七十七話 再起の時まで
ヲレスの診療所――。
潰れてしまっていることを危惧していたが、その様相は変わっていなかった。診療所周辺にて倒れている人の数が増えていることを除けば、大して情景に変化はない。
時間が経ったからか都市全体に死臭が蔓延している。生存者は既にここには残っていないようだ。ともあれ、倒壊していなくて本当に助かった。
「本当にこれに浸かんのか……なぁ大丈夫なのか?」
緑色に光る培養液を見て、ノアが顔を歪ませた。
ポッドの中に満たされる培養液だ、ジョッキー・フリートの流した血液が大量に溶け込んでいるため若干色が濁っている。しかし機能としては死んでいないはずだ――俺はノアを見て言った。
「入れ。中では眠っていれば体力が回復する。全快するまでに、どれだけ時間が必要になるかは分からんが」
「……う、しかたねーか」
ノアは頷き、おずおずとその培養液に指先を付けた。「ひ、つめた」小さく叫んで、本当に大丈夫かと言いたげにこちらへ視線を送ってくる。
「大丈夫だ。中は魔力の海だと考えればいい、そこに浸かればお前の身体に徐々に馴染んでいく」
「……わかったよ」
見慣れぬ機器にどうしようもない不安が拭えないのは当然のことだ。俺も最初に見た時はどうかと思ったが、如何せん前例を見ているからな。
ノアは言われるがまま、今度は足先から培養液へと入り込む。全身が液体の中に浸かるとポッドが自動で動作し始めた。
「こ、これでいいのか……? あ、なんか、身体が軽く……なんか、眠くなって……きたんだ、けど」
徐々にノアの意識が落ちていく。ジョッキー・フリートの時もそうだったが、初期治療では強烈な睡魔が身体を襲うようだ。その方が肉体へ掛かる負担も少ないのかもしれない。
いずれにせよ、効果が期待できそうだ。
時間的にはジョッキー・フリートよりは掛からないだろう。彼も全回復するまで使っていたわけではないが、少なくともノアの外傷はそこまで酷いわけではないからだ。どちらかと言えば、使用した魔力の補給の方が重要か。
「おい、レーデ……おまえ、先にいくんじゃねーぞ……」
薄らと開いた目で、ノアは俺を睨みつけながら小さく呟いてきた。俺はその言葉に返答をしない。
「ぜったい、だ……かんな――」
だが、何故そんなことを言ったのか。
ノアは眠りに落ちる寸前、独り言のようなか細い声でそう言い残した。
俺はノアから顔を背けると、自身の右腕に視線を落とす。
「俺が一人で出来ることなどタカが知れているが……ここで止まっていても、意味がないのもまた確かだ」
片腕が動くようになったのはノアのお陰だ。流石に両腕が不能じゃ何もできない、だからあの時ノアの力で肉体の負傷を癒されたのは間違いではなかった。
そもそもギリアムと戦う時にはそう願っていたほどである。
「悪いな、ノア。そう思うならさっさと治して……俺とソーマを、迎えにこい」
俺は構えていた荷物を全て下ろす。まずレッドシックルの剣を側に置き、左腕を背中から外して培養液に投げ込む。
腕は魔力漬けにされるが、ひとまず肉体が腐ることはなくなるはずだ。
上着も脱ぎ捨て、後ろに投げ捨てる。
今の俺が武器を持ったところで使えないなら邪魔なだけ、上着も重いだけなら外した方がいい。
俺は身軽になった身体を少し動かし、一息吐いた。
◇
「やはり人がいない、か。既に住民は避難している……時間的にはそうだろう。都市に残っている奴の方がおかしい。戦いの跡がそこら中にある。建物の損壊も酷いな。戦争はどこま進攻している……?」
ヲレスの診療所が外れの位置にあるため、主な戦闘区域からは遠い場所にある。しかし昨日の状況と違うのは、戦闘の跡が増えている点だ。
歩を進めながら、俺はほとんど手遅れの状況をただ眺めていることしかできなかった。
そして何よりの違い――戦争の音が都市より先から聞こえている。
ノアに担がれていた時は敢えて意識を向けず、またノアも目を逸らしていたが、もう始まっているのだ。
俺が眠っている内に、神聖教国軍が到着してしまい、それを数名の魔法使いを擁した面々で抑えているのだろう。一体本隊が到着してからどれほどの戦闘が続いているのか、それは分からない。
「……ともかく、動くしかないだろう」
俺が後手に回ったせいだが、全ては魔物の手の平の上というわけだ。奴らの目論見通りに魔法使いと神聖教国はぶつかり合い、互いが互いを潰し合う。
それを止める方法。
リーゼのような圧倒的な力があれば、そう難しいことではないのだが。
今の俺では何もかもが足りない。どうにかするためにはノアの完全復活が前提条件だ。リーゼに及ぶわけでなくとも、あの力は抑止力に繋がる。
なら俺が出来ることはソーマと合流すること、説得してジョッキー・フリートと合流すること、彼の力を再び借りることだ。既に始まってしまった戦を止めるのは容易ではない。不可能に近いが、だとしても片っ端からそうするしか方策が取れなかった。
「ラッテ・グレインから手に入れた魔法使いの情報。都市にいる魔法使いは約半数、といったところか」
確定でこの都市にいるのが四名。
ギリアム・クロムウェル。
クロード・サンギデリラ。
ディッドグリース・エスト。
そして先ほど会話をしたラッテ・グレイン。
恐らく、またはいる可能性があるのが二人。
バロック・ゲージ。
フレイル。
その内俺が対面したのがギリアム・クロムウェル、錬金を得意とする魔法使い。戦法に錬金魔法を絡めてこられると近接戦闘は絶望的であろう。こちらが何かしらの武器を使う以上、それを錬金で相手の手中に収められる。恐らくは衣類も駄目だな――見たところ、生物に直接使える類ではなさそうだが。
他の連中の情報は聞いただけのものだが、黒幕候補のクロード・サンギデリラが次元を割るらしい。ただ厄介なのはその魔法以上に戦闘技能か? どこまで次元を割るかによるが――或いは、〝禁忌〟に触れさえすれば、俺に有利に働く状況が作れる可能性がある人物の一人だ。
ディッドグリース・エストが呪縛――呪い、だったか。どのような類か不明だが、魔毒に似て非なる毒ではあろう。呪い――制約か? 肉体の自由を奪う、または意識を乗っ取る、そういうタイプの能力か……まずこいつには近寄らない方がいいな。
問題は後の二人だ。
近接戦闘特化というバロック・ゲージは論外、出会ったら即殺されると思った方がいい。少なくとも俺で立ち向かえる相手じゃない、純粋な戦闘力は絡め手の魔法と違って対処する術が何もないからだ。一番はこの都市にいないことだが……多分、流石にない。
説明からすれば根っからの戦闘狂、ならば樹海で神聖教国軍と戦っているのかもしれない。
残りは跳躍のフレイル――時間を操る、魔法使い。
こいつもクロードと同じだ。魔法というより最早異能、たかだか世界に存在するたった一人の人間が使えていい類の力ではない。もしも時空を超越するのであればそれは〝禁忌〟の領域だ、理を乱しうるものならばクロードと同じく優位に立てる可能性がある魔法使いではある。
だが流石に出会いたくはない。いくらなんでも情報が少なすぎる。
「一番出会って厄介なのがギリアムだが、結局他の連中とも対峙は無理だ。それよりソーマはどこにいる? 俺が倒れた後に別れたんだ、かなりの時間は経過しているが……調べるしかないか」
その時、樹海の方角から爆音が轟いた。
広範囲に殲滅魔法でも放ったか、遠くから黒い靄が天へと昇る光景が視界へ入った。今までも断続的な戦闘音は聞こえていたが、今のはとりわけ大きい。
余波による風圧がこちらまで飛んでくる。
本隊がああして戦闘を続けているならソーマ達も向こうへ合流……? いや。本隊は都市に攻め込もうとしていて魔法使いが防衛している形だろう、あれは。
ならば潜入に成功した奴らが外に出る理由はない。
やはり向かうなら学校、か。
だがそこにはギリアムが待ち構えている可能性が高いぞ。ソーマが生きているなら残党狩りで一人か二人残っていてもおかしくはない、普通に向かうのは自殺行為でしかなく。
「――この辺りか」
が、考えている内に目的地にまで辿りついてしまった。
倒壊した建造物こそ多いものの、その姿形は健在だ。防壁も以前見た時より壊れた箇所が多いようだが、その役割は維持されている。
もう少し先に行くと、ギリアムと戦闘した地点まで到達した。俺は近くの瓦礫の裏に身を隠しつつ途中で静止する。
――戦闘跡。錬金術で生成された黒鉄の破片が散らばっている。あれがソーマの武器が割った地面で、奥側の盛大なクレーターは……誰のだ? 俺の記憶にはない。
意識を失った後に刻まれた物だな。余りに激しい戦闘の余波で、俺が知っている時点での傷跡の大半が微塵に吹き飛ばされている。
「血痕があるな。既に乾いていて、黒い染みが続いている」
視線で辿れば瓦礫の裏にまで続いていることが分かった。
まず魔法使いのものでない。すると俺かソーマかノアの血痕か。黒く変色しているならば新しい血痕ではないから、辿っても危険はない。
「……二方向に分かれている?」
ところが瓦礫の裏に来た後、少し進むとその血痕が綺麗に逆方向へと別れていたのだ。片方が学校の外側へと続いており、片方が内側へと。
外の方向は――これは俺の血痕、ノアが俺を連れ出した時に付いたものか。ならばソーマと別れた地点がここになる、内側へ続くのがソーマの血痕……アイツは腹をぶち抜かれていたはずだ、結構な血液の染みが跡を残している。
「……ぐ、何だ」
跡を追おうと身体を動かすと、眉間の奥から首筋の裏にかけて短い電撃のような痺れが走った。両目の視界が歪んで一瞬色を失くす。
――クロードの何を知っていやがる――。
手放しそうになった意識を気合で留めた時、何か声が頭に響いた気がした。
それは男の声だ。
殺意と怒りとを湛えた獰猛な叫びだ……違う、これは、声じゃない。次いで情景が頭に浮かんでくる。
それは俺が地に伏して意識を失う寸前の出来事だ。
血に塗れた俺は――これは、俺の記憶のフラッシュバック。
「――そうだ。ギリアムに俺は訊いたのだ、何故そんなことを忘れていた」
俺が奴をクロード・サンギデリラと言った時、奴はこちらを睨んできていた。そして言ったのだ、「何か知っているな」と。
だが彼はクロードが何を企んでいるかを知らない様子だった。だが協力はしていた――特殊強化結晶――そうだ、それだ。奴はそこまで手を貸した上でクロードについてこの俺に訊いたのだ。
奴はクロードの情報を知りたがっていた。
それはきっと、大事な交渉材料になる。
「……思い出せて良かった。先へ進もう」
俺はぶつぶつと独り言と思考を繰り返しながら、もう一つの血痕を辿っていく。
そうでもしないと意識が肉体から離れてしまいそうだった。少しでも脳を休めれば二度と動き出せそうになかった。
「ああ、血痕は建物の中に続いていたか……流石に危険ではあるが、進むしかないな」
血痕は倒壊していない建物の中へと続いていた。
中には誰が待ち構えているかは分からない。これでも魔法学校を名乗っているのだ、最上位の魔法使いだけが総戦力ってわけでもあるまい。
そりゃ大多数は樹海の方に回されているだろうが――俺は気を引き締める。
もう二度と意識が落ちないように目の前の歪んだ視界を睨みつけて、足を踏み入れた。
校舎内は異様な静けさに包まれていた。どこか寒気のする冷気が頬と背を撫でる。ここでもまだ人の気配はどこにも感じられない。
血痕は薄暗い廊下の奥へ奥へと続いている。俺はなるべく気配を絶ちつつ、慎重に奥へと進んでいく。
――死体。
先を行く道の途中には、そこには魔法使いの死体が幾つも転がっていた。首を捩じ切られた死体、胴体を横に切り飛ばされて頭部を破壊された死体、心臓を一突きにされた死体、肉体の一部分しか残っていない死体――。
いずれにしても、あまり綺麗な殺され方をしていないものばかりだ。不意打ちが上手く行かず、正面からの戦いになってしまったと予測される。
よくこの数を相手に競り勝ったと褒めるべきか、傷の経過が良くないと心配するべきか。
あれでは本来の力など発揮できないはずだ。
そこから先は染みついた血が入り交じっており、途中から一切の血痕が消え去ってしまっていた。急いでこの場から脱出したのだろう……建物内部はそこまで入り組んだ構造ではないが、全くの手掛かりなしで捜索を続けるのは悪手であろう。
「なんだ……? この臭いは」
少し死体から離れると、死臭とは違う何か異質な臭いが鼻を突いた。この道をまっすぐ、その奥からだ。他の通路の先にそれはない。
腐臭も入り交じる。だが、何だ。喉がむせるような灰の臭いに、刺激臭か……? 肉が焼けたような臭いもある。
「――レーデ……君はレーデか?」
躊躇いながらも一歩足を踏み出せば、鳴った足音に被せてその男の問いかけが微かに響いてきた。
臭いがした方向だ。今ので俺だと分かるような人物は、一人しか思い当たらないが、念のため。
「お前は――いや。お前の反応にあるのは俺だけか?」
「君らしい質問だ。俺の反応にあるのは君一人だけ。ノアは治療中か」
「そんなところだ。直にやってくる」
あの結晶を引き剥がす治療ではないが、全くの嘘ではない。
俺は奥へ居るのが罠や幻覚の類でないことを確認し、臭いのする場所へと歩いていく。
一番端の右側、開けっ放しの扉の先――机が並ぶ小教室、その教卓横にソーマはいた。
一人ではなく、極めて強い腐乱臭を放ったもう一人の傍に寄り添う形で。
「まだ生きているのか。何かあったんだな」
「正確には何かが起きた後だ。俺はもう、遅れてしまった」
「――そいつはレギンか」
俺は眼下で横たわる瀕死の彼を見て、本人に掛ける言葉が浮ばなかった。
身体の半面が焼けるように爛れ、もう半分は骨と皮だけに細くミイラ化したおぞましい姿。
雄々しかった剛毅なる者の姿は面影すら残っていない。かろうじて「ひゅう」という小さな呼吸が耳に入るだけの弱々しい姿。だが、もう少しで息が止まるだろう。
「ノアからどこまで話は聞いている?」
ソーマが常と変わらず冷静に言う。
「お前がレギンと接触し別れたところまでだ。お前はノアの力を察知されると困るから別れたんだろう?」
「ああ。レギンはその時はここまで酷くはなかったんだ。最初は腕が少し爛れていただけだった」
「何……? どういうことだ」
ソーマは話す。
レギンは普通に立っていて、まだ普通に喋ることが出来る程度には元気だった、と。
それこそソーマの傷を心配する程度には力もあり、ソーマはノアのことを上手く隠しつつレギンに守ってもらう形でここまで来たのだという。
だがここに来てからそのレギンの様子がおかしくなった。
「腕までしかなかった爛れが胸部まで回っていたんだ。そしてもう片側が見るからに痩せ細り、筋肉が萎縮を始めていた――俺もやれるだけのことはしたが、ダメだった」
「そう、か」
俺はレギンの状態を確認しつつ、周囲へ視線を配る。別に何か罠が仕掛けられていた形跡もない。魔力灯が光を失っていることを除けば普通の教室だ、そもそもレギンがこうなるようならソーマにも異常が発生するだろう。
なれば、原因は一つだ。
「レギンは何か喋っていたか? 例えば……魔法使いと戦った後だとかな」
「その通り、君はやはり察しがいいな、レギンの状態は魔法使いにやられたものだ。彼が逃げてきたと言っている」
やはりそうか、なら該当する魔法使いは二人。
「魔法使いの性別や特徴は聞いているか」
「女だ。血塗れでほとんど分からないと言っていた。ただしこうも言っていたな、身体が継ぎ接ぎだらけだったと」
「継ぎ接ぎ……? そりゃどういう意味だ」
「俺にも分からない。レギンが言うには、そいつは自分の肉体を自分で切り刻んでいたらしい……ただの自傷ではないだろうから、魔法の発現に必要だったのか?」
「ふむ。姿は知らんが誰かは分かった」
今のでその一人は割れた。
元々俺の候補にあったのは『魔毒のラッテ・グレイン』と『呪縛のディッドグリース・エスト』の二人だ。毒の可能性を考慮して奴も候補に入れたが、症状を見るに特徴は呪いに近しいものを感じる、そんなただの消去法だったが……やはり魔法使いの情報は聞いておいて正解だったな。
「そいつは〝呪縛〟の魔法使いだな。レギンがやられたのはその呪縛によるものの可能性が高い――ソーマ」
「……ああ。分かっている」
ソーマは俺が言う前にレギンの元へ向かう。レギンは虚ろな瞳でソーマを見つめるが、すぐに目を閉じた。彼自身、己が助からないことは十分過ぎるほどに分かっていたのだろう。
ソーマは「すまない」と一言残し、最早喋ることもできなくなっていたレギンの首元を――大斧で切断した。
「せめて命の灯が消えるまでは一緒にいてやらなくてはと思った。仲間だからな」
「……悪いな。急かす真似をして」
「いずれはこうするつもりだった。多分、もう他に仲間は生き残っていない。生きていたとしても俺やレギンとそう変わりない状況だと思う。それでは生きているとは言えない」
「ああ。絶望的だな」
「俺やノアだって、君という助けがなければ既に死んでいたのだろう……これからどうすればいいか、俺には分からない。この傷では俺も満足には戦えない」
そう言って彼は腹の傷を見せる。
彼の腹は乱暴に止血され、雷で焼き切れた痕が残されていた。貫通した際に背骨は外れていたのが不幸中の幸いか。
「まぁ、俺も変わらん。片腕と武器を全て失った。傷はある程度治ったが、この意識もいつまで保つ分からん」
「なら、君はこれからどうするつもりだ?」
「ああ、俺か――そうだな。やれることだけはやるが」
お互いに分かっているんだろう。
もう、何をしても無駄だという絶望感が周囲の空気を重くしている。ソーマとしての幸いは本隊が到着して戦争を開始していることか……だから彼にやり残したことはないのだろう。俺にとっては最悪だが。
「やれること? とは……」
「戦闘続きでお前には言えていなかったな。この戦争、本当の敵は魔法使いではない」
「それはどういう意味だろう? 本当の敵がいるというのか、他に」
「俺が意識を失う前にあの魔法使いへ問うた名前だよ。クロード・サンギデリラ、敵はそいつだ――問いかけた奴は違ったがな」
「……確か、ノアをあのような姿にしたのもその人物だったか」
よく憶えている。直接にノアへ魔晶を埋め込んだのはギリアムであろうが、おおよそ正しい。
「そいつは魔物と手を組み、この都市と神聖教国を滅ぼすつもりでいる」
「うん……? 手を組むとは、また珍妙な言い回しだ」
「魔物にも知性を持つ奴がいるんだよ。実のところ、俺にとっての敵はそいつなわけだが。クロード以外の魔法使いもお前らも俺も、そいつらの手の平で踊らされているに過ぎなかったというわけだ」
「にわかには信じがたい話だけれど……なるほど」
信じがたい話なのは承知の上だ。
しかしこの状況で俺の話を疑るソーマではない。だから大切な時間を消費してまで話すのだ。
「俺は十二人の魔法使いの内、こちらに敵対してこない魔法使いとは二名ほど出会っている」
「……む? そうなのか」
「俺は魔法使いを殲滅しに来ているわけじゃないからな。そのことが分かったんだろう。俺も全てを信じたつもりはないが、色々と向こうの事情を知れたよ」
「俺やノアと出会った時のように、か? 確かに俺達にはできない芸当ではある。ただ、その事実が真実であったとして」
ソーマが窓の外を見やる。空はいつのまにが暗雲が立ち込め、陰りを地上に落としている。まるでこの先の行く末を暗示しているかのように。
「戦争は始まった。もう誰にも止めることはできない」
「俺はその戦争を止めるつもりでいる」
「……」
黙したソーマは窓の外を見やった。
「不可能だ。皆、戦いを望んでいる」
「……魔法使いを討つ、か?」
「ああ……俺も、ノアも、皆も、そうやって生きている。今更間違いを踏んだとて止まれないさ」
「お前も、か?」
ソーマは自嘲気味に笑った。
「俺は止まれる。元よりこの戦争には意味がないと知っているから」
「……なら、何故ここまでやってきた?」
「皆、平和が欲しかったのさ。誰かを排斥すればそれが手に入ると思いたい。そう思い込むのが一番簡単で分かりやすい幻想であろうから。一兵の俺にどうしてそれを止められようか」
「そうだな……宗教国家の軍に訊くことではなかったか」
「皆、魔法使いを殺せば平和になると信じて疑わない。俺は魔法使いが敵であろうが味方であろうが、皆がそう信じるならそれで良かった。滅ぼすことができれば、どのみち俺達は平和を手に入れられるのだ」
だがそれは叶わぬ夢だった。現実は夢ほど簡単で優しくはない。ソーマはそれでも冷静そのまま、俺が聞きたかったことを答えた。
「俺には戦争を止められない。すまない、君の願望も叶わないと思う。俺達には力がないのだから」
――ああ。
――そう、だな。
俺は彼のその言葉を聞いて、ふ、と力が抜けるのを感じる。まだ残る意志が駄目だと必死に抵抗しているが、どこか諦めている俺がいた。
俺の悪あがきは算段があってのことではないと、俺は知っていた。
諦めたくないがために無駄なことをやり続けていたのだと、心のどこかで俺は知っていたのだ。
限界なんてものはとっくに超えていたことを。
最初から分かっていたことではないか。
俺はそういう人間ではないと。もう少し、もっと昔に――いや、そういう話ではない。俺がもう少しリーゼのように愚直で真っ直ぐな馬鹿であったのなら――いや、これも違う。
ここまで、か。
駄目だ。何も思いつかない。
どこかに解決策はあるのかもしれないが、ああソーマの言った通りだよ……畜生め。
魔法使いの力を借りたって――もう、これは取り戻せないんだ。投げられた賽を元に戻すだなんてことは、不可能だ。
時間切れ。
こと切れた俺は、俺の意志はそこから離れていく。
諦めてしまったと心が受け入れたのなら、それは明確な敗北だ。
俺の、負けだ。
俺はそこにあった壁に腰掛ける。ふと力を抜けば、もう身体がほとんど動かないことに気が付いた。
いつの間にか視界から色が無くなっていた。
感情もほとんどなくなっていた。
何もかもが遠くに感じる。
世界が――遠い。
きっと。
俺は。
「俺は役目を終えたようだ。だからここから動かなかった。そして、君が来るのを待っていたが――。レーデ?」
――ああ、知っていたよ。
――――決意を抱いた瞬間には。
――――――もう、手遅れなんだということを。
――――――――だって俺がそんな選択、できるわけないだろう。
できるなら、とっくの昔にやっていた――。
◇
「どこへ、行った?」
そこに声を掛けたはずの男の姿は、どこにもなかった。
先ほどまで目の前に居たはずだ。死に掛けてはいたが、生きていたはずだ。体温もあったじゃないか。
ソーマは教室全体に視線を配り、レーデの姿を探す。
けれど、何もなかった。彼がいたという証はなかった。
最初からいなかった。自分の夢幻だった。
――きっと、そうなのだろう。
あんな場面で別れて、二度と会えるわけがない。幻聴だとすればそれまでの突飛な話も納得だ。あれはきっと、自らの妄想が生んだものだったのだろう。
ソーマは窓越しに空を見上げる。
ぽつり、と雨が降り出していた。水滴が窓に張り付く。
これから強まるのだろう。あれは嵐に発展する雲だ、戦にも影響が出るほどの嵐になる。
……独り言を吐いた。
「そうだ。ノアに、会わせてくれないか」
そう言おうとして――妄想は消滅したのか。
力なく仰向けになる。がらんと崩れ落ちた大斧を横目で眺めながら、雨の音を感じながら、死臭をその身に受けながら、ソーマは目を瞑る。
終わったのだ。
じゃあ、後は眠らなくては。
色々とやり残したこと、思い残したことはある。
ほとんどは消え去ってもいい。ただ――ノアは、助かっていて欲しい。さっきの妄想は、幻聴は、真実であってもいいじゃないか――。
ソーマはそんな願いを馳せながら、緩やかに、静かに。
意識を失った。




