五十四話 魔物話(後)
「こちらに着替えよ。そのような姿では陛下へ近付くことすら侮辱になってしまうのでな、貴様には救世主らしい格好をしてくれなければ困る」
彼は豪華な貴族服を着用していた――拒否したところ、その場限り彼に付いていたメイドに着替えさせられた。
フリルの付いた真白のレースに袖を通され、黒を基調とし、大量の貴金属が散りばめられた装飾の目立つ外套をその上から羽織る。肩には権威の象徴であるという趣味の悪い獣皮の襟巻きを巻かれている。
ゆったりとした軽衫をまた履かされ、光に反射するような革製のものが嫌でも足に纏わり付いた。
長時間履けば足の痛むような固く重い革靴に、上物の繊維で編まれたであろう腰巻き。
最後に毛髪を油で整えられ、商人であった頃の面影などなくなっていた。
使者からボロと称された衣類はメイドに回収されており、どこかになくなってしまっている。
捨てられたか。
「お似合いですよ」
と去っていくメイドが皮肉にしか聞こえない。
しかし慣れぬ格好とは言えども無様に脱ぎ捨てるわけには行かず、彼は豪華絢爛な室内の端でただ使者が戻るのを待っていた。
ここから逃げ出す算段は浮かんでいない。
噂ではなく救世主として祭り上げられてしまった現状、名誉を与えられるだけでは済まないに決まっていた。
水面下で起きる他国との小競り合い。未開拓の土地の開拓に荒れた領地の内紛、反乱、困窮、自然災害――国が抱える問題はどこまででも続いている。
――それを、救世主にも負わせようというのだろう。
半ば強制的に。
拒否をすれば、命はない。
使者の口振りから――そういう類の役目を国が求めていることは、分かっていた。
かつて青年だった彼。
どうして見つかったのかは――言うまでもなく、証拠があったからだ。
確かに国は人海戦術の虱潰しで捜索に当たっていたのかもしれない。
けれども全くの出鱈目などではなく、証拠はあった。残っていた。
例えば最初の村で下した化け物、失踪した男女――それらの奇蹟は語り継がれることで皆の心に刻み付けられ、元を辿られたのだ。
何年経過してもそれはどこかに残っている。青年が大人になろうとも、全くの別人になるわけでもないから。
彼らは旅人を洗っていたのだ。
茶色の髪を持つ、男か女を。それなりに長身で茶髪であれば誰でもいい。旅人としての経歴を持つ者なら誰でもよかった。
加えて最初の村には青年が残してきた異界の『服』も、更にはそこでの歴史もあって。彼らの記憶にその青年さえ残っていれば、彼を追い込むには十分過ぎたのだ。
「おお、救世主よ。良い格好ではないか。では共に向かおう、陛下の準備も出来ておられる」
彼の服装を見に来た使者の男は満足気味に頷き、それから白い手袋を嵌めた右手で握手をと差し出してくる。
仕方なくそれに応じ、彼は使者に連れられて玉座の前と向かった。
慣れぬ赤い布地を踏み進み、調度品の掛けられ置かれる様々な品を通り過ぎる。
王との謁見だ。
決して喜ばれることではない。
こつこつと歩く革靴の音が、彼のカウントダウンを刻む。
何の?
そう――。
そこはただ広い空間であった。
何本もの柱が立ち並び、鋼に身を包む兵士達が槍を床に突き立てて彼を見やる。赤い絨毯。それが進む先には段になっていて、その上には一番に豪華な玉座とそれに座る老齢の長。
王だ。この国の王が、ただ座っていた。
老齢ではあったが、か細いという印象は受けない。
むしろそれは豪傑だ。歴戦の兵士がそのまま玉座に着いたかのような威圧を以て、皺の刻まれた眉がぴくりと微動する。
「――待っておったぞ、救世主よ」
左右には大層美人な女を抱え、指先で王冠をくるくると回しているその王。あまり行儀が良いとは言えないが――その威圧は、初めて対面する彼に巨大さを味わわせるのに限っては、十分過ぎる役割を果たしていた。
かの王には良い噂が散りばめられていた。救世主ほどではなくとも、王の政策はこれまで国を広げてきた。結果、救われた民は多い。
逆に悪い噂も、良い噂と同等に伝わっている。
それは、国王が傲慢だということだ。
一度欲した物は何が何でも手に入れるといった王の方針は若くして王となった頃から老いた今も変わらず、大国となる前は争いが絶えなかった。今は下火になったと言われているが――それは王に逆らえる者が、少なくなったからに過ぎない。
国に従っている限りは良い王様となるだろう。しかし一度目を付けられ、逆らった場合はその限りではない。
片膝を付いた使者に合わせて同じようにした彼は、次の言葉で顔を上げる。
「顔を上げよ、救世主」
「……はい」
「余が救世主たる汝を呼んだのは他でもない、汝には特別な力があるそうだな」
「――」
答えずにいると、王は右手で髭を一撫でしてから続けた。
「答え難い類のものか? それもそうだな。余が耳に入れた噂というやつも、空の上の戯言を聞いておるようだった。――用意せよ」
王冠を回す手を止め、玉座の脇へとそれを置いた王は右手の動きで命令を下した。すると水瓶を抱えた兵士の一人が横から出て、それを受け取った使者が彼の前へと置く。
ごとりと置かれた水瓶は、当然のように空であり。
何を求められていたのかは、彼も即座に理解した。
「さて救世主よ。汝の名声は聞き及んでいる。我らが道具を使わねば出来ぬ行いをその身一つで成し、我らが数を以て制さねばならん行いを汝は一人で制した。汝ならば、空の水瓶に透明な水を満たす程度は軽く行えることだろう。その稀有なる力、余に見せてはくれぬか」
「……一つ聞きましょう。それは、見せなければならないものですか?」
「どういうことだ? 汝は救世主なのだろう? 水を生み出す逸話も聞いておるぞ。よもや偽物では――あるまいな」
そうではない。偽物だったからと生きて返されるのならそれが一番なのだが――。
「魔法とは便利なだけの力ではないのです。見せるだけなら容易いでしょうが……」
「なんだというのだ。申してみよ」
話す機会は設けられた。
彼は不可能と承知で、その理由を伝えるべく口を開く。
「どう説明すれば良いのでしょう。魔法とはそれそのもの自体が破壊をもたらすのです。物理的な意味合いだけではなく、この世の法則を破壊するということです」
手から水を出す、火を出す、壁を生み風を生み物を動かし竜巻を相殺する――それは、どうあっても不可能だ。
火を起こすには空気と火種と熱が必要だ。水だってそう。無から有を生み出すことなど出来やしない。
彼の魔法は、完全なる無から有を発現させる――そういうものだ。
通常存在する物理法則を全て無視して、生み出すだけで人間も動物も大地も概念も法則も存在も常識も全てを壊してしまう――。
先の件で使者の常識を壊してしまったように。
魔法で改竄した事象はもう、元には戻らない。
それは必ずどのような形であれ、破壊を生む。
だから彼は、最小限でしか魔法を使わなかったのだ。
「……? それがどうしたのだ。見せられぬ理由にはならんな。第一に民に見せることは出来て余に見せることは出来ないと申すか?」
彼がどう説明を付けたところで、この王は満足しないのだろう。
使者も同じ。それが本来普通の反応だ。
そもそも魔法なんて壊れた概念など、誰が理解する? 彼でさえ理解不明な点がある魔法を他の人に説明して、正しくその恐ろしさを理解出来る者がどこにいるというのだ。
どうして魔法が破壊にしか繋がらないなど信じられる。誰が見たって魔法は魔法だ。何でも出来てしまうとても便利な力にしか見えない。
強いていうならば、彼は青年だった時代からずっと経験してきたからだろうか。
――過ぎた力は人を狂わせる――。
多分きっと、それだけのことだったのだろう。
誰もが気付くことが、できないだけで。
「そして更に聞こう。汝はその者に魔法を見せておきながら、余には見せられないと――そう申すのだな」
「……分かりました。要望に応えましょう」
彼は恭しく頷き、水瓶の口へと右手を翳した。
すると手の平から溢れんばかりの水が流れ出し、たちまち水瓶を透明な水で埋め尽くした。
水瓶の口から零れてしまう前に止め、手を退けるとそこには確かにみずみずしいと言えるだけの本物の水が張っていて、王は目を見開いてそれを凝視する。
少しの間水の揺れを眺めてから、白い顎髭を右手で擦って、彼の瞳へ視線を送った。
「――ほう……にわかには信じられぬが、この目で見たからには本当であると信じざるを得まいな。その水、飲めるのか?」
「はい、飲めます。疑似的な水ではなく、これは正真正銘本物の水です。川の上流から汲んだような澄み水とは違いますが、真水であるのは確かです」
「ふむ、そうか。では一口貰おう」
「……へ、陛下?」
「侯爵、その水瓶を持って参れ。汝は力持ちであろう」
指の合図のみで使者を遣い、目を驚きに丸めながらも使者は水瓶を重そうに持ち上げた。
侯爵だったのか。
彼は使者の正確な身分を聞かされていなかったが、侯爵の位に位置する貴族であることがたった今判明した。それが高いのか低いのかは彼には正しく分からなかったが、この中では兵士よりも位が高いことだけは把握した。
けれども――今の時点では、彼より低いことも。
決して顔には出さなかったが。
「――ふむ、水だな。疑う余地もない、これは飲み水だ――やはり信じ難いが、汝の力は見せて貰ったぞ」
王は水瓶に人差し指を付け、躊躇なく口へ含んでそう告げた。
「……陛下、それが危険な代物である可能性を――」
ばしりと侯爵の頬が叩かれ、王の視界から消え失せる。
吹き飛んだのだ。老いに負けることなく鍛え抜かれたその肉体は豪奢な衣類でも隠し切ることは出来ず、打たれた頬はさぞ痛かったのだろうと推測する。
自身が打たれることに耐性が付いていないのか、侯爵は数メートル床の上を転げ――すぐに王へと向き直った。
「ご無礼を、申し訳ありません」
「貴様はこの余が間抜けに見えるか? 毒でも入っておればすぐに感付くわ――これを持って下がれ」
「……は」
昔は武闘派であったのだろう。
王はとても老齢とは言えぬ強大な眼光で睨み付け、びくりと身を震わせ、水瓶を両手に侯爵はおずおずと後ろへ下がる。
用済みとなったの水瓶を兵士が片付ける様が少しだけ窺え――王は、満足げに髭を撫でていた。
おもむろに、立ち上がる。
その鋭い眼光は細目で彼を見据えていた。
「気に入ったぞ。汝のその力は余にとって、いいや国にとって偉大な進歩となる。誰がその身に火を宿すことが出来ようか、誰が水を生むことができようか――汝の力は、やはり見つけて正解であった。余の胸が高鳴ったのは、久方振りだ」
次に告げたのはその句。
彼が返答をする前、更に一歩を踏み出して王はこちらへ近付く。
何を言わんとしているのかは――どんな者でも察しが付くであろう。
「救世主よ。余が汝を呼び付けたのは他でもない――汝の魔法を、この国へ捧げよ」
答えていい類の台詞ではなかった。
故に彼は黙る。
「汝の力をこそこれまで求め続けていたのだ。数々の村を独力で救うその姿勢、今まで隠し仰せてきたその実力と、本物の魔法。余は汝の全てを評価しよう。そうだな、本来有り得ぬことであるが、救世主とあらば誰も文句は叩けまい。汝に爵位と土地を渡そう」
「――それは」
それは、普通に考えれば悪い提案ではなかった。
小さな村。決して肩身の広いとは言えぬ異民族の集まる村で、小売業をやってきただけの一介の人間が唐突に位階と土地を与えられるなど、願ってもいないことだ。
――普通ならば、だ。
「……王様は、私に何をお求めですか。魔法を使って、この世を救うことを望んでおられますか?」
「汝の力は腐らせておくには惜しい才能だ。余のことは知っているだろう? 余は国を耕すためであれば手段など選ばぬ。汝の力は必ずや国を栄えさせ、繁栄させると確信した。その魔法を、この国の為に使って欲しい」
――国の為に、使って欲しい。
なんと馬鹿げた話だ。ただ一人の魔法遣いに頼むことでもなければ、規模でもない。やはり見誤っている。
魔法が何であるかを知らないから、王は何も知らずにそのようなことが言えてしまうのだ――。
だが答えないことは許されない。
そして王が求めるのはただ一つ、彼が頷くことであった。
――改めて彼は片膝を付き、王へと頭を下げる。恭しく、丁寧に。
それらの所作は王を満足させるには十分で、
しかしだからこそ。
断らなければならない。
「――申し訳ありませんが、その提案は受けられません」
顔を少しだけ上げ、彼は言う。
「私の持つ力は、何かを壊す為の力です。今までも結果的に村が助けられたのであって、私は誰を救うつもりもありませんでした。私は救世主などではありません」
いつだって自分の身を守るだけであった。
襲い来るそれを、正面から破壊することで生き延びてきた。
その副次的な結果として村や町が守られてしまっただけなのだ。
たまたまか、と言われればそうではないのだけど。
別に彼は、村を守らんとして魔法を使ったことなどただの一度もない。
いつだって魔法は――破壊者のそれだ。
「私が国を繁栄させる為に魔法を使うというのなら、いずれその魔法こそが国を滅ぼす要因になるでしょう」
「――言っておることが分からぬ、汝が国を滅ぼすということか?」
「いいえ。私の魔法が、です」
王は怪訝に首を傾げる。
説明はできない。事実としてそれがあるのみで、誰かに理解させることができるかと言えば――その目で事実を確認する以外の方法では、無理なのだろう。
――だから、それは――。
「占い師のように遠回しなことを言う奴だが、余の国が滅ぶと申すか? この、強大な国が!」
「滅びます。ですから、力をお貸しするわけにはいかないのです」
「ならばその力だけでも渡すのだ!」
「――それは、出来ません」
教えることは、可能だった。彼も魔法は先人に教えられて育ったのだから――しかし。
静かに首を振ると、王はとうとう怒りを露わにしてしまった。傲慢な王、欲した物は必ず手中に入れる王が、魔法という代物を手放すはずもなく。
「出来ぬと申すか! その力は貴様だけの力と! そんな傲慢が許されると申すか――」
「教えることは出来るのです。しかし、私がではなく……魔法が破壊を生むのです。誰が使おうと、変わりはないと」
彼が再び頭を下げてそう言うと、王は深い溜め息を吐き、腕を組んだ。
「ふむ……貴様を探す為にどれほど精を出したか分かっておらぬようだな? それほどまで稀有な物を持っておいて。ならぬ、このままおめおめと帰れるつもりでいるなら」
王は更に距離を詰め寄り、鋭く尖った金眼が剣呑な輝きを内包する。
「――兵よ! この者を牢へ連れ行け。国外の商人が王都へ不法侵入など、到底許される所業ではないぞ」
「……な」
兵士に囲まれ、長槍を突き付けられて彼は身動き一つ取れなくなる。
不法侵入をしたわけでもなく、国外ですらなく、王都には招聘されただけなのに。そんなものはただ捕まえるための詭弁であることは、嫌でも理解していても。
「私は――っ!」
王は言う。
「縛り首にせぬだけ有り難く思え」
その宣告を。
彼は地下まで運ばれ、数ある内の牢の一つに投げ込まれていた。
薄ぼんやりとした明かりが通路を照らしているばかりで、冷たい鉄と、乾いた血、腐った臭いのする牢屋内部は酷く淀んでいた。
中にあるのは申し訳程度の薄い皮に、穴が空けられただけの便所。掃除もしていないのか汚物が便所周りに散乱し、毛布にも痕がこびり付いている。
その乾き方を見ると、ここ最近のものではないことが分かる。
掃除をしないのだ。血と汚物の臭いが鼻を刺激する。
「……あの時を思い出す」
彼が最初に辿り付いた村で、妻と一緒に牢屋へと入れられた時のこと。贄とされた時、入ったのだ。
そこは贄が入れられる場所であって、このような罪人を隔離する場所ではなかったけれど。ここまで酷い場所ではなかったけれど。
一言も喋らなかったが、そこに彼女は居たのだけれど。
明日出られるなどという生易しい結果にはならないだろう。
魔法を使って脱出は出来る。
――しかしそうなれば、公なお尋ね者だ。流石に国を相手にどうにか出来るとは考えないし、考えたくもない。そんなことをしてしまえば――家族に迷惑が掛かる。
それでは済まないだろう。何代先になろうとも、彼という存在が邪魔になる。それだけは避けたかった。
だから彼は、大人しく牢へと縛られていた。
幸いなのは両手足までをも縛られて磔にされていないことだろう。何もありはしないが、牢屋内では自由に動くことが可能だった。
けれども何もすることがないので、四六時中考え事をしたり、掃除をしたりと――そんな、何にもならないことをやっていた。何かをしていなければ気が滅入りそうなほど、臭くて薄暗かったから。これならまだ何も見えない方が良かった。
そうしていると、ぎぃと扉を開く音が耳に入り、廊下の鉄を弾く音が近付くのが分かった。誰かが歩いてきているのだ。
「臭いな。二日もこのようなところに居れば頭まで腐りそうだ――救世主殿よ、元気にしていたか?」
それは、王だった。
二日もこんなことをしていたのを初めて知った。彼はただ、王へと目を合わせる。
「何だその目は? 貴様が、この余に反発するからこうなったのだぞ」
「……反発など」
「お得意の魔法はどうした? それがあればここからは簡単に抜け出せるであろう。水を使えばこの汚物ももう少しマシなると思うが?」
「……そのような下らないことにまで、使いたくはない」
「フン。汚物と余の命に背くのは同じ事か。貴様が使うのは村を救世する時だけか? それこそ下らぬ、下らぬな」
「そうでは――」
「気が変わったか。救世主よ」
「――それは、出来ません」
そうか。
と言って、王は姿を消していった。
力の抜けた彼は、その場にへたり込んで腹を擦る。
「私はもう……二日も、食べていないのか……」
日の全く当たらないここでは時間の感覚などありようがなかったが、悪臭を嗅ぎ続けているせいで腹など一度も空いていなかった。
その日以降、散発的に王が顔を出すようになった。
看守の出す食事はそれよりは少し多い程度に。
それで死ぬことがないということは、一日に一食は食べることができているのかもしれない。もしかしたら二日に一食なのかもしれないが、詳細は知らなかった。
王が定期的に顔を出してくるということは、死なせるつもりもないのだから。
その間、如何にして逃げるかを考えていたのだが――いい方法は見つかりそうになかった。
まず巡回兵が三人。感覚の薄い時間でも分かるほど短い間隔で、三人の兵が牢屋を見回りに現れる。三人同時ではなく、等間隔に距離を空けているため、例えば奇襲を掛ければ誰かに気付かれ、仲間を呼ばれてしまうだろう。
そうなってしまった場合を考えると、逃げられるかどうかすらも微妙である。兵を考慮しないでの逃走は選択肢に入れられない。
更には運良く逃げられたとしよう。
あの王のことだ、周りを兵士で固めている可能性すらある。それもなく無事に王都から抜けたとして、既に気付かれている状態から撒けるかといえば望みは薄いだろう。
ならば見回りのない隙間を縫っての逃走を考えたが、ここがどこだか分からないというのはかなりの障害だ。
地下であることは分かるため、壁を破壊して進むには力を使い過ぎてしまうことも。
何も無尽蔵に魔法を使えるのではく、使い続ければ疲労が訪れる。
健康的な生活を送っているならばともかく、この状況はぎりぎり生き長らえさせられているようなものであったからだ。
万全を前提にして考えてはならないし、例えそうであっても――数千数万の兵力を持つ国から逃げ仰せようなど、現実的な手段ではなかった。
つまるところ――手詰まりであった。
何もせず、状況の変化を待つしかなかった。
好機となるような変化を。
策は考えるだけ考えて、頭の奥底に沈んでいく。決して行動に移すことはしない。ただ待つばかり。彼にとっての好機を、延々と。
――だから、それは――。
――彼ですら。
拷問が開始されたのはいつの日からであっただろうか。
肋骨が目に見えて浮き彫りになって、手足が骨ばりはじめてきた頃だろうか。
拷問官を引き連れて現れた王が、いつものように言った。
「元気にしているか? 救世主殿。それで、考えは変わったかな」
元気にしているわけがない。
今更考えなど、変わるものか。
答えを返さないでいると、拷問官が牢の中に入ってきた。
衰弱していた彼が微動すらせずに迎え入れると、鞭が彼の肌を抉る。何日も何十日も着続けて古ぼけていた彼の貴族服は――その一撃で、背中の肉ごと爆ぜた。
「がァ――ッ……アアアアアァ……!」
「痛いか。痛かろう? 国王に逆らう者の末路は薄汚い暗がりの部屋だ」
更に一撃、鞭は振るわれる。股の肉を抉り取って、血液を飛び散らせた。
「ぐぅ……があっ――」
「後は任せるぞ。明日、また足を運ぶのでな。結果は期待しない、殺さず生かさずに任務を全うしろ。余は忙しい」
「仰せのままに」
王は去る。
そうか、次は拷問をしようというのか。
状況が最悪に変化したことを悟り、彼は己が逃げられぬことを悟る。
思い浮かべるのは、妻と娘の顔だ。
約束はきっと、果たせない。
悪い男だ。約束破りの男だったと、娘に失望されてしまうだろう。
幸せを育み続けることは出来なかった。妻はきっと、悲しんでいるだろう。
それでもいい。
ただ願った。
遠く離れたどこかの地で、二人だけは元気にやって欲しいと。
その日を境に彼は牢を出ることを諦めた。
逃げるのが不可能だとしても、こうなる前に脱獄してしまうべきだったのだ。けどここで逃げてしまえば、妻と娘が逃げる時間がなかったかもしれない。
そう考えると、これで良かったのかもしれないと思った。
三人で過ごす日々が永遠に続かない、脆く壊れやすい生活であることは重々承知の上だ。まさかこのような結果になるとは思いもしなかったけれど、残りの全ては妻と、娘に託すのだ。
意識が曖昧になり、彼の心は夢の奥深く、底へと埋没する。
ありし日の幸福や、虚構の日々を文字通りに夢見て。
死んだように眠る。
――いつしか、起きていられる時間よりも眠る時間の方が多くなっていたことに、彼は気付かない。
拷問の手が加わったことによって、魔法使いとして一般のそれを凌駕する強靭さを備えていた彼も、死期は近くなっていた。
寧ろ、生きているのが不思議なくらいであった。
「私は――私は、ただ」
――彼は。
「……」
彼がその右目を開けた理由は、左目をくり貫かれた衝撃からであった。
理由はなんだっただろう。目を開けぬなら必要ないと拷問官が言ったからであったか。そのような理由で左目は簡単に無くなった。
目玉は便所の穴に落とされ、糞尿と共に腐り果てるのだろう。
虚ろな右目から涙を流して拷問官を見やった彼は、うわごとのように呟いた。
「妻に……娘に、会いたい」
「お前が国に尽力すれば、その願いも叶うだろう。国王はそれをお望みだ」
「……ここは、どこだ? 私は先程まで、外にいたはずだが……見にくい、暗い」
「とうとう心をやったか。長かったな、ここまで耐えた奴も珍しい……しかしこれでは、もう意味がないな」
「意味なら――ある――私は、ここに居ることで、意味を果たす」
「お、意識が戻ったか? ……単語に反応しただけか。もう寝ていやがる」
彼はもう右目を閉じていた。
死ぬように眠り、また夢を見続ける。夢のような夢を、夢らしき夢を、願望を見続けながら、彼は深い深い暗闇へと落ちてゆく。
「やれることは尽くしましたが、無理ですね。ご覧の通りでしょう」
「ああ、そのようだ。なれば最後に試そうではないか」
拷問官の隣に立っていた王は、顎をしゃくって自信満々に――。
「刺激を与える手段がおありですか? 言葉責めは勿論、腕を取って歯を折って目まで取り、滅多に使わない薬まで投与していたのですが……最後は投げやり感も否めませんでしたが、何をしても堪えませんでしたよ」
半ば諦め気味な拷問官に、小声で囁いた。
「――ああ……そういうことでしたら、まだ可能性はありますな」
「だろう。それでもダメならば、手立てはないだろう。野に放って監視役を数人付けておけ」
自由になったと錯覚すれば、もしかすると魔法を使うやもしれないからだ。
「見て覚えるのだ。余は最後の一滴まで諦めぬ男よ」
「存じております。国王様」
拷問官は薄ら笑みを浮かべ、国王は無表情で口を閉ざす。
二人の視線を浴びながら、彼は安らかに眠っていた。
日を浴びなくなってからどれだけ経過したのだろうか。
「元気かな、救世主殿」
とにかくその日、同じような台詞を聞きながら彼はまどろんでいた。耳から耳へと抜けていくのはいつものことで、返事などは返さない。
王と対面した時、彼が起きているのは珍しかった。ほとんどの時間意識を失っているからだ。
「どうだ。気は変わったか」
ここまで同じ。
何の感情も湧かない。聞き慣れた鳥の鳴き声のように、それは通り過ぎていく。
返事はない。
ぼうっとした右目がゆるやかに泳ぎ、数秒だけ王と視線を合わせる。
「今日は朗報を持ってきたぞ。貴様にとって、嬉しい報告だ」
いつもと違う言葉。
しかし、彼には届かない。
夢見心地の延長で口を開き、うわごとを呟き続けているだけだ。
放置してしまえばまたすぐに眠ってしまうだろう。壁に背中を預けていた彼は、首を傾けてぼうっと見ている。
王は牢屋の鍵を開き、仕切られたスペースへと入り込む。
悪臭が鼻を突くが、王は顔をしかめるだけに留めた。
「このような場所に隔離されていれば気も狂おう。救世主よ、起きているのならば余を見ろ」
ゆっくりと、力無い表情で顔を上げる彼。その右目はぽっかりと穴が空き、本来そこに嵌まっているはずの眼球はどこにもない。残された左目が、王を見据える。
「――よく、家族に会いたいと呟いているようだな。そういえば貴様は家庭を持っていたか、小さな村で物売りをして生計を立てていたらしいではないか、さぞかし心配であったろう」
「……」
「だが、もうしなくてよい」
彼は反応しない。しかしその視線が王へと集中していることだけを感じ、歪に口元を歪めた。
「家族を連れてきてやったぞ」
――ごろん、と。
王の横から、何かが投げ込まれて床を転がる音がした。
「……あ、」
薄暗い室内に新たに刻まれた、血糊。その丸い何かは彼の足にぶつかり、ようやく止まる。
王から目線をそれにずらした時、彼は声を放った。掠れてしまって言葉にはならなかったが、それは。
妻の、頭だった。
首から下を失った彼女は、開ききった瞳をこちらに向けている。二度と動くことはなく、どうしようもなく死んでしまったそれが――。
「――ああ」
その瞬間、彼は見続けていた夢から目を覚ます。
眺め続けていた幻想は幻想でしかなくて、現実は先の見えない薄暗闇だ。
彼女は、死んでいた。
逃げてなどいなかった。助けてくれようとしたのか――或いは逃げていて、逃げ切る前に捕まってしまったのかもしれない。
何せ長い間を牢の中で過ごしていたのだ。その間に何があったのかなど彼は知る由もない。
ない。考える必要も、もうない。
彼女は、ここにいる。
死んでいる。
「――君は」
一緒にいられなかった間、どうしていたのだろう。
言葉は届かない。
少しでも無事に生活出来ていたのだろうか。
想いは届かない。
少しでも幸せに――。
願いは、届かなった。
「……私は」
幸せなわけが、なかった。
幸せにすると言った自分がいなかったのだから。
今度は目の前に、小さい何かが投げ込まれた。
「――あ、ああ……あ」
見る必要もなかった。
けれどしかとその目で、彼は見届ける。
――彼女がここにいるのであれば。
――娘が、殺されていないわけがなかったのだ。
すっかり生気を失ってしまった娘の頭。彼と彼女の髪色が混ざったような茶金の髪を撫でようと腕を伸ばして――ああ、右腕は無かったのだったか。
左腕を伸ばして、血と脂で塗れた髪を指先で軽く梳いてやる。
久し振りに撫でると、頭だけの娘は手から離れて転がっていってしまった。
「救世主よ。貴様がいつまでも頷かないから、こうなったのだぞ」
「……」
「余を殺すか? 今直ぐ魔法を使えば、余を殺すことなど容易いだろう。貴様は今の今まで魔法を一度も使わなかったそうだな。そこまで頑なに使わない理由があの戯言にあるというのなら、よかろう」
「……何故、殺したのですか? それを知りたかっただけで殺したのですか」
「貴様が強情だから殺したのだ」
「――何のために?」
「貴様が魔法を使うきっかけを、くれてやったのだよ」
――手を貸してくれないのであれば、自分達が魔法を教わればいい。それも駄目ならば、見て盗めばいい。
この王はそう考えているのだ。
「――くだらない」
そんなことで人は人を壊してしまえるのか。そこまで魔法という存在は魅力的で、人を壊してしまうものなのか。
たったそれだけのために、妻と娘は死ななければならなかったのか。
だったら魔法などない方がよかった。
けれど、魔法がなければ二人は既に死んでいて――娘は、生まれてさえこなかった。
噛み締めた奥歯が、軋んで砕けた。
崩壊の始まりが――最初の一度、この世界で魔法を使ってしまった瞬間から既に起こっていたのだとは――彼ですら分からなかった――分かりたくは、なかった。
魔法がそんな絶望的な代物であるなど。運命をただ引き延ばしにすることしかできないなど、信じたくはなかった。
だから今まで騙し騙し生きてきて、そんな答えを否定し続けていたのだ。
認めてしまえば、今まで生きてきた人生そのものが無駄になるような気がしていから。
でもそれこそが、無駄だった。
全部壊れた。
彼は虚ろな瞳で、答える。
「……分かりました。魔法を教えて差し上げましょう」
「――何?」
「そこまでして滅びが見たいのであれば、喜んで教えましょう。貴方の望む、魔法とやらを」
――そうであるならば、そんなものでしかないのであれば、自らに終止符を打ってやろうと。
彼は、腐りかけた眼窪から赤黒い液を垂れ流し、そう決めた。
ようやく思い出した。
やっとと言い換えるべきか。
自分がどうしてこの世界に訪れたかを、忘れていたことさえ忘れていた。
「私が破壊してしまったから」
世界は、
「私を追放したのだったか……」
大方の事は覚えていて、根本的なことだけは忘れたがる都合の良い脳味噌だ。
死んでもいいと思っていた。
野たれ死ぬのも悪くはないと思っていた。
そこがどこだかも分からなかったし、生きる理由などとうになかった。
自殺する気すらもなかった。
そんな時に現れたのが――そうだった。
彼女だったのか。
そこで助けられてしまったんだった。
引き留められてしまったんだった。
だったら希望を持つのは――当たり前だろう。当然だろう。
何故ならあの日々は輝かしく、神々しく、煌びやかで、神聖で、美しくて、喉から手が出るほど欲していた幸せだったのだ。
期待してしまうのは自然だったろう。
彼女に惹かれ、そして彼女も彼に惹かれた。
死んでもいいと思っていたのが死にたくないとさえ思うようになって。
彼女が死ぬ運命だったと知った時、彼は運命を捩じ曲げた。本来そこで死ぬべき彼女の運命を、彼女に捩じ曲げられて希望を持った彼の延命した運命を――また延命した。
それこそ魔法のように。
それがこの結果である。
どうしようもなくて、結局こうなるのかと吐き捨てて、彼は希望を閉ざした。
死のう。そう思い直してやはり止めて、目の前の男の姿を残された右目で見つめた。
――自殺、そんなものはできない。
魔法使いである彼は魔法で死ぬことなどできない。例え業火でその身を焼いたとしても、それで死ぬことなど不可能だろう。
ならば高所から飛び降りて死ねば死ねただろうか。
頭を壁に打ち付けていれば死ねただろうか。
舌を己の力で噛み切れば死ねただろうか。
――ああ、ああ、言い訳はもういい。己への下らぬ言い訳はもうどうでもいい。
死にたくない気持ちまで一緒に、失せはしなかった。
希望を無くしてもなお、彼は生きていようと思った。
だが二人の分まで生きていこうだとか、そんな綺麗なものではなく。
なんで死んでやる必要があるんだ――殺したい。この男を殺したい。どうしようもなく己の全てを奪い取ったこの男を――どうしようもなく絶望に追い込んでから、壊してやりた――そう。
復讐がしたかった。どうして為す術もなく、死んでやらなきゃならない。
希望を失ってまで、破壊を止めなければならない。
彼が魔法を乱発しなかったのは全て彼女の為だ。彼女の生きる世界が平和であらんことを望んできたからだ。
結局無に帰した。
もう彼女はいない。娘もいない。
二人とも死んでしまった。
だからもう、破壊したくない理由なんてない。
――全てを、ぶつけてやりたい。
じゃあ、破壊しない理由もないだろう。
殺してしまえ。壊してしまえ。全部、全部、全部、己の手で破壊して壊滅して消し去って亡くして失くして無かったことにして消滅させてしまえ。
滅んでしまえ。
――破壊し尽くした後は、そうだ。自殺なんて生温い方法では意味がない。多分その頃は、生きる希望も死ぬ絶望も失って、存在し続けるだろう。
そうして存在する魂など、死んだ妻と娘の分まで生きたことにすらならない。生きてるだけで、おこがましい。
――罰が必要だ。それもとびきりの、神罰だ。
さあ。自分で壊して自分も壊して――全部終わりの結末を迎えよう。
ああ、虚しいな。
何でも出来てしまうのは、とても虚しい。
何でも出来る選択肢を持ちながら、何にも出来ない事実を見続けるのだから。
「――私は。何をしていたんだ」
全部間違っていた。
こうなることが分かっていれば、全部破壊してしまえばよかったのに。
彼女を守るために全てを破壊して破壊して、それで――そうなれば、また別の道が開けたかもしれない――と。
いや、きっとそんなことをしていれば。
「もう遅い」
最後にそう、呟いて。
――彼は、復讐に身を投じるのだ。




