七十八話 番外戦
「――にしても酷い有様ね。分かっちゃいたけど」
想定外に想定外の事態が積み重なって、到着した時には何もかもが手遅れだ。
臭い。血と鉄の油の臭い。腐敗臭が鼻を突いて離れない。
大量の死体がそこら中に転がっている。
全身装備を纏った兵士が何百体も死体になって動かない。いとも容易く首を切り飛ばされて、胴体を切断されて、そいつらは両手に武器を構えて泥に塗れている。
「私がもう少し早ければ……いえ、駄目ね。私が殺さざるを得ないか他の魔法使いが殺すか、きっとそれだけの違いか。これじゃ」
現状から見るに、大規模魔法の一掃による即死だろう。
この辺り一帯の木々に斬撃の痕が無数にあることから、風を利用した魔法なのだと察しが付く。
暴風よりも遥かに激しい風の刃が兵士達を襲ったのだ。
恐らく魔法使いで動いているのはわずか十数名。
サーリャと同じ最上位の何人かと、高い戦闘力を有した魔法使いの面々で構成された即席部隊のはずだ。
人数の差だけで言うなら圧倒的に不利だが――この練度を持つ魔法使いが相手では、人数などオマケ程度でしかなかった。
索敵手段、攻撃手段、防衛手段の全てにおいて、上位の魔法使いは単体で軍隊を遥かに上回る。何より樹海は魔法都市にとって天然の要塞みたいなものだ、下手な魔物が都市へ近付けないように防衛魔法も仕込んである。
どれを取っても小国の連中が敵う要素は一つもない。魔法使いとそうでない者達ではこれだけの差があるのだ。
魔法使いは普通に殺せる程度には人間を止めていないけれど、修める魔法と戦闘経験の数が違う。
そもそも、視界の悪い樹海で大規模魔法なんかを受けたら普通の人間が防げるはずがない。
人数が人数だからこそ何とか持っているようなものだが、大勢の死を伴った突破手段と兵士の死は無駄に等しかった。
まるで戦争をする意味などない、仮にそんな被害を被って戦争に勝利したとしてもそれは敗北以外の何物でもないのだ。
まあ、そもそも勝てないが――こうさせないために来たのに、出遅れてしまった。
「……とりあえず、都市へ向かうしかないわね」
だがここまで来て下がれはしない。
意識を失っているリーゼを抱き抱えながら、サーリャは樹海を駆け抜ける。
途中で魔法使いの死体は一つたりとも発見できなかった。
魔法都市には退避用に設置された通路があちらこちらに用意されている。一般的には解放されておらず、開示可能なのは魔法使いだけではあるが、そこを通っていけばシェルターや近隣の村まで一本道で避難することが出来る特殊な通路だ。
住民は既にそこから脱出したのだろうか、都市へ仕掛けた探知に引っ掛かっているのはある程度の戦闘力を持つ人間ばかりだ。
あまりに数が多すぎる上に多種の魔法が飛び交っているため、その情報は余り正確ではないかもしれないが。索敵は性分じゃないのだ。
サーリャは歯噛みする。
ローブの内側に嫌な汗がへばり付いていて気持ち悪い。
――とにかく、こうなってしまってはもう仕方ない。
今は戦場から離れつつ都市へ向かい、戦争と都市の状況を確認し、魔法使いに接触して事情を問うことが最優先だ。
腕の中でぐったりとするリーゼを見やり、サーリャは沈痛な表情を浮かべる。
リーゼは今も大粒の汗と荒い息を吐いている。
彼女の身に起きている症状も早く調べなければならない。原因不明の魔力が全身から抜け落ち続けるなど、これまで見たことも聞いたことすらもないものだったから。
リーゼの魔力は鮮やかな虹色だったはずで、あんな煤のような魔力は一度も見たことがない。
勇者でなくなったことが関係しているのかもしれないが――。
サーリャはそこで、駆ける足を止めた。
「……誰か来る!」
乱発する魔力の嵐の中、こちらに向かって一直線に突っ走ってくる反応があった。サーリャは探知へ全力を回して、その反応の元が何かを精査する。
強大な魔力の塊だ、その時点で小国の兵士達でないことだけは理解する。なれば魔法使いの面々、その中でもこの荒々しい魔力の動きは――。
「――なんだ。誰かと思ったら、久しぶりだ」
突風と見間違う速さで、それは眼前のぬかるみを撒き散らし着地した。魔法使いらしからぬ軽鎧の装備がかちゃりと音を鳴らす。
鋭く尖った犬歯を見せてソイツは無邪気に笑った。
顔面を塗りたくる血糊のせいで不気味さを醸していたが、サーリャは安堵するように息を洩らす。
「バロック、あんただったのね」
呼ばれた青年は頷きを返す。
「どっか行ってたんだろ? 嗅ぎつけてきたのか」
「ええ……まあ、そんなところかしらね」
「その子は? 随分苦しそうだ」
リーゼを見てバロックは目を丸くした。
眠っているリーゼは今もサーリャの腕の中で小さく呻いている。意識を取り戻す様子はまだなさそうだが、戻ってもきっと同じ繰り返しになるだろう。
ならば眠ったままの方がよほど安全だ。
「――そうだ、そんなことよりもだ。手伝えサーリャ」
数秒で興味を失ったか、彼はリーゼからサーリャへ意識を戻した。
「こいつら雑魚だけど数だけは多いんだよ。貪るにも限度がある」
「……――この死体のことね、バロック」
サーリャは顔を強張らせる。
「はぁ? こっちをやったのは俺じゃないぞ。魔法なんて使うまでもない」
「そうじゃなくてね……てかアンタは常に魔法使ってるみたいなもんでしょうが」
バロック・ゲージ。
誰にでも噛み付き、誰にでも決闘を申し込んでは襲い掛かってくることから〝狂犬〟とも呼ばれている魔法使いだ。魔法使いの癖に様々な武術を極め、肉弾戦を好む変わり者。魔法など戦いの補助としか考えていないらしく、他とは思考回路が正反対の男である。
肉体強化を施すだけで完成した、そう言っても過言ではない彼の魔法は、あまりに強力過ぎて正統な魔法使いでは相性が悪い――以前に何度か決闘を申し込まれたことのあるサーリャは、苦笑を混ぜつつそう吐き捨てた。
だが、彼は悪人ではない。
ただ純粋で無邪気過ぎるだけだ。
「そのことであんたに聞きたかったのよ」
「え……何だ? 早くしろよ」
「あとどのくらい敵兵は残ってるの?」
「分からいけど、あと半分くらいじゃねぇか」
あと半分も残っていたが――けれど始まってしまったのならもう遅い、か。サーリャは一時停戦へ向けた思考を切り捨て、すぐに意識を切り替える。
「他に応戦してる魔法使いは?」
「もう俺だけだ。俺だけに任せてフレイルの奴は消えちまったんだよな」
「……そう。それじゃあ、他の魔法使いはどこにいったの?」
「あんま覚えては……俺記憶力悪いの知ってるだろ……ああ、そうだ。クロードがさっきまで居た。その調子で頼むって言ってアイツも消えちゃったけど」
それを忘れるなど記憶力以前の問題ではあるのだが、サーリャはその辺りへ突っ込むことはしない。
魔法使いとは本来そういうものだ――興味がないのだ、本質的に。初めから自分以外の全てになど意識を向けてはいないのだ。
サーリャはバロックの台詞を受け流しつつ質問を繰り返していく。
だが、記憶力が弱いならこちらが切り口を変えていけばいいだけだ。
都市に残った魔法使いは誰が居るか。被害状況はどうなのかなど、大きい質問から徐々に個々の細かい問いへと進めながら、いい加減にバロックが辟易してきたところで質問を取り止める。
「そう。まぁ状況的に言えば、あと少しで敵が全滅して終わりね。都市の被害もそこまで酷くはないけど、見習いの魔法使いは結構殺されたってこと……か。大打撃を受けてるのは間違いないわね」
「あ、ああうん……何で俺に訊くんだよ、もっと適任とかいたろ」
「ここに来たあんたが悪いのよ」
他の面子なら一瞬で話が終わっていたのだ――いや、とサーリャは首を振った。面倒な相手だと会話が成立するかも怪しい、これはこれでよかった気もする。
ひとまず最後の質問を。
サーリャは周囲に警戒を配りつつ、バロックへ告げた。
「――ねぇバロック、最後に一個だけ聞かせて。この辺りで魔物は見なかったかしら?」
◇
そこは暗がりの教室だ。乾いた血液がへばりついて、死体が腐乱臭を放って、魔力灯が切れて薄暗い教室棟の一室。
一人の女がそこへ足を踏み入れた。全身傷だらけで血に塗れた痛々しい姿――ぽとり、細い指先から血液が滴り落ちる。彼女は壁にもたれ掛かる男へ視線を合わせると、口端を左右へ広げた。
「やぁ、こんにちは……随分探したんだけどな、まさかこんなところに隠れているとは思わなかった。どうだい? 今の気分を聞かせておくれよ」
「……気分? 気分は良くない」
「そうだろうね。もう分かっているとは思うけど――君以外全員死んだ。私も殺した、手強かったし痛かったさ、お陰で右目と左腕と右腕と左脚がやられたよ、内臓もいくつかやられちゃったなぁ。お陰で取り替える羽目になったよ」
長ったらしい台詞を続けて、女は右腕を目の前に差し出した。腕の半ばから先にかけて変色している腕を――否、それは色が違うのではない。腕の骨格が、筋肉が、腕そのものが――別人の。
ソーマの目が細められると同時、女はけらけらと気味悪く笑った。
「……ああ気付いたね。そうだ、君の考えたとおりさ。まだ馴染んでいないけどね、これは君のお友達の腕さ、ほら、ほら」
ローガスだった腕を、ぷらぷらと女は振り回す。白い腕から無理矢理くっつけられたその腕には無数の筋が張り巡らされている。
直に彼女の腕と完全に同化してしまうのだろう。
「どうだい? いや君はどうする? 君の大切で愛おしい仲間がこんな姿になっちゃって……まだ生きてるよ、この私の一部として彼は生きている。助けたいかい?」
「――そうか。彼も逝ってしまっていたか」
ソーマは返事を返さず独り言を呟く。
その言葉に、今度は女が眉をしかめた。
「何、これを見て何も思わないのか……そうかい君は薄情な奴なんだ、怒ると思ったのに。何だ……全く、全然生きちゃいない。面白くもない奴だ、君は」
「彼は死ぬべくして死んだ。俺が何かを告げる資格もない。お前は俺を怒らせたいのだろうが、怒る気力もない。殺すならば、殺すといい」
――それならばここが俺の死に場所なのだ、言ってソーマは目を閉じた。
まだ息は残っているが、それも虫の息。全身に傷を負い、腹部が大きく抉れて焼け切っている状態では長くは生きることもできない。女の言う通り、確かに生きてはいなかった。
女は舌打ちをした。深い溜息を吐いて、四肢をだらんと脱力させる。
「……はぁ。なんだ。私を殺すんじゃないのか、殺そうともしないだなんて……やる気が失せる。こんなに感情を殺されたのは久しぶりだね全く」
「俺を、殺すのではないのか」
「私はあと左目に右脚も壊そうと思っていたんだよ。それはできないじゃないか、だって君は戦わない」
「そうしないと身体のパーツは奪えないわけだ」
見透かすように言って、けれどソーマは動かなかった。
身体が動けないのもあるが、それ以上に自らの意志で停滞しているのは誰の目から見ても明らかだ。きっと、別の誰かが同じ状況に立たされていたら――死んでも、戦っていたのだろう。一矢報いてやろうとしたのだろう。喉元に食らい付こうと必死で足掻いたのだろう。
けれどソーマは、動かない。
その不可解で満足げな顔をしばらく見つめて、
「奪うわけじゃないんだけど、君のは要らない。朽ち果てたいのならばそこで勝手に朽ち果ててくれ。私は生きていない奴に興味はないんだ……折角見つけたのに、なんと腑抜けだ、なんと拍子抜けだ……」
女は力なく、ふらふらとした足取りで教室から出ていく。
――その右腕が、半ばから切り飛ばされたのは、部屋から見えなくなろうとした時だった。
女が知覚すらできないその一瞬、大量の血液と共に腕が空を舞う。
「なんだ、君は。そういうタイプというわけ……か」
女が振り返ると、そこに映るのは死にそうな顔で機械的な大斧を握るソーマの姿があった。息は荒げているが、女を観察するその目は冷静そのものであった。
完全なる不意打ち。女が興味を失うタイミングを見計らって、ソーマが一撃を仕掛けに来たのだ。視界から外れた瞬間に自らの隣へ放っていた大斧を拾い、一瞬で腕を切り飛ばしてきた。
なんという技術、なんという技能――何より、女は思わず顔を綻ばせる。
何の激情さえも抱かずにそれを行った精神が。
この腕がローガスの物であると理解したその瞬間から、女が何を言うまでもなく彼は狙っていたとは何と恐ろしい。
肉の断面から血が滴り落ちる。女は自らの傷など意に返さず、楽し気に語り掛けた。
「ふふ、そんなの気付けるわけないじゃあないか……君はとんだ役者だな、はは、殺すつもりもなく刃を向けられるだなんて感覚、初めてだ! なんだそれは、君はよっぽど〝こちら側〟だろうが――」
腕を斬られて、女は心の底から楽しそうに笑顔を見せる。痛みに喘いで、気持ちが良さそうに叫ぶ。
「ああ、ああ、あああああ……はは、今私は殺されようとしている、死ぬかもしれないんだ、死んでしまう! だから私は生きて……生きようと、しなければ――」
「お前は死なない、何故なら俺がお前を打ち倒す術はないからだ。頭を狙っていたら流石に気付かれていた、その腕はまだローガスだったから間に合ったのだ」
傷を与えられて喜ぶ化物と、人間とでは何もかもが違う。一緒の枠に入れて計算するべきではない。
大斧を握るソーマの腹から、じくじくと血が流れ出る。随分と無茶なことをしたものだ、そう彼は客観的に感想を述べて。
「せめて安らかなる眠りを――」
大斧の先から雷が迸った。けれどそれは女ではなく、隣を駆け抜けてローガスだった腕へと飛来する。
「――おやすみ。俺達の仕事は終わった」
それはソーマの腹を焼いたように、仲間だった男の腕を焼く。弔いの火葬のように、明かな敵を前にした彼の表情は穏やかだった。
「……私を、狙わなかった?」
「後は俺だけか……そうか……逝ってしまったのだな。彼も、ノアも。俺に出来ることは残されてはいないようだ」
「私の話を聞いていないね君は、意図的に無視しているのかそうでないかはどうでもいいけど――」
「無視はしていない。俺の身体を持っていくなら自由にするがいい、ローガスは俺が生きて助けた……彼が彼として死ねたのなら幸いだ」
ソーマはがくりと膝を折る。血溜まりに伏す寸前のソーマに戦う力が遺されていないのは誰から見ても明白であり、それが先程使われた魔法ではない何かが原因なのは言うまでもなく。
それが、女にはたまらなく許せなかった。死体を弔う為だけに全ての力を吐いたこの男には、最初から自分など眼中にないのだ。
透徹な漆黒の瞳が、最期を看取るようにこちらを凝視している。だというのにその瞳には女の姿など欠片も入っていない。
「舐めてくれる……ここまで頭のイかれた奴は、君以外に見たことがないね。ああ、でもいいさ。それならそれで、私は有難く君から頂くことにしようじゃないか」
女の左手が抜き手を作り、自身の左目を抉り取る。
ぐじゅりぐじゅりと指先が眼窩へめり込み、半透明の白い液が零れ落ちる。ああ、ああ、と痛みに喘ぐ呻き声がセットになって、視神経ごと引っ張り出された眼球がずるりと抜き出された。
「そうだ、まずは君の瞳を頂くことにする。人形遊びをするような一方的な作業だよ、君が動かないというならそれでも構わない。私の糧になっておくれ、イかれた君なら――歓迎だ」
女の全身から大量の瘴気が噴出する。高濃度の魔力が練り込まれた紫色の毒が霧状になって、床にまず浸食を始める。
「――〝呪縛〟のディッドグリース・エスト。知っているみたいだけど、正式に名乗ろうじゃないか。これから君を喰らい尽くす魔法使いの名だ、存分に味わうがいい」
ソーマは諦観した様子で眺めているだけだ。抵抗はしない。取り落した大斧も取ろうとはせずに、力を抜いた。瘴気が膝に纏わり付き、皮膚を這ってソーマを覆い出す。
ああ、これはレギンを襲った毒なのだとソーマは気が付いた。生気を吸い取り絞り出す毒、ならば自分もこれから彼女に生気を絞り取られ、肉体を奪われてしんでゆくだろうと。
その時までは、諦めていた。
「――み、っけたぁああああああ!」
その声を、聞くまでは。
「ソーマぁあぁああ! 何、諦めてんだバカ! ちゃんと最後まで戦え! うちはまだ生きんぞこのアホがぁ!」
幻聴かとさえ勘違いした。
死ぬ間際の夢だとさえ思った。
盛大に壁を破壊して、赤黒い魔力を身に纏ったノアが――ディッドグリース・エストを殴り飛ばす。その光景をまざまざと見せつけられて、ソーマは「そうか」と洩らした。
「……それは、外れなかったのか」
「うっせー、うちが自分の意志で外さなかった! 多分やろうとすりゃ外せたんだよ、でも――ソーマなら、ソーマだけはうちが魔法を使うって言っても許してくれんだろ、なら!」
「君は……?はは、ははは、なんだいなんだいその異質で歪な力は、とんだ邪魔があったもんだね! 誰だ君にそんな細工をしたのは、ええ? 君自身の力じゃないだろうそれは!」
「ならうちは――自分からは、逃げねー」
その小さな背中は、確かに目の前にあった。小さくて大きくて頼もしい背中は、両手を広げて今にも死にそうなソーマを守っている。
ソーマの瞳に、ほんの僅かな光が灯された。
「ああ、ノア。生きていたのか」
「一度も死んでねーよぼけてんのか……とりあえずこいつぶっ飛ばして逃げる! 話はその後! 分かったか!」
「補助する、ノア」
「よし、そうでなきゃソーマじゃねーな。後で傷直してから殴ってやるから覚悟しろよ」
「ああ」
まだ、何も終わっていない。
そこに意志が遺されている限り。




