六十八話 圧倒的で一方的な
「……やっと着いたな」
荷物を引きずりながら歩くことしばらく、ようやく目的地へと辿り着いていた。
ここまで来ると戦地からは大分離れており、建物などの被害はゼロに等しかったが、診療所という名だけあって避難しに訪れる怪我人の数は多い。
ヲレス本人は今いないが、それでも緊急時には頼るしかないのだろう。扉にもたれ掛かって呻いている者が多かった。ヲレスを待つとすれば一体何日待たねばならんのか……まぁ、今居ないんじゃそう短期間で戻りはしないだろう。
あの性格だ、積極的に都市を守ろうとする奴でもないしな。
しかしどうするか。中に入るにしたってこれでは悪目立ちが過ぎる。俺達が強引に入れば、ぞろぞろと後ろからついてくる可能性が高い。面倒だ。
ソーマの言っていた後続部隊が到着し始めるとここも戦火に包まれるだろうし、悠長にやる暇もない。入れるのならばさっさと入りたいんだがな。
(裏手に回ってくれ。すまないが、俺が助かることを優先したい……今は。そっちにも扉はある。柵の外から回り込んでくれ)
「分かった」
後からやってくる俺達にも当然視線は降ってくる。とはいえ明らかな重傷人が二人だ。先に辿り着いていた住人もそんな俺達の状態を窺った後、小さく首を横へ振って首をがくりと落としていく。
ヲレスじゃなくて悪いな。
それとも死体を背負っているとでも勘違いして目でも背けたか。グロいがまだ生きているらしいぞ。
そんな彼の言う通りに裏手へと回ると、診療所に繋がる建物とは別に小さな建物が隣接していた。そこへ入れと言うのでその扉まで歩けば、がぎりと音を立てて扉に仕掛けていたであろう錠が外れる音がする。
これも魔法だそうだ。何度も様々な魔法を見てきた俺でもこいつが一体何をしたのかさっぱり分からなかったが、まあ今はいい。
扉の中に入ると、そこに小さな空間と幾つもの機器、それと地下へと続く階段だけが配置されてあるのがすぐに分かった。
(裏の出入り口になっている。俺達関係者専用の出入り口みたいなものだ)
「そいつは便利だな。この階段を降りるのか?」
(ああ)
こんな入り口を設置するあたり――この何に使うかも分からん機器も気になるな。どう考えてもただの裏口とは思えん。
別に俺の知ったことじゃないが、そんな場所を俺に教えてもいいものなのだろうか。そこまで切羽詰まっているというのは理解はしているが……流石に考え過ぎか。
薄暗い階段を降りるとすぐに広い空間へと繋がっていた。
既に診療所の真下だろう。横にある別の階段を上に昇れば、俺が治療を受けた部屋の階に出ることも可能なはずだ。
「ここまで来ると暗くてほぼ何も見えないんだが、明かりはどうやってつける?」
(どうやってって……魔力を使うしかないけど……俺もお前も、余力は残っていないじゃないか。とりあえず、そこの奥まで連れていってくれ。アレがあるはずだ)
ああ、俺は魔力切れだと思われているらしい。そりゃテレパスを使わないことにも突っ込んでこないわけだ。
まぁこいつも喋ることが出来たのなら喋る方を優先するであろう。この至近距離でテレパスなど魔力の無駄遣いでしかない。
勿論訂正する気など更々なかった。
こっちの方が好都合である。
(……これだ。そこに俺を入れてくれればいい)
「これは何だ。培養液か何かか?」
近くまで来た俺はその液体を視界に収め、眉をひそめた。
緑色をした半透明の液体だ。人間が一人入るサイズのポッドのような容れ物で、ガラスで張られた内部はたっぷりとその液体で満たされている。
(そのようなものだと思う……まだ実験段階だが、これに入れば多分なんとかなる……そろそろ俺の限界も近くなってきた。無理な魔力を浪費し過ぎたせいで生命の維持が厳しい、頼む)
これがこいつの目的だったか。
ヲレスの奴はとんでもない物を作っていたらしいな。入るだけで治療が行えるポッドなど、幾つもの人体実験の果てに辿り着いた成果か分かったものではない。
俺は背負っていたジョッキー・フリートを降ろすと、ガラスを無遠慮に開いて彼の身体を投げ込む。どぼりと粘着質な音と共に彼の身体は培養液の中に沈み、血と混ざり合って色が若干の変質を見せた。
(ああ……やっぱりだ。これなら、なんとかなりそうだ。助かったよ――見ず知らずの誰かに頼まれて、ここまでやってくれるとはな。感謝してもし切れない)
やはり中身は魔力の液体か。なら俺の身体には逆効果だな。魔力を扱えるこいつとは違って劇毒の海に飛び込むようなもんだ。傷の治療はまたどこかでやろう。
培養液の他にも使えそうな物もあるはずだからな、そっちを探すとしよう。
「気にするな。それで、回復までの見込みはどうだ? すぐに治りそうか?」
(――いいや、ただの重傷ならともかく。しばらく無理だ。そもそも俺は呼吸すら自分で出来ない。首の皮一枚しか繋がってないんだから当然だが、もう首から下も自力じゃ全く動かせない有様だ。気合いで治して一人で立てるようになるまで丸一日、それでも後遺症は残るだろう。ただ培養液に浸かっただけでは回復とは言えない)
「そうか」
それは良かった。
すぐに完全回復されても俺としては面倒にしかならないからな。むしろ全く動けない時間がそれだけあるならば、話も付けやすい。
では動くとしよう。
俺は懐からナイフを取り出し、培養液に浸るジョッキー・フリートの喉元へと突き立てた。
「感謝する必要はないさ、お前は連れてこられるべくしてここへ来たんだからな」
(お前――? 一体、何を……)
ほんの僅かに彼の目は見開かれた。
俺はナイフを突き立てたまま、言葉を続ける。
「魔法都市の戦争――このまま行くと、お互いが全滅する。どちらかが勝つわけでもなく、間違いなくどちらも消えるだろう。それを止める為の手伝いをお前にして貰いたい」
(言ってる意味が分からねぇ)
「俺はお前の味方ではないが、敵でもない。このナイフはお前に大人しく話を聞いて貰うためのものだ。だが抵抗をしたり、反抗したり、例えば魔法でろくでもないことを考えたりした時点で――まあ最初に言った通り、大人しく話を聞いてくれってことだ。それだけでいい」
見開かれていた瞳がぎょろりと動き、俺と目を合わせてくる。何も言い返してこない彼に向けて、俺は追い打ちの台詞を放った。
「学長とやらの死は魔物に関係しているのだろう? そいつは俺がこれから話す内容にも関わってくるはずだ」
(――……わ、分かった。どのみち、俺は動けない。だったら、聞いた方がいい)
俺は近くの机から椅子を引き、そこへ腰掛ける。俺の傷も浅くはない。放置していてどうなるわけでもないが、今は休ませて貰おう。ここは急ぐ場面ではない。
一息吐いてから、ゆっくりと話を切り出すことにした。
◇
瓦礫と煙で満ちていた。
ぱらぱらと壁より剥がれ落ちた破片は床に弾かれて音を鳴らし、元の通路が原型を留めない程度には崩壊していた。むしろ建物が崩れていないのがおかしいとさえ思えてくる惨状。
魔法使いの放った赤い結晶――床や壁や天井へと散りばめられた結晶の全てが、中規模の爆発を起こしたのだ。
そこには傷だらけの人物が立っていた。
戦闘衣は砂埃を被り、擦れて穴だらけ。破れた衣から覗く肌色には数々の裂傷が刻まれ、赤色を覗かせている。
「ちっ……くしょうめ――」
一人。
ノアは、近くにソーマが居ないことを静かに嘆くと同時、眼前で笑っている魔法使いを睨み付けた。
そんなノアの様子を鼻で笑う魔法使いは、「で」と言葉を区切る。
「ただやられに来たわけじゃないんだろ? 潰しにきたんだろ? 殺しに来たんだろ? だったら見せてくれよ、ちっとは面白いもんをな」
「うちらは、てめーを楽しませるための玩具じゃねぇ……」
余裕綽々な態度。しかしそれに見合うだけの先手を打たれ、ノアの退路はほぼ塞がれたと言っていい。
瓦礫に両サイドの通路が綺麗に封鎖された挙句、窓ガラスは粘液のように溶けた状態で――固まっているのだ。まるでその場の時間が止まったかのように、一枚の絵のようになっていて。他に形容すべき言葉も見当たらず、そうとしか説明が付けられず。
とにかく魔法によって起こされた事象により、ソーマと完璧に剥がされてしまったことは確かであった。
相手の狙いは言わずもがな、二人を引き剥がして各個撃破するためだろう。
そしてそれは成功してしまった。最悪に近い状況だ。
「おいおいどうした、逃げてるばかりじゃつまらねぇだろ。どうせ死ぬんだ、けちけちしないでかかってこいよ」
いつまでも哄笑を続ける男は、ノアが距離を取っても動こうとしない。それは、どうやってもノアがこの戦場から逃げ出せないことが分かっているからだ。
後ろも前も横も上も下も、完全に目の前の男の制御下――だが外からソーマが介入しようとしてくれているはず。
ならば、今ノアがすべきことは生き残ること。この密室で、魔法使いから生き残るための手段を探すこと。そして、出来得る限りの情報を持ち帰ることだ。
まず勝てると思ってはいけない。一対一で勝てるような相手なら最初から苦労はしない。自らの力を過信するな、相手を侮るな。
「……てめーの名前はなんだ。望みどおり、戦ってやるから教えろよ」
「はん、俺が誰だか知りたいか? そりゃ知りたいよな。まぁ俺がどんな魔法使いか知らないと戦いにすらならないってんじゃあ実験にもなりゃしないからな……特別に教えてやるよ。ギリアム・クロムウェル――錬金術を専攻してんだ。ほら教えてやったぞ、早く仕掛けてこい。女」
それはレーデが挙げた十二人に入っていた名前。
錬金の魔法使い。詳細の分からない者の内の一人だ。
だが錬金術とは、広義的には物質の錬成術を意味する。それは金属の錬成であったり、薬品の調合であったり、物質の合成であったりと様々だが、それが魔法一つで行うのだと考えてまず間違いはない。
つまり、先ほど見せた頑強な壁や剣、結晶から生み出された爆発の全ては錬金術の魔法によるもの――ノアは再度舌打ちをして、懐から己の得物を落とし込む。
それは目では確認できないほど細く鋭い針だ。内部に猛毒を入れた針は、レーデに対して打ち込んだ物とは訳が違う――魔法使いを殺す為の暗器。
それを相手に見られないよう左の指先で挟み込み、ノアは僅かに腰を落として後ろ手に構える。
「うちの名はノア――てめーをぶっ殺す女の名だ、その身に刻みやがれ!」
相手が無防備に突っ立っている内、跳ねるように足場を蹴り飛ばして急接近する。狙うは首筋、そこに刺されば死は免れない――だがそんな急所をこの魔法使いが守っていないはずもなく。
ノアの振るった左の手刀は、魔法使いの首筋手前で岩の障壁に防がれていた。細い左手首はばきりと音を立てて悲鳴を上げるが、当然ノアもその動きは予想している。
だから左手は単なる目眩ましのようなもの、手首を犠牲にしてまでやりたかった本命は――魔法使いの懐だった。もっと正確に言えば、その中に隠されている彼の薬品と道具だ。
右手に隠し持った針から硝酸が飛ばされ、それが懐へと付着した瞬間にじゅう、と煙を発して若草色の外衣と中身をぐちゃぐちゃに溶かしていく。
「ほう――」
目的は端から敵の使う武器を失わせること。その目論見を成功させたノアは、反撃を受ける前に障壁を利用して魔法使いの右側へ飛ぶ。
一瞬の攻防、ただ障壁を張っただけで特に目立った動きもしていなかった魔法使いだったが、己の懐へ視線を落とし――にぃ、とどこか嬉しそうに犬歯を見せた。
まるでわざとやらせてやったと言わんばかりに再び哄笑して。
「――やっぱ隔離して正解だったな。お前みたいな奴は、俺が相手をするべきだ」
懐から赤い結晶をぼろぼろと落としながら、ギリアム・クロムウェルはそう言った。
正攻法での戦いを行えない――策を弄する戦い方を叩き込まれているノアにとって、その言葉は遅効性の毒のように胸の奥へと食い込んで来る。
そも、今の動きは本来ノアがするようなことではないのだ。真正面から命を削り合う役割はソーマのはずで、ノアが直接戦闘は行わない。
だが向こうが動けば、こちらも少なからず手の内を晒して対応せざるを得なくなる。今回その内の一つを削ってまでして相手の懐の道具を破壊したことは吉と出るか、凶と出るか。
しかしあの結晶はそれほどに危険な代物だ。何をされるか分からない以上、既に分かっている物だけは破壊しておかなければ不味い気がする、そう考えて最優先で潰しに行ったのだから――。
そして。
観察しているのはノアだけではない。向こうも同様にずっとノアの動きを観察し続けている。あまり積極的に動こうとしないのは、ノアが秘策を隠していると分かっているからだ。
獰猛な性格の割に妙な冷静さと慎重さを持っているのは実に魔法使いらしい。特に錬金術を極めし彼は、毒を使うノアの危険性など知っていて当然。相性としては最悪に最悪を重ねたようなものだった。
何よりあの魔法がどこまでの範囲で扱えるのか分からないのだ。ノアの持つ毒でさえも錬金術で変質させてしまう可能性もある以上、極力の使用は避けたかった。
ともかくも早くソーマの助けをと願うノアであったが、目の前の敵はそんな時間を待ってくれるはずもなく。
「おっと、逃げようとしたって無駄だぜ」
――もう一度ガラスへ意識を向けたノアの視界、何の予備動作もなく魔法使いは現れる。左手に摘まれている赤い結晶を目にして飛び退くも、魔法使いはそれを放り投げてくる。
ノアへと一直線に向かってくる結晶、それはぎらりと妖しく発光した。またも爆発か、それを予期したノアは即座に床へ手を付いて動きを止め、今度は魔法使いの懐へと一直線に突っ込む。結晶から距離は離した、ここで反撃のチャンスを。
「くそっ、まだ持って! だけど二度も同じ手には――」
「二度も同じ手は使ってねぇよ」
背後から硬質な音が響いた。それは金属と金属をかち合わせたような、ここで鳴るにはあまりにも不自然な音。まさか、と退避に移ろうとした時には既に遅く。
無骨な鉄が背後からノアの右脚を刺し貫いた。ふくらはぎを貫通して骨をも砕いてなお止まらない。
脛から飛び出す鉄の刃は血潮を吹き上がらせ、己の脚を破壊されたノアはバランスを崩し横転する。
――痛みに対する訓練は受けていた。だけど、こんな痛みは、今まで一度も受けたことがあるはずがない。
痛い。ノアの頭はただその言葉で埋め尽くされていた。それでも動こうとするものの、脚を貫通する鉄の重さが枷となって立つことすらままならない。
「おっと、脚を失っちまっちゃ戦いにならねぇな。悪い悪い」
全く悪びれもせずにそう言って、魔法使いは歩いてくる。
まるで戦ってすらいない様子で、いや実際そうなのだろう。このレベルの強さを持った魔法使いにとって、ノアなど――赤子の手を捻るようなものなのだ、きっと。
最初からそれを想定していたのではなかったのか。あまりにも普通の魔法使いが相手にならないからって、このクラスの魔法使いが存在することを――頭の中で排除していたのではなかったのか。
生きて帰ることすら想定されていない、そんな戦いだったはずだ。むしろ最初の時点でここまで混乱に陥れていること自体が奇跡だったのだ。こんな連中を相手に、普通にやって勝てるはずがない。逃げ出すことすら出来ない相手を、どうやって真正面で打ち負かせという。
「っは、ちっくしょう……仕方、ねー……」
ノアは歯を食い縛る。
元より生きて帰るつもりはない。己に死ぬつもりはなくとも、死ぬ覚悟は積んでやってきた。
ならばここで挫ける理由はない。やれることをやって、己の命を全力で使い切るだけ。
「わりぃなレーデ……うちは、嘘吐いちまったかもしれねぇよ」
右脚を貫く鉄を、無事な右手でがしりと握る。床を貫通した鉄を引き抜くために力を込める。激痛が走る。けれども力は抜かない。ずるりと音を鳴らして鉄の刃は脚から抜け落ちる。
痛い。痛い。焼けるように痛い。だが、その程度で動けなくなるほど柔な訓練は受けていない。
「生きろとか死ぬなとか、前向けとか――全然考えらんねーよ……綺麗事ばっか言っておきながら、うちは結局、戦って死ぬことを考えてやがる」
全身に力を込め、ノアは無理矢理に立ち上がる。
「でもやらなきゃいけねー、そのためにうちは来た。だからやる……覚悟の形が違うだけで、お前もそんな気持ちだっただけなのかもしれねーな」
痛くない。痛くない。今は戦う時だ。
――もう痛みはない。痛がるのは目の前の敵が死んでからでもできる。
「おぉ我慢強いな。そいいう奴は嫌いじゃないが」
「……ごたごたとうるせーよ魔法使い」
「随分と強気だなおい、お前アレだわい腹立たしいな。俺が遊んでやってるとも知らずに思い上がってるところとか素晴らしく腹立たしいな。決めた、ああ決めた。今すぐお前で試すことにしよう。もし万が一完成したら祝ってやるよ、西の実験動物」
「――てめーら全員ぶっ殺してうちは帰るんだよ。幸い、こんなクズ野郎なら殺してもどこも痛まねーからな」
どんなに相手が強大で勝てる見込みすらもないのだとしても。
せめて最後まで、その気持ちは変えない。心が折れてしまえば、今までやってきたことは全部無意味になってしまうから。
相手は大陸最強の魔法使い。余力を残してとか奥の手を隠してとか、そんな悠長にやっていられる相手じゃないのはもう分かった。だったら最初から全力で、最初から最速で。己の全部を使い潰してでも、この殺し合いを制する。
そうして生きて、皆の元へ。
「――黒煙!」
瓦礫の壁一つ隔てて見えぬソーマに戦闘開始の合図を叫び、ノアは自身の腹部へ打撃を叩き込む。そこに忍ばせていたのはとある一種類の毒。それが衝撃で全方位に破裂し、霧となって密室を埋め尽くす。
「視界を潰して逃げ回るつもり……いや、こいつも毒!」
霧に包まれた中、魔法使いはノアの目的が単なる目潰しではないことを即座に悟る。呼吸する度に全身へ毒が回る感覚を覚えながら、それが神経に作用することを確かめていた。
手足の痺れから始まり、次第に脳にまで痺れが回ってくる。
即効性のある非常に危険な毒だ。だがそれを起動させた本人が一番濃い霧を大量に吸い込んでいるはず――苦し紛れの奇策かと判断を下し、魔法使いは解毒の魔法を展開。
同時進行で錬金術も起動。霧の中を魔力が縫い、既に散りばめられている結晶の破片へと届かんと――。
「はあぁっ!」
しかし。再び魔法使いの懐へと突っ込んでくるノアの姿が一瞬現れ、右手に構えていた三本の針が一斉に投擲される。
それに触れてはいけないと感じて障壁を張り針は防ぐものの、既にノアの姿は霧に隠れてどこにもなく。
ならばどこに――後頭部へやってくる風切り音を察知し、魔法使いは咄嗟に己の右腕でそれの飛来を防ぐ。
それは瓦礫だった。
魔法使いが散々破壊した瓦礫の一部を、死角から投げてきたのだ。神経麻痺で感覚の鈍っている隙を突いた一撃、視界をも押さえられてる状況ではこうするしかなかった。
だが瓦礫が頭にぶつかった程度では、と。魔法使いはそこで一つの違和感に気が付いた。死角から攻撃をするならばそれこそ針をもう一度投擲し、脳天を狙えばよかったはず。あれには間違いなく毒が塗られていた。
それをしないで針すらも囮にし、たかだか瓦礫などをぶつけてきた意味は。
「――まさか」
腕から得体の知れない激痛が走った。瓦礫を防いだだけで発生するはずのない、灼熱に手を突っ込んだかのような痛みと激しい痙攣。
瓦礫を防いだ腕。そこから僅かに流れ出した血液が、ゲル状へと変化していた。
これは瓦礫自体に何らかの毒が付着していたとしか――しかしそんな余裕があったか。少なくとも魔法使いの目を盗んで動けたのは視界を奪ってからの数瞬、魔法さえ使わない上に両手両足を負傷するノアが瓦礫に細工する時間などなかった。
ともかく、新たな解毒魔法を構築しそれを右腕に行使する。当然霧の毒とは性質の違う毒には同じ解毒魔法では通用しない、その性質を解析しつつ中和と治癒を行――。
魔力が、練り上がらない。
魔法使いがそれに気付いた時、ノアは魔法使いの真正面に立っていた。
片足一本に重心を器用に預け、傷だらけの身体でなおも冷静に殺意を湛える少女の姿。
「はっ、ざまーねーな」
「最初からこれを狙っていたのか――」
「魔法が使えないからってうちを舐めてっからこうなんだよ。魔法使いでも人間は人間なんだ、殺すだけなら魔法はいらねー」
いつからそこに。最初にノアが魔法使いの瞬間移動に驚いたように、今度は魔法使いが驚く番だった。身体が動かない。魔力は回らず、激痛が走り、気分の悪さで嗚咽する。今まで一度も起きたことのない魔力経路の異常は、魔法使いを混乱させるには充分で。
つまるところ、ノアが撒いた霧の毒は――そういう類の毒だったのだ。魔力の流れを乱す毒。魔力を魔法という力に変換する魔法使いにとって、目よりも耳よりも大事な器官が魔力と言っても過言ではない。
――ならばそれを乱す毒を散布すればどうなるか。魔法を一切扱わないノアには効果がなく、魔法使いにだけは絶大な効果を及ぼす劇毒。
魔法使いの神経が鈍ったのは、感覚を鋭敏化させていた魔力の巡り自体が不調に陥ったため。
そんな状況で視界までもを取られてしまえば、魔法使いに状況を判断する術は何もない。
とはいえ種明かしをしてしまえば何とも単純な小細工であるのは確かであった。
種が分かれば簡単な、それも狭い空間でしか碌な機能を果たさない限定的な奥の手。いつまでもそんなものに翻弄されている魔法使いではない。半ば賭けで打ち出した全力全開、しかし成立し成功したならば、ノアが少しの猶予も与えるわけもなかった。
「死ねよ、魔法使い」
――戦いを遊びなどと怠けたことを抜かすから負けるのだ。
――相手を格下と侮って手を抜くから負けるのだ。
魔法使いの首筋に、一本の針が刺さる。一滴でも皮膚に付着すれば人間一人を百回は殺せる程致死性の高い猛毒を含んだ針だ。治癒魔法では間に合わない。
一言も発せぬまま、凄絶な眼差しでノアを睨んだ魔法使い――ギリアム・クロムウェルは、額から床に倒れ伏した。
「が……ハッ、ちくしょー。結構やられたな……」
べたりとその場に倒れ伏し、ノアは吐血を押さえた右手の平を見て苦笑いをする。最初の爆発や、何度も吹っ飛ばされたのも原因だろう。内臓が傷ついているらしい。それに左手も、右脚に至っては適切な治療を行わないとはっきり言って不味いくらいだ。
それでも、勝った。
「あー、けどうちはもうダメだ……戦えねぇ。後はソーマに任せるしかねーな……でも一人殺ったんだ。たはは、まー今は喜んで……大人しく休ませて貰うとするさ」
一人で。
生きて成果を勝ち取ったのだ。それだけでも充分過ぎる。
後は、ソーマの助けを待――。
「――か、っ」
ノアの呼吸が止まった。
身体が動かなくなった。
息が出来ない。
脳が警告を発する。
何が起きたのか周囲へ視線を配る。
何もない。
なら、何故。
一体何を。
ノアは自分の胸元へ視線を落とす。
――胸元にぽっかりと、自分の拳大ほどの風穴が空いていた。
「あぁよくやった。お前はよくやったと思うよ本当にな。俺が慎重に冷静に立ち回っていなければ確かに死んでたかもしれない、そいつは認める。確かにそこの俺は死んだ」
ノアの目の前で倒れ伏す魔法使いを指差して、その男はにぃと勝ち誇った笑みを浮かべる。
魔法使いは殺した。殺した手応えは間違いなくあったはずなのに。
「最初に気付いとけばよかったな。そこの俺が錬金術で造られたモノだってことに。でもお前じゃ無理だな、お前は魔法を使わず、そして魔法を知らない。必然的に俺が偽物であるかどうかすらも判別が付かないのだから」
「――あ――……き――」
「確かにソレは人間だぜ。お前が人間だと判別できるほど精巧に造られた人造人間。勿論俺が造った人間だ。ただ人間の肉体は造れても魂までは作れないから、その肉体に俺が入っていただけ。肉体が死ねば魂は別の俺へと戻せばいい、そうだろ? 簡単な理屈だろ? お前が魔法さえ知っていりゃあな」
そうして、ギリアム・クロムウェルは右手に赤い結晶を取り出した。しかしそれは今までの物とは形が違う――輝くそれは、生き物の心臓のように、彼の手の上で脈を打っている。
「全くの予想外だったが、お前を選んで正解だ。変な魔力資質を持っておらず肉体の完成度も高い。いい素体だ、これならば結晶との親和性も高いだろう。後は拒絶反応を起こして絶命しないかだけが心配だが……おっと時間だ。実験を始める前に死んでしまっては元も子もない――」
風穴の空いたノアの胸元へと、その結晶が埋め込まれる。
心臓ごと身体の中心を吹き飛ばされたノアには抗う術はない。
ただ死にゆく意識を滾らせて、殺意を湛える瞳で眼前の魔法使いを睨むだけ。
着実に薄れゆく生命の終わり。
「――飲み込め、魔晶」
どくん、と。
埋め込まれた結晶が、胎動した。




