七十一話 即席チームワーク
「準備はいいのね?」
「はい、私はこれで大丈夫です」
北大陸へと到着したリーゼとサーリャは、それぞれ旅支度を整えて港町の入り口に立っていた。
大通りは元々の住人に加えて避難民で溢れ返っており、数ある船着き場が全て海賊船で埋まっているという中々壮観な光景になっている。このような状況ではあるが、お陰で市場は賑わっていた。
「一度魔法都市に戻るわ。リーゼにはできれば付いてくるなって言いたかったんだけど」
「そんなわけにはいきません! 勇者としての力はありませんが、私だって戦えます」
「……まぁ、言うと思ったから強制しなかったのよ。私としては海賊と一緒に港に居てくれた方がいいんだけど。そっちの方がレーデの情報も集め易いだろうし、何より安全だから」
「私、レーデさんは魔法都市にいるような気がするんです。だから行きます」
「どこにそんな根拠があるのよ……いいけどね」
サーリャは溜め息混じりにそう言って、しかし頷いた。
レーデが死んでいる可能性。
必ずないとは言えないが、そうとは到底考え難い。
これから向かう魔法都市は魔物とイデアが関わっている――或いは関わろうとしている場所だ。だったらそこにレーデがいてもおかしくはない。サーリャの予測にも根拠はないけれど、その可能性は十分にあると踏んでいた。
「ところでなんだけど……荷物、邪魔じゃないの?」
「え? いえ、レーデさんのなので置いていくわけには」
こともなげに言うリーゼであったが、彼女は先程からその小さな背中が隠れんばかりの大荷物を背負っていた。旅をする時にそんな馬鹿みたいな荷物など邪魔にしかならないのだが、本人が持っていくと言ったのならいくら言っても聞かないのだろうとサーリャは諦めることにしていた。
リーゼは中身を誰にも見せないことを徹底しているのでその中身を彼女以外が知ることはない。一体何が入っているのだろう。
「ん、手配した馬車が来たわね。今回のこともあってごたごたしていたみたいだから、割合時間掛かっちゃったみたいだけど」
こちらへやってくるその影を遠目で見つめ、サーリャは懐から何かのチケットを取り出した。
やってきた馬車が二人の前までやって来て止まると、中から御者の男が降りてきて会釈をする。サーリャがチケットを見せると彼は小さく頷いて客席の扉を開いた。
「さ、入るわよ」
黒い毛並みの馬が二頭。分厚い布で覆われた木製の籠に、鋼鉄製の車輪。リーゼが以前に乗り合った馬車と比べると幾分頑丈な造りをしているようだ。
先に中に入っていくサーリャに続いてリーゼも馬車に乗り込む。背後の荷台に重たい荷物を預け、とすんと腰を落ち着けて一息吐いた。これで張り詰めた緊張感が抜けるわけではないが、ほんの少しの安心感がリーゼを包む。
リーゼは勇者ではなくなった。以前のような力を振るえなくなった彼女に疲れを吹き飛ばすだけの無理はできず、確実に疲労は休息を必要とする。それでも、と無理を続け――いや。それがいつしか日常となっていた少女は、ここまで不眠不休でやってきた。船の上でも警戒を怠らず、町に着いてもそれは変わらない。
「……すー……す……」
だが今の彼女にはここで限界だった。
馬車に乗り込み力を抜いた瞬間、一言も発する間もなく彼女は眠りに落ちる。疲れ切っていた彼女は、今だけは安らかな休息を取っていた。
リーゼの寝顔を慈しむように眺め、サーリャはその小さな頭の上にそっと手を乗せる。
「安心しなさい。別に置いてかないわよ、そっちの方が……後でヤバそうだし。頼りにしてるわよ、リーゼ」
これから向かう場所は、相応に危険が迫るだろう。
だからサーリャは海賊の同行を断った。副船長であるガイラーとランドルが同行すると言ってくれてはいたが、彼らに付いてこさせるわけにはいかない。
彼らには海賊としての本分がある。それに多分、いざ戦闘が始まってしまえば――邪魔になる。例えギレントルほどの実力があっても、だ。
サーリャは己が右手に炎の魔力を込め、一度精神を統一させる。
自分はどこまでやれるのか、果たしてこの魔法陣を用いる戦法であの魔物と対等に――そうじゃない、倒すことが出来るかだ。
「今、魔法都市がどうなっているのかは分からないけど……行ってみなきゃ分からない。ちょっと嫌な予感がするけれど――どうにかするわよ。そのための魔法使いで、そうするための力なんだから」
二人を乗せた馬車は、町を発つ。
戦乱の魔法都市へと向かって。
◇
――がり、と鉄を削り取る鈍い音。
火花を散らして炸裂する衝撃は、互いを左右に吹き飛ばす。
次いで反転、両者はぶつかり合い、幾重の攻防が繰り広げられる。
一撃受ければ即死の攻撃を互いは交わし続ける。
片方は死にもの狂いに、片方は猛獣の如く。
だが、次の一撃が交わることはなかった。
赤い刃、強烈な一閃が両者の間を突き抜ける。互いが一瞬気を取られて静止した中――その男は口を開く。
「ソーマ。いや、状況は理解している。ひとまずノアを救出するぞ」
レーデが中心に割り込み、剣を噛ませて両者の攻撃を中断させていた。
ほとんど咄嗟に身体が反応したものだった。
ソーマと戦っている化物が、魔物などではなくノアだと分かった瞬間――胸部の中央に赤い結晶が埋まっているのを見た時点で、ああと納得する。
どうやらジョッキー・フリートの言っていることは正しかったようだ。ただ、間に合わなかったが。
俺は懐から抜いた剣を突き立てるようにして飛び込み、暴走するノアが振りかざした爪へと突き出した。鈍い手応えがして、こちらから斬り掛かったはずの剣が大きく後ろへ弾かれた。
「なんて硬さだ、切断もやむなしと思ったが……こいつが魔晶だな」
「レーデ? どうしてここに。そちらの用件は終わったのか」
「残念ながら。寧ろ案件が増えたと言っても――チッ」
俺へと標的を変えたノアは即座に体勢を前のめりに、弾丸の如く地面を駆って突進してくる。それを何度か左右へいなして防ぐと、ノアは一度後退し四足で立ち止まった。ぐるぐると喉から発される明確な威嚇を聞き、俺は苦笑を浮かべる。
「まるで獣だな。赤い魔力に耐え切れず肉体が暴走し、猛獣のようになっていやがる」
獣が如き姿勢がいい例だ。
人間は普通そんな戦い方はできないが、魔力で異常な硬度を手に入れたお陰でその爪も歯もかなり凶悪な攻撃手段となっている。小さな肉体からは容易に想像はできないが、大型の肉食獣でもこうはいくまい。それほどに強力だった。
「一旦退くぞ、ソーマ」
「レーデ、一体何を知って――? いや、了解した。待避した後、そちらで何があったか尋ねる」
「そうしてくれ、生憎こんなのを相手に語っている暇はなさそうなんでな――逃げるのが精々だ」
俺は背後にある曲がり角を示し、自らノアへと相対して何度か剣戟の火花を散らす。三度目の剣閃がノアの爪先と打ち合いを果たし末に、俺は地面に転がっている死体の生首を髪の毛ごとひっ掴んだ。それをノアへと投げ飛ばす。
「今だ!」
不意の攻撃を顔面に受けたノアが停止したのを見るや否や、身を翻して曲がり角へと逃走する。
今のノアは獣そのもの。幸いにも人間として磨いてきた技術は何も生かされてはいない――その上獣としての経験も器官も発達していないその身体では、見失った俺達を探すのは困難であろう。
曲がり角へと転がり込んだ俺は、少し先を行くソーマに指示を飛ばして瓦礫の反対側へと回り込んで貰う。俺は一度だけ背後を確認し、まだノアがこちらまでやってきていないことを確かめてからソーマの後へと続いた。
「……撒いたか?」
「ノアは瓦礫を挟んだ建物の奥で止まっている。こちらに来てはいない」
「お前達の気配察知だな、助かる」
よし、確かにこちらへ近付いてくる気配は感じられない。ならば闇雲に標的を探し出す頃合いか。俺は手元の剣を地面へ置き、左手をだらりと下げて力を抜いた。左腕の感覚が鈍い――流石に痺れる。
これ以上やっていたら途中で得物を取り落としていたところだ。
「んで。何から伝えよう」
「ノアの有様を知っていたみたいだから、何か重要な事柄を知っていると見える。それを教えて欲しい」
「……あれは特殊強化結晶と呼ばれる魔晶の一種だそうだ。肉体に同化することで効果を発揮し、同化した者の魔力を増幅させることを目的として造られていた」
それがノアの肉体と同化しあれだけの暴走を行っているということは、既にクロードと対決して敗北したのか――他にも同様の状態に陥っている者はいるのか。
アレを沈黙させる方法は、一目見ただけではまだ浮かんでいない。下手に胸部の結晶を破壊して爆発でもされるのは困る。
だったら魔晶へ触れずにノアを殺すか――そいつはあまり考えたくはない。最悪の手段にも入らん愚策。
「俺はその情報を、ヲレス・クレイバーが所有する研究室にて手に入れている」
「――魔晶、だと?」
ソーマは魔晶の部分に過敏に反応し、眉根を寄せる。
俺が言う前から薄々感付いていたのだろう。ノアが纏う赤い力のことを。あれは紛れもなく魔力だ。魔法を使わないはずの彼女が、ああして魔力を用いて暴れているのだ。
「こいつを造ったのはクロード・サンギデリラ。恐らくノアはそいつに敗北し、魔晶を埋め込まれたのだろう」
「対処法はあるのか?」
「ない、そして状況は最悪だ。ノアがああなっている以上、他の連中も魔晶を埋め込まれている可能性は十分にある。お前だけでも無事だと確認できたのは幸いだが――」
「あの状態は、いつまで持つ?」
ソーマの問いに、俺は途中で言葉を切らざるを得なかった。まだ魔晶について詳しく説明したわけではないのだが、あの暴走状態を見りゃ察するか。
魔晶の成功例はない。このままでは魔晶に内蔵された魔力を使い切った後――ノアは、
「そう長くは持たないだろう」
「……仕方あるまい」
俺の答えを聞くなりソーマは立ち上がった。
大斧を背中のベルトへ固定し、表情の読みとれない顔でこう告げる。
「引き続き魔法使いを殲滅する。俺にできるのはそれだけだ」
諦めというよりは、この一瞬で切り捨てたのだった。
唯一無二のパートナーであるノア。助けられるのであれば助けるが、そうでなければ躊躇なく捨てて先へと進む。死ぬと分かっていて特攻を切った部隊、当然そうなるだろう――そうさせないのが、俺の役割だ。
ここでノアを見捨てていけば、ソーマは確実に死ぬまで戦う。弔い合戦ではないが、それがソーマに課された役目であることは先刻承知の上。こんなところで犠牲を出すようでは、ソーマを押し留めることなど出来やしない。
「――待て。生きて助け出す方法なら、考えつかなくもない」
「ない、と。先ほど言ってはいなかったか?」
「考え得る限り最悪の手段、とだけは言っておこう。完全な思いつきであり、成功する保証も全くない――だがノアが生きてさえいればいいと言うのであれば、俺は最善を尽くそう」
俺のその宣言を聞き、ソーマは視線を俺に向ける。値踏みするようなその瞳。その口元が僅かに綻び、彼は小さく笑みを浮かべた。
「実はそう言ってくれるのでは、と思っていた節がある――でもどのような手段がある? レーデ」
最悪の手段。
それは俺にとっての最悪なのではなく――こいつら、神聖教国の人間としての最悪だ。何故ならばこれから、神聖教国が死ぬほど嫌って使わない魔法を用いてノアを助けようというのだから。それを承認してさえくれるのであれば、可能性はある。むしろそれしかない。
「そうだな……お前は魔法を利用することに抵抗はあるか? まぁどちらにせよ、自らの意図ではないにせよ、既にノアは魔法を使ってしまっている――ならば今更何度魔法漬けにされようと何ら違いはないだろうが。念のため聞いておこう」
「なるほど――くく、確かにその通りかもしれない。使えるものは敵の物であっても使わない手はない。頼む、こちらも出来る限りのことを尽くす」
俺がそう言い出すのを待っていたとでも言わんばかりに含み笑いを浮かべ、ソーマはこちらへ向き直る。
「しかしあの状態のノアをどうやって止めよう」
「相手を殺す気でやればその限りではないだろ? 殺さず殺せ。半殺しにして動きさえ止められれば、後はどうとでもなる」
「無茶を言ってくれる。だがやってみせよう――ところでそちらの魔法というのは一体?」
「――俺が先ほどまで居たヲレスの研究施設を使う。そこに魔法仕掛けの医療機器があってな」
「ノアに使う、ということか」
あのポッドの再生力があれば不可能ではないかもしれない。何せジョッキー・フリートがあそこまで損傷した肉体を僅か一日足らずで修復したほどだ。
しかしあれは彼という魔法使いが使用して初めて成立するのかもしれず、だからこそ確証はない。
例え肉体だけが元通りになっていても、その魂が既に抜け落ちてしまっていては二度と彼女が起きることはないのだから。
「問題は魔晶をどうするか、だが……先ほどのやり取りで俺がノアを止めるのは無理だと分かった、数度のぶつかり合いで腕が麻痺するなどあり得ん」
「なるほど……レーデ、一つ無茶を承知で頼まれてくれないか?」
「……言ってみろ」
その頼みを引き受ければ打開策でも見つかるのか、ソーマは不敵に笑ってみせた。ほとんど無愛想と無表情を貫く彼がその顔をする辺りが不安ではあるのだが、まぁ乗ってやらんでもないか――。
「囮役を頼みたい。しばらくノアの注意を引きつけてくれさえすればいい」
お前、人の話聞いてたか?
「――さて。最善を尽くすと言ったからにはやるが……しっかりやってくれよ、ソーマ」
びゅう、と一際強い風に吹かれて小石でも巻き上がる中、俺はノアと再び対峙していた。獲物をずっと探していたであろう彼女は、動く俺の存在を感知しその首をこちらへ回してくる。
「…………っ、?」
ぎょろりと見開かれたその両目。
ようやくの獲物を発見したことでノアは興奮状態へ陥っていた。充血した眼でこちらを睨みつけ、到底人間から発されるとは思えない唸り声と共に前傾姿勢を取り、四足での戦闘体勢に入ろうとしていた。
「どこかで見たことがあると思えば、猫の狩猟時のような――ならば俺は鼠というわけか」
数十メートルの距離を取りつつ俺は剣を順手に構え、まず周囲の地形を確認していた。
俺達を見失っていた間に随分と大層な暴れ方をしたようで、魔法学校に設置される施設の数々は無惨にも破壊されていた。その半分は魔法使いによる反撃の余波だというのは窺えるものの……死体に瓦礫の山。
少なくともこの付近に限っての破壊は、彼女がもたらした結果だと言っていい。
建物を素手で破壊した影響か、彼女の両手の指先は自らの血で染まっている。如何に頑丈と言えども元が人なら元来の脆さは健在だ。これ以上の無差別破壊活動は彼女自身の崩壊を早めるだけ。
「……いつまで持つことやら。まぁ相手が獣なら、一つ武器を使い捨てりゃ何とかなるだろう」
結局、俺は囮役としてノアと対峙することを拒否はしなかった。
俺にノアを倒しきる術がないので囮でも何でもやってやろうということだが、一体ソーマはどうするつもりなのか。
突進してくる彼女から目を離さず、俺はすぐに守りへと移った。
初撃、その身で突撃してきたノアから横へ回転して躱し、反転して爪を振り翳すノアの動きに合わせて前面を剣でカバーする。
それを気合いで受けきった後、一度剣から手を離して左手を自由にし――攻撃による一瞬の隙を突いてノアの顎下から掌底を打ち込む。仰け反ったノアの下腹部を前蹴りで吹き飛ばし、再度剣を拾って一歩後ろへ下がった。
蹴りの手応えが薄い。
「勘が鋭いな」
前蹴りの際、自らも後ろへ飛んで威力を潰していたノアは空中で一回転し、着地と一瞬の溜めを利用して反撃に転じてくる。先と全く同じ体当たりだが、更に速度の増したそれを避ける暇などなく、俺はもう一度剣を盾代わりに、
「――ぐッッ!」
およそ人間同士の衝突で発生する威力ではなかった。
例えるならばトラックに直撃されるような圧倒的な重量と衝撃、めきめきと骨の軋む音を聞きながら俺は数十メートル後方へと宙を舞う。最初に取っていた距離よりも少し遠い位置にて地面と落下した俺は、なんとか立ち上がろうとするものの――鈍い腹の痛みと吐血で顔を歪める。
今ので腹の傷が開いたのだ。
服に赤い染みを作りながら下腹部より垂れる生暖かい鮮血。足まで伝って、地面を濡らしていく。
痛みに呻く時間などない。剣を持つ左手で軽めに傷口を押さえ、再度突っ込んでくるノアを満身創痍で迎え打った。
「クソ……まだか」
俺が囮をする際、ソーマは一撃に全てを賭けると言って建物の反対側へと回り込んでいた。そうすれば丁度、俺と戦っているノアの背後を突くことができるからだ。
しかし現時点でソーマの姿はどこにも見えない。
あるのは既に距離を半分以上詰めてきているノアだけで、俺は血反吐を地面に飛ばし、手の痺れどころか先の衝撃で感覚すらも鈍くなった全身を雄叫びにて鼓舞する。
「ノア、少しでも自我が残っているのなら返事をしてみろ!」
名を呼んではみるものの、彼女は反応などしない。
ただ俺という獲物を狩り殺すため、三度目の突進を仕掛けてくる。
「仕方ない、手荒く行くぞ」
俺は腹の傷から手を離し、剣を離して懐からナイフを手にした。それをノアへと思い切り投擲すれば、ノアは額に突き刺さる直前で難なく打ち払ってくる。
真横に弾かれたナイフ――俺の腕や指へと繋がっている糸を通して、俺はナイフを操作する。それは前へと出てきたノアを取り囲んでぐるりと円を描いて軌道修正し、糸に絡んだノアの側頭部へとナイフが追撃する。ノアは再度襲い来るナイフに気付いてか一度突進を中断して鬱陶しそうにナイフを弾いた。
それが俺の狙い。
逆方向へと走る銀線の輝きが、一斉にノアへ牙を剥いた。
「――――!」
「悪いが、少し痛いぞ」
腕を引っ張ることで糸を操作し、ノアがナイフを弾く際に絡ませた腕と上半身を一周した銀糸が彼女の肉体を拘束する。
それは暴れるほど身体に絡み付いて離れない糸の牢獄だ。
「クソ、俺の腕が引っ張られる……っ、こいつも使うか」
俺は咄嗟に懐から引き抜いたもう一本のナイフを投擲した。
その切っ先はノアの頭の横を通り抜けて空中の糸によって弾かれることで、更なる銀色の線がノアの周囲を飛び交り雁字搦めに縛り上げていく。
糸がナイフの刃よりも危険な代物であるとようやく判断したノアは必死に糸を引き千切ろうと暴れるも、却って巻き付く糸が身を阻む。糸を外そうと引っ張れば更に全身の肉へと食い込み、肉を引き裂き、次第に身動きすらも取れなくなってゆく。
「それ以上暴れるな。お前がもがくほど糸は身体を切り刻み、お前の抵抗が強いほど牙を剥く。言っても分からんだろうが――っと、これ以上離れると逆に俺の腕が持ってかれちまう」
俺は強烈な力で引っ張られる左腕を何とか制御しつつ、自分で自分を縛り上げるノアへと一歩一歩と近付いていく。
彼女は体勢を崩してその場に倒れ込んでもなお、暴れることを止めようとしない。肉が斬れることなど意にも返さず、赤き魔力をより強く迸らせた。
「おいおい……それ以上やると肉片になるぞ……ソーマ、まだか!」
いくら魔力で強化されていても限界は見えているのだ。糸は確実に彼女の肉体を傷付けていき、大量の血が吹き上がる。
だがそれでも彼女は動きを止めない。
――嫌な音が、糸を伝った。
「こいつは」
流石にそこまでは想定していなかった。動けば切断される糸の牢獄に掛かってなお一切の抵抗を止めないなど、最早それは化け物ですらない。
悲鳴を上げる糸が、少しずつ伸びていくのが見ていて分かる。ノアは自らの身体など考慮せず、力任せに解こうとしているのだと。
ばつん、と。
一本の銀糸が弾けて千切れた瞬間、俺の腕が軽くなる――それは即ちノアが、拘束していた糸から解放されたことを意味する。こうなればもう一本の拘束など毛ほどの意味もなく、空しく千切れて地面へと落ちた。
「がああぁああぁああああああぁああっ!」
血塗れの彼女は両腕を広げ、天高く咆哮する。
哄笑を浮かべ、血の涙をこぼす瞳が俺を捉える。
それは勝者が浮かべる野生的な笑みだった。獲物の抵抗も万策尽き、これから自分が獲物を喰い殺すのだと分かっている顔だ。
彼女は骨まで断裂した肉体で難なく立ち上がると、ようやく剣を拾い上げた俺に向かってニ度の咆哮を上げる。
――その背後に、迫る影が見えた。
「すまないレーデ。遅れた」
「……危うくやられるところだったぞ」
大槌を振りかぶったソーマが、今正に俺に止めを刺そうとしたノアを――真横から思い切り吹き飛ばした。




