戦ってんだが、所感だけ伝えといてやる。ありゃ正しく獣だ、舐めて掛かれば死ぬぜ」
後ろを振り向かずにそう遺して、彼は窓から外へ跳躍した。黒鉄の剣を無数に射出しながら――暴走体の群れへ、一人突っ込んで消えていく。
「さてさて状況が急展開してしまったようだねぇ。ふふ、ふふふ、はははははは……なるほどなるほど。これだけの数を相手にたった三人……いや四人。今度こそ私は」
「――ディッドグリース、リーゼのところに行ってくる。すぐ戻るから」
何か、嫌な予感がサーリャ脳裏にへばりついていた。
早口にその事を告げると、サーリャは彼女の返事を待たずしてリーゼが眠っているであろう一室へ向かって駆け出す。
「リーゼ……!」
大人しく眠っていて。
それだけを、願いながら――。
ディッドグリースは「そうするといい」とだけ気のない言葉を送って、赤色の大群を見下ろした。
眼下にいるのは人間、人間、人間、人間、人間――さぞかし食い甲斐のありそうな、魔法使いの敵だ。
何処から来たのだろうか。服装からして神聖教国だろうか、なんで魔晶の力を得ているのだろうか。
ああ、そんなことを考えている時間が勿体無い、彼女は思考を放棄した。顔を笑みの形に歪めてけたけた笑い始めると、右腕を窓枠に叩き付け始める。
「そうだ、そうこなくっちゃあいけない。あんな戦争じゃ不完全燃焼だったところでね……ふふ、ははは、あはははははははは! さぁ、さぁさぁ殺し合おう! 思う存分! お互いの肉がぐちゃぐちゃになって一緒に蕩け合うまで、愉しもうじゃないか! はははははははははははははは!」
圧倒的な戦力差を喜ぶように自分の腕を景気づけに破壊して――ディッドグリースは、ギリアムに続いて死地へと飛び込んでいった。
◇
振動と衝撃とで罅割れ、ぴしりと壁が鳴いた。教室の中央でぼんやりと突っ立っていたリーゼの身体から、灰色が吹き荒れる。
――そこに、淀みの中に、ほんの少しだけの虹色が混ざって。
「……リーゼ!」
そこに慌てた少女が駆け込んできた。息を荒げて嫌な汗をびっしょりかいて――サーリャは、リーゼに手を伸ばす。
「何をしようとしているの――ほら、こっちに!」
「……ううん」
小さく、頭が横に振られる。リーぜはサーリャへ笑い掛けると、己から漏れ出す異常な量の〝灰色〟に目を向けて、「まだ、戦える」そう言った。
「駄目よ! それじゃ不安定過ぎるのは自分で分かっているでしょう!? それじゃあリーぜが! それじゃあ身体が持たない! 今だって魔力が」
「――ここで止まってしまうようなら。私は勇者である以前に私ではなくなっちゃうから」
決意の現れた、覚悟を決めた瞳。
かつて勇者であった時のように、彼女は毅然とした態度でサーリャと向かい合う。
「私ね、今までずっとずっと、夢を見ていたの。長い夢だった。私が渇望して手を伸ばして、それでも届かない平和な世界のお話を眺めていた」
夢の中で、いつでも彼女の兄が自分に向かって優しく手を差し伸べてくれた。いつも傷だらけだったその手を、優しく包み込んでくれるように。
「それはきっと、サーリャがそうやって私に手を伸ばし続けていたからだったんだ。私が見た優しい夢は、きっと私がお兄さんとサーリャを重ねた夢想で」
「そうよ! だから私の手を掴みなさい――無理だけはしちゃ、今のあなたはしては駄目!」
「……無理、かもしれない。私は無茶をしているかもしれない」
ごうと燃え盛る灰が、虹色の煌きを徐々に取り戻していく。魔力の輝きが、彼女の内に集結していく。そして――。
「天纏神剣」
虹色の粒子を振り撒いて、勇者の剣が彼女の右手に握られた。
何故今になって勇者の力が戻ったのかは不明だった。リーゼにもそれは全く分からない。
当たり前だけど全身全霊の力までは発揮できていないし、混ざった灰色は全身に違和感や激痛を叩きつけてきている。それでも、この剣を手放すわけにはいかない。
より強く、二度と手放さないように剣を握り締めて、リーぜはありったけの魔力を解放した。
「――私は何も思わなかったんだよ。サーリャが二人と会話しているのを隣で聞いていて、何の感情も揺り動かされなかった。本当はもっと怒ったり悲しんだりするんだ、そのはずなんだ――でもあの時私は、自分の預かり知らない誰かが死んじゃってもどうでもいいだなんて本気で思っていた……それは多分、勇者を引っぺがした私の本性だと思う」
「違う、それは違うわ。あの時は私がそうさせて」
「違わない。それが私。かつて世界を呪った無知な私が得ていた感情の全て。でも――それが嫌だから、私は剣を取った。勇者にだってなったんだよ」
あの時、ギリアムやディッドグリースが話していた時に身体を震わせていたのは、彼らへ対する感情などではない――何も感じない自分の愚かさに、どうしようもない憤怒が宿ったのだ。
「本当の私は親を殺した殺人者。誰かを守るような性格なんてしちゃいないんだ。でも――それは、嫌なんだよ。ここで諦めるのは、嫌なんだ。捨てたくないんだ――そんなことで腐りたくなかったから! まやかしでもなんでもいいから気休めでもいいから自分の心を繋ぎ止めるだけでいいから、無理矢理にでも強くなって、平和を手にしたいからって理由でみんなを救おうとした! それで私が平和を手にするわけじゃなくて、もうお兄さんだって絶対に帰って来ないって知ってて! それでも――」
虹の魔力が灰を越える。
越えて、彼女を今こそ〝勇者〟にする。
それが今だけの儚い輝きだと知っていても、己の全てをそこに懸けて。
「それでも私は戦うよ――お願いします。今だけは無茶させて。私は私でいたいから」
「――」
拒否できなかった。
剣を構えて、小さな身体で立ち向かおうとするその大きな背を否定することなんかサーリャにはできなかった。
「……はは、やっぱりあんたはあんたね。いいわ、リーゼ――でも今は私が傍にいる。一人で戦うだなんて馬鹿なことは、もう言わないわよね?」
「うん、一緒に戦おう。サーリャ」
リーゼがサーリャの手を取る。
「やるからには気張んなさいよ。長い戦いになるわ、足手纏いは許さないから」
「……うん!」
そして二人も遅れて戦場へ介入する。
全てを終わらせる為に。
あの化物を倒して、クロードを止めて、魔物を止めて、世界を守る為に。
――勇者はここに、復活する。




