五十六話 二つの道
「――ああ。俺が意識を失っていた間に事が進んでいるってことか……」
元の世界へと戻る俺に、ガデリアは言っていた。
「妾の世界はどの時代とも接続されておる。故に、この妾が存在する時間軸はどこにでもあってどこにでもない。そんな歪んだ空間じゃ。つまりここで過ごした時間は向こうではゼロとなる」
と。
――時間の経過しない世界など考えたくもないが、なるほどガデリアが老いずに死なないのもそういった部分が関係しているのだろう。
そして俺も、あの世界に存在していた分の時間は経過していない、ということだった。
俺は何かが置かれていた形跡のあった土を指先で撫で、一人呟いて頷く。
そう――置き去りにした鞄がどこにもないのは、持ち去られた段階では俺が気絶していた間しかなかった。
――ということ。
散乱していた荷の全てが無いということで、リーゼが見つけ回収したのだと思っていいが……。
さて。
一体どれほどの時が経過していたのかは、俺にも分からないしガデリアにも分からない。彼女の目は、奴に邪魔された瞬間から使えなくなっているそうだからな。
俺とリーゼのことは辛うじて把握していたものの、海賊と接触していた時点で見えていないのは確かだ。
当然、俺が樹海でどうなっていたのかなど知る由もないが……大方俺とリーゼが最初にアウラベッドと接触した辺りで勘付き、ガデリアの力を阻害したのだろう。
俺を起点とする周囲に細工が施されているのかもしれない……まあ、ガデリアには悪いことをした。あの空間から出られないだけで苦痛だというのに、加えてこちらの世界を好き放題覗けなくしてしまったのだから。
機会があれば、また会うことにしよう。
俺から干渉は出来ないが、一応助けては貰ったのだからな。
次があれば、煙草の一箱でもくれてやるとしよう。
「傷もそこそこ治っている」
俺は右腕を見やり、苦笑した。
ガデリアの呪いがここまで働いたか、手当の一切は消滅してしまっていた。力なく垂れ下がった腕があるばかりで、添え木も包帯も軟膏も塗られてはいない素の状態へと戻ってしまっている。
だが向こうで処置していた分の時間までは巻き戻らなかったらしい。その間に治癒されていた分はそのままで、お陰で動くことが出来ていた。
「さて、ここからどうするかだが」
ヲレスは都市へと帰還したのだろうか。
両手を失ったが、あの調子だと次相対する時には元通りに繋がっていそうだ。時間は稼いだにしても後手に回ったのは俺の失態と言えよう。
残念なことに奴を殺すことが出来ればよかったのだが――首まで糸を回す時間と余裕は無かった。
俺は糸使いではない。
昔の知人に教わった程度の、ナイフの自重がなければ扱えない程度の腕だったのが、悪かった。
リーゼはどこへ行ったか分からない。
俺が居なくなれば必ず戻っては来るだろうが、こちらから捜して見つかるかと言えば否だ。
せめてメッセージは見ていて欲しいが……どうだろうな。
短い文しか記せなかったが、あれでリーゼがヲレスの狙いに気付いていてくれるか……微妙だ。正直、あれで伝わるとは思えないな。
単に荷を纏めて回収されただけという可能性の方が高い。
だがもしも見ているのであれば、引っ掛かりを感じてくれればいい。
リーゼは馬鹿で頭も弱いが――変な部分で聡い奴だ。
ならばどこかで理解もするだろう。
「しかし……何もないか」
あの荷物には俺が旅を続ける上での物資が入っていたのだが……全部持ってくか普通、形見でもあるまいし。
手持ちにあるのは仕込みナイフ二本と残数三発の銃。レッドシックルの剣にテレパス用の魔石。リーゼには繋がらないため、この魔石が届く距離にはいないことだけは分かる。
金もなく食糧もなく、応急処置の道具などあるわけがない。
荷物を回収された以上、リーゼはここには戻って来ない。
俺一人でどうにかするしかない、か。
「そいつはこれから考えるとして――」
俺は荒れた樹海を見渡し、ひとまず現在地を記憶する。それから、適当な方角へと足を踏み出した。
「――俺が、此処にいる意味は既に」
無い。
――だが。
◇
小さな宿屋の一室。
清潔なシーツの上に座り、少女はショートソードを右手に握っている。剣は横に、剣の腹を眺めて目を細め、一つ息を吐く。
「――血が」
ぽたり、と。
剣から血液の筋が伝った。赤い滴が剣先へと溜まり、滴となって床に落ちる。赤く、赤く、ベッドのシーツを血に染めて、全てを赤く染め上げていく。
――それは瞬きをした瞬間、幻想となって全てが無に帰した。床を流れる血もなく、剣を伝う血もなく、世界に正常な色が戻ってゆく。
少女は。
リーゼは、そのショートソードを自らの隣へ置いた。幾度の戦闘で細かな傷の付いた剣は幼さの残る手の内から離れ、シーツの上に転がる。
「あの人が言っていたこと……嘘じゃ、なさそうだった」
人間のこと。
魔物のこと。
過去のこと。
そのどれもが、嘘偽りがなく。
「本当なのかは分からないけど、でも嘘じゃない……あの人の目は、確かに本当のことを言っていた」
「――ぐ、ク、ソ……あれ?」
「あ、ランドルさん……起きましたか」
「え? っと、ああ……おはよ、う? じゃねぇ――って、アイツは! あの野郎は……!」
隣のベッドで気絶していたランドルが起き上がって腰の剣に手を掛けた。
勢いよく辺りを見回しているが、そこに当の本人――イデアはいない。そのまま立ち上がって剣を抜こうとする寸前まで行くが、その異質な気配や存在の臭いがしないことを確信すると同時、腰が抜けたようにベッドへ崩れ落ちた。
乱した呼吸を整える様からするに、イデアに恐怖を抱いていたのだろうと窺える。
そんな彼に、リーゼは微妙な顔をした後――微笑んだ。
「私が追い払いました。色々あって、でも素直に去ってくれました。ですからここは安全です」
――そんなわけがなかった。
リーゼがイデアを追い払えるわけがない。イデアは、あの女神は長々と様々なことをリーゼに言い含めるだけ伝え、自ら消えたのだ。
魔物と私は撤退するから安心してと、意味の分からないことを、去り際に呟いて。
それではまるで、ただリーゼと話をするためだけに魔物を遣ったようで――実際その通りではあるのだろう。それだけが目的ではないはずなのだが、それしかないようにも思えた。
――レーデのことも、聞いていないのに教えてくれた。ただその内容は小話が多く、彼の生活の話や些細な荒事など、一緒に旅をしていれば当然のように見えてしまう程度の――世間話のような中身が大体であったが。
「お金は既に払ってありますし、一日はゆっくりできます。イデア――あの人が、魔物を動かしていたことも分かりました。これからのことは、これから考えましょう……私も少しだけ、考えたいことがありますから」
「それもそうだな……あの野郎は、もうこの町からは?」
「はい。気配も感じません。魔物の気配も――ですから、本当に去ったんだと思います。一体、何をしに来たのかさっぱりです」
「……そっか、わかんねぇよな。俺も、全然わかんねぇよ……全然――生きててこんなに頭沸かしたのは初めてだっての」
ランドルは眉間を人差し指の第二関節で叩くようにこつこつと動かし、それから立ち上がる。
先ほどまでしていた恐怖の表情も冷や汗も身体の震えも止まっているようで、目に掛かっていた前髪を退けてからランドルは言った。
「ちょっと外出てくる。何、魔物がいないなら俺は大丈夫。つっても心配だろうけど何かあったら泣きながらそっち全力で戻るし、船長からの連絡とかあってもすっ飛んで来るからさ。まだ疲れてるだろ、リーゼさんは少し休んでいてくれよ。こうした宿だって、いつでも泊まれるとは限らない」
「あ、はい……ええと、町を調べるんですか?」
「そ。情報収集は俺の十八番だからな。色々と聞き込みしたり、トンネルのこととかもさ。早い内人員集めて直した方がいいだろ。その進言とかも、俺がやっておく。船長の名出しゃそれなりに利くだろうし」
――旨い飯を持って帰るよ、と言い残してランドルは部屋から出て行った。
その顔付きは複雑そのものであったが、どうやら彼にも整理したいことがあるらしい。リーゼにも同じ様相を感じ取ったランドルは、お互いが話し合うための時間を取ったのだ。
纏まっていない思考で会話をするよりは、お互いが気持ちの整理を付けてからの方が断然良いからと。
がちゃ、と閉められた扉を眺めてリーゼは目を閉じる。
ランドルが気を失った後もイデアと話していて、リーゼはずっと悩んでいた。
――何より、イデアのとある言葉が胸に刺さって離れなかった。
それは、レーデのことで。
「あの人は優しい人だったね。争いを嫌う人で、人殺しなんて以ての外って感じで、おまけに誠実さと責任感をくっつけた典型的な良い人だったよー。それでいてお人好しでね」
――だから。
「だから彼は、こんなことしてるんだろうね。今も昔も、こーんなに経つのに、大事なとこは一個も変わらないんだよね」
と。
イデアは何故その話をリーゼにしたのか。単に世間話に組み込まれた言葉ではあったが、そもそもリーゼに話してやる意味はなかっただろうに、どうして。
それはリーゼが抱えたどうしようもない悩み。
どうすることもできず、いくら考え尽くしても答えが出ない懊悩だ。
レーデと全く同一の考えではないけれど――リーゼだって、争いなどしたくはない。だけどしたくはなくても争いは必ず起こる。戦いからは免れないし、何度も何度もぶつかりあった。
せめて人々の平和を願って魔物と戦い続け、時には人間とも戦って。自分なりに争いと戦ってきたつもりだった。争いを止める為に、何度だって戦ったつもりだった。
――だが。
魔物が人間だったというのなら、自分は今まで一体何をしてきたというのだ。
人間を守るつもりで人間を殺して――世界の平和を、皆が笑い合うことを望むなど、なんて勝手なことを考えていたのかと。
勇者とは一体――勇者など、ただの。
――小さな少女は己の手を握り潰さんばかりに、指先を手の平に食い込ませる。
その先は決して言ってはならない言葉。口にしてしまえば自身が根本から崩壊してしまうような――そんな、台詞だった。
信じたくなかった。そうであって欲しくはなかったから。
――彼は一体どんな気持ちで今まで人を、魔物を殺してきたのだろう。
リーゼには出ない答えも、彼なら既に理解しているのかもしれない。割り切っているのかもしれない。
しかし。
本人には絶対に訊きたくない、最低で最悪で醜悪な質問の答えを。
リーゼは、考えていた。
そうしなければ、砕けて零れ落ちてしまいそうだったから。
そうでもしなければ、認めてしまいそうだったから。
――そんなこと。
両親を殺して兄を見殺しにして人を殺して人を殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺してきて――汚れきって血塗れになったこの身で考えることすら、おこがましいのかもしれないけれど。
ただの人殺しだったなんて――。
リーゼはそんな風に、己を認めたくはなかったのだ。
その夜。
リーゼが宿の窓から町の様子を眺めながら思案に耽っていると、ようやくランドルが帰ってきた。
扉が開かれると、香ばしい肉や香草にタレなどの匂いが鼻腔を刺激する。窓を締めてから振り返れば、両手一杯に串焼きを抱えたランドルが足で扉を締めているところだった。
「ごめん、いつの間にかこんな時間になっちゃったよ。んでさ、帰りに旨そうな露店があってさ」
「串焼き……ごくり」
レーデと共に居る時にはほとんど食べる機会は無かった食べ物だ。そもそも彼の場合保存食か彼の作る料理がリーゼの胃に入る主な食糧であったため、こういった出来合いの物を食べること自体が少ない。
別に彼の料理が不味いというわけではなく、というか美味しいのだが――たまに見掛ける露店の匂いに、リーゼは普通に負けた。
「塩、タレ、香草、デザートウルフの皮と腿がこれでこっちが胸、舌、あと頬肉の部分はこれらしい……って聞いてないよね、とりあえず食べようか」
「頂きます!」
そういえばまた今日も夜まで胃に何も入れていなかった。外出さえしなかったリーゼだが、睡眠に費やしていたわけでもなくただただ窓の内から外を眺めつつ答えの出ない問答に頭を使っていたのだ。
紐で括られた串焼きの数十本を受け取り、リーゼは一番端の串を抜き取って頬張る。
「んん……美味しいです」
さくり、とした食感。程良く焼けた部分がかりっとした歯ごたえを生み、表面に塗られた甘タレの味が口腔に染み渡る。半日以上も食物を口にしなかったリーゼの胃を刺激するには十分で、最初の串を二口で平らげて次の串へと手を伸ばした。
「……っと、今のなんでしたっけ?」
「皮の部分だよ。俺はそれが一番好き」
「へぇー……皮って、皮膚?」
「いやその言い方なんか食欲失せるなぁ……うん、動物の皮の部分だろうね」
苦笑するランドルを余所に、リーゼは次々に串を食べ尽くしていく。大食らいなのは知っていて何十本も買ってきたものだが、予想の斜め上であっと言う間にリーゼの手には残骸の串しか無くなってしまった。
「早いね。俺まだ半分くらい残ってるんだけど……ちゃんと味わった?」
「最後のは頬ですよね! 歯ごたえがあって噛むほど香草の味が広がるのがたまらないです! あぁでもやっぱり腿とかも捨て難いですよね、とろけるような食感と脂の乗った肉には塩でもタレでも抜群ですし、ランドルさんんの勧めてくれた皮はかりっとさくさくとした食感が病みつきに――」
「あ、そ、そう? そいつはよかったね……」
味の違いが分かる程度にはしっかり食べていたらしい。
まだまだ物欲しそうな表情をしているリーゼを見て、ランドルは残り半分ほど刺さる串焼きの束を差し出した。
「なんだかリーゼさんの食べっぷり見てるだけで腹膨れてきちゃったよ。後、食べる?」
「……え、いいんですか? 本当にいいんですか?」
「はは、いいよ」
満面の笑みで受け取るリーゼ。
やっぱり大量に買ってきてよかった、と。
リーゼの食べる量はランドルが普段食べる量の三倍ほどはあるに違いない。
常に自制をしているようだけれど、こちらから渡せば喜んで受け取る素直な子だ。たまには、こういう時には何も考えずに贅沢をして欲しいな――と、串にかぶりつく姿を見て、ランドルは一人顔を綻ばせた。
「タレ、ついてる」
「へ?」
呆けたリーゼの口元をタオルで拭ってやると、恥ずかしそうに頬を赤らめてお礼を言ってきた。
「……あ、いいえ、なんかすみません……見苦しいとこを……」
「ははは、別に気にしないよそれくらい」
そう、どんなに強くたって、彼女は普通の女の子だ。
本当はこんな子が戦ってはいけないし、戦わせたくない。
人並みに町で幸せを手に入れて、暖かい家庭ですくすく育って、もっと人生を華やかに過ごして欲しい。
こんな子が剣を手に取って、魔物と戦って、人の死を沢山見るなど――。
ランドルは一人、奥歯を噛み締める。
剣を取ったからには必ず理由がある。この子はそれだけの覚悟を決めて、戦っているのだから――自分に口を出す権利はない。だから絶対そんな無責任なことは言わないけれど。
こんな子が戦うような世界は、ただ悲しい。
そう、思った。
感傷に浸るのはここまでだ。
全ての串を平らげ、満足げに食後の余韻に耽っている彼女に言葉を掛ける。
「昼間のこと、俺が眠らされてた時のこと、詳しく聞きたいんだけど……大丈夫かな」
「――待っていてくれたんですね」
リーゼは顔を引き締めて、表情を消す。幼げのあった少女の顔から、酷く大人びたその顔へ。
「はい、話します。私もある程度、頭の中で決着は付けました」
暗い表情で、リーゼは語り出した。




