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トラベラーズ・レコード  作者: くるい
呪縛の在処
53/91

五十二話 魔物話(前)

 魔物という存在のお話。

 彼らが何処で生まれ、何処で始まり、何処で終わったのかを記す物語。


 しかし誰が語り手でもない、どのような脚色もされてはいない。

 だってこれは、消却された消滅した物語なのだから。


 既にこの世には存在していない、物語なのだ。




 ――ある時、一人の男が立っていた。場所はどこだっただろうか、それは誰も知らない。

 ただ男が誰も知らない場所に現れたということだけは、確かであった。


 男はその土地では見慣れぬ服装をした一人の青年で、当時特に珍しくもない茶色の髪と目を持ち痩身の何処にでも居るような容姿をしていたという。

 だからこそ、彼をそれ以上の目で見る者は何処にも居なかった。それ以上とは人間以外と言うことであり他の“ナニカ”であるとは考えなかったのだ。


 その男がこの先“魔物”と呼ばれ、“魔物”を統べる存在になろうとは――まさか誰も思わない。

 だがそれは、当たり前のことだったのだろう。

 本人ですら予想していない結末だったのだから。











「――え、記憶喪失?」

「うん、そうなんだよ。この村に来たことも覚えていないし、それまで私が何処に(丶丶丶)居たのかも覚えていなくて」


 青年が最初に訪れた村は、至って普通の村だった。

 豊穣の土地。豊かな自然に囲まれた中、畑と家屋が十件ほどあるだけの、木柵に囲まれた小さな農村。

 旅人が一泊か二泊してまたどこかへ旅立って行くために設えてある宿屋の一室に、青年は泊まっていた。


 日にして二泊以上。

 青年は――そう。端的に言えば道端で倒れているところを助けて貰ったのだ。助けたのは今現在青年に疑問符を投げ掛ける同年代の金髪の女子おなごではなく、早朝から働いていた農夫が担いで連れてきたのだけれど。


「なるほどー。じゃあ、あの時はなんだかよく分からず歩いていたらお腹が減って動けなくなって、それでここまで来たってことなんだね」


 短く切り揃えられた金髪が跳ね、快活な笑みが納得の表情を見せる。

 どうやら行き倒れというのはそこそこに発生するらしい。

 彼女は宿屋の一室を自らの家としている少女であった。村にある家の何処かではなく、その宿の一室が彼女の家なのである。

 ――つまりは農夫が連れてきた青年の処遇をどうするかという村での会議の末、この金髪の女子が青年を引き取り、宿に住まわせるということになっていたのだった。


 青年のたどたどしい説明にうんうんと頷いて彼女は立ち上がり、それまで自分が座っていたベッドへ指差して「じゃあここに住めばいいじゃん」と言った。


 餓死寸前――とまでは言わなくても、腹を空かせて倒れた日から何日も経って、住む家と毎日三食を与えられて過ごせば少しなれども体調は良くなるだろう。青年は健康と言って差し支えないほどにまで快復していたため、この宿を出ると言い出した。

 あまり世話になるのも悪いからだ。

 それからの彼女との話し合いであり、青年が記憶喪失(丶丶丶丶)であると騙るまでに至って――至った彼女の結論であった。


「そんな『え?』みたいな顔されても。だって何も覚えてないんでしょ、そのまま旅に出ても同じことになるじゃない」

「いや、それは。あの時は少し混乱していたからで、もう大丈夫だけど」

「だったらせめて、記憶が戻るまでいなよ。ウチは別に君のこと歓迎してないわけじゃないし、邪険にも思ってないから」


 青年は嘘を吐いていた。彼女に“記憶喪失”などと言って、自らが倒れていた説明を済ませていた。

 ――それは全くの嘘で、その場限りの誤魔化しに過ぎない。


 さて何故そんな説明をするに至ったのか。そんな説明をせざるを得なかったのか。時間がなかったのと説明を求める彼女の視線に押されて若干の思考停止があったことも否めないが――それは、青年がこの世界ではない世界から訪れた存在であるから、だった。

 説明出来ないのだ。

 果たしてありのままを彼女に説明して信じてくれるだろうか? きっとないだろう。それだけのことであり、今後関わることもないからという判断で嘘を吐いてしまったのが運の尽き。

 より彼女から心配されてしまった青年は、その後の些細な後付けも虚しく彼女に言い包められてまたしばらく宿――彼女の家に泊まることになったのだ。


「よし、これからウチは君の記憶を思い出すお手伝いをしようと思うよ」


 彼女がそう言い出したのはさらに数日の後だ。

 なんとなくこの世界の常識やら何やらがほんの少しずつではあるが分かってきて、農作業を手伝ったり荷運びをしたりで生活をしていた日の夕方でのこと。いつも宿屋の調理場を借りて料理をしている彼女が、いつもより豪勢な食事をトレイに乗せて部屋に運んできての第一声がそれだった。


「……え?」

「えって、またそんな顔されてもウチが困っちゃうよ。自分の記憶、知りたくないの?」

「……知りたくないと言えば嘘になるけど、思い出せるのなら」


 これすら嘘だった。そう言うしかないとは分かっていても、献身的に世話をしてくれる彼女に対して嘘を吐くこと自体に胸が痛く、青年は声を小さく俯きながら呟く。彼女はそれをどう受け取ったか、より一層やる気を出した様子で意気込んでしまったわけなのだが。


「例えば色んな本を読んでみるとか、色んなところを散歩してみるとか! 何でもいいから脳の刺激になるようなことをした方がいいって、薬師の人が言ってたからねー」

「その、なんだ。わざわざ調べてくれていたのか?」

「いやいやそこまでじゃないよ! ただちょっと聞いただけ。記憶に関しては専門とかじゃないからって、あんまり教えてくれなかったんだけどね」


 両手の仕草で気遣いを掛けてくれる彼女に対して、青年は頭が上がらなかった。いつかは自分が助けてやらねばならないと思い直して、青年は返事をする。


「ありがとう。少し、実践してみるよ」


 本当に記憶を無くしてなど居ない身としては、実践するも何もなかったのだが。それでも本を読む量は増えた。何故か“文字が読める”ということもあって、彼女から薦められた本は大体読破していたのだ。知識がないのは一時的な記憶喪失などよりよっぽど酷いものだから。

 青年は覚えようと思った。きっと、他でもない彼女が薦めてくれるから、なのだろう。




 それから一ヶ月の月日が経った頃。

 青年は立派な村の一員となっていた。村人から見て見慣れぬ異国の装いは既に部屋の奥で畳まれてあり、農夫の姿で畑仕事を手伝うようになっている。痩身の割に力仕事も得意で物覚えがよく、頼りにされているほどだ。

 そして一ヶ月も居ると、村の内情もそれなりに分かってくることがある。


 例えば村での立ち位置。明確というほどでもないが小さな村にもルールがあって、村人にはそれぞれ順位があること。

 彼女も他の村からの移住者でその順位が低いことや、だから一軒家ではなく宿の一室を家にしていることや、青年を預かったのは半ば押しつけ気味だったということとかも分かってきた。

 勿論青年の順位は一番下だ。今は彼女の家に住んで他の人の仕事を一生懸命手伝っている身というのもあってそれが表に出ることはないが、立場が低いというのは通常時ではない場合こそ大変になるものだ。

 それこそ青年が運ばれてきたような時だとか、内乱が起こった時だとか、そういう緊急時のこと。

 面倒事は、下の人間に処理を任される。

 でも悪いことじゃない。他人を助ける余裕があるだけこの村は良い村だし、どこにだって決まりやしきたり、ルールはあるのだからこれも当たり前だ。


「今日は私が料理を作ろう。こう見えて昔――いや、あまり覚えていないけど、それなりに上手だったんだ。腕が覚えてる」

「……え?」

「君風に言えば、私もそんな顔をされても困ってしまう。宿の人には私が出入りする許可を取ってあるよ、好きな料理を言ってくれればそのように作ろう」

「で、でも仕事で疲れてない? ウチに気を遣ってくれてるなら大丈夫だよ?」

「私の料理が心配かい? 何なら隣で見ていても構わないよ」

「あっ、ち、違うんだよ? 君の料理が下手とかそういういこと言いたいんじゃなくてね! ……そうだね。じゃあ、お願いしちゃおっかな」

「何やら心の内が見えたような――」

「ほ、本当に違うから! ほらじゃあ行こ? 早く行こ? ウチが隣で見守っててあげるから!」

「……はは」


 青年はそう思っていた。

 その後の人生を変えるような、一つの事件が起こるまでは。


 思えば彼女の様子が少しずつ変化していたのも、この辺りだったのかもしれない。






「皆の者、聞け」


 この日は村の集会だった。

 青年や彼女も勿論召集され、村の全員が集められた広場で村長は中央で荘厳に立っている。重々しい雰囲気が辺りにあることで、良くないことが起こったのだろうということは青年にも理解が出来た。


「――奴らがやってくるぞ」


 村長が放った一言で、青年以外の村人全員がどよめいた。

 固唾を呑む音さえ明瞭に聞こえてくるほどの静けさが辺りを包む。

 隣で彼女は身を震わせていた。


 だが、村に来て一ヶ月ほどしか住んでいない青年には何事が起きているのかなど、分かりようもなかった。

 青年だけが取り残された中、村長の話は進んでいく。


にえを用意せよ。明日までに選定し、日の落ち切る前までに祠へ連れ行くのだ」


 ――贄?

 嫌な予感が背筋を這った。

 こういう経験は何度もあったから。

 青年は辺りを見回す。


 村人達がこちらを見ていた。期待するような目で、半ば諦めたような目で、怒ったような目で、悲しんだような目で、同情するような目で。

 色々あるが――何より、全員が諦めた顔をしていたのが特徴的だった。

 ――そしてその目は、例外すらなく彼女(丶丶)を見ていた。


 この目は、そう。他人を犠牲にすることを厭わない目で、他人に任せる時の目で、他人を――自分以外の他人である誰かを、当てにしている時の目だ。


「ごめんね。あなたにそんな責任を負わせたくはなかったのよ」

 女の人の声が走る。歳を取った老年の声で、青年がよく手伝っていた農夫の妻のものだった。

「君にしか頼めないことなんだ」

 一人が言い出すのを皮切りに、方々で声が発生する。

「悪いとは思うけれど、村の皆の為にと思って欲しい」

「どうしようもない災厄なんだ。去年は僕の妹が村の犠牲となった

から」

「他に適役はいないんだ。君が行ってくれなければ、他の誰が行っても役割は果たせない」

「納得してくれるね」

「村の総意だから――」


 ――。

 あくまでも申し訳なさそうに、村人は言う。

 いいや。本当に申し訳ないとは、思っているのだろう。

 それがなんだ。

 自分が出るわけにはいかない。何より出たくないのが目に見えている。

 あくまでも形式上の文句があっただけだ。


 村の誰にもどうすることも出来ないから、一番立場の低い誰かに押しつける。

 ――そうやって、村は身を切って形を保っているのだろう。

 いままでも、そしてこれからも。


 そして。

 彼女はその整った顔を蒼白にして、震えた様子で青年を見てきた。縋るような顔をしていたが――諦めと一緒に、覚悟を背負った面持ちがそこにあった。

 青年は悟る。ここまで状況が進んでしまうまで青年が何も知らされなかったのは、彼女がそれを意図的に隠していたからであろう。

 彼女は知っていたはずだ。どこの時点からかは分からないけれど、自分が村の――生け贄となることを。


 何が良い村だ。

 決して悪い村――じゃない。

 けれど、そう決めつけることで現状から逃げていたのは――青年自身でもあった。そうやって悪しき風習を、見て見ぬ振りをしていたのは、誰だ。


「村長。提案があります」


 それが村では当然のことだったのだとしても。

 青年は、守らない。

 村のやり方には従っても、心まで村に染まるつもりなど毛頭なかった。


「――若者よ。なんだ」

「私が贄となりましょう」


 その提案に、辺りはざわめきを起こした。何より一番に驚いていたのは――彼女。

「なっ、何言ってんの!」

 目を大きくして叫んだ彼女は、青年の肩を掴んで激しく問う。それはそうだろう。自らが死ぬと言っているようなものなのだから。

 この村に於いて一番格下の青年に全てを押し付けなかった彼女であれば――そう、思うだろう。


 しかしこの時ばかりは青年は無視を決め込み、村長へ視線をやり続けた。


「どうでしょうか?」

「駄目だ。お前は何も知らんかもしれんが、贄となれるのは若く美しい娘だけ。誰でもよいと言うのであれば、お前を選んでいただろうが――」

「では私()贄として差し出しましょう」

「――何?」


 村長は眉をしかめた。

 青年が何を言っているのかが分からないのだ。


「どうあっても彼女は連れて行かれるのならば、私も一緒に連れて頂きたい」

「――駄目だ。お前は女ではない、そんなものを差し出して神が激怒すればどう責任を取るつもりだ」

「私の全身を縛り、動けなくして下さい。必要とあらば全身の骨を折っても構わない。男と女の区別を付かなくすれば私だけで済むというのならば、そうして欲しい。それだけの覚悟は出来ています。どうか」

「――」


 村長は黙る。それまで騒然としていた村人達も、青年の言葉に口を閉ざす。

「ねぇ、何言ってるの、駄目だよ。ウチだけが行けば済む話だから」

「――君は黙っていてくれ。何一つ私に話さなかったことは、それなりに怒っている。事前に分かっていたのならば対策は打てた」

 彼女を黙らせ、青年は肩を掴んでいた腕を払う。あくまでも優しく、だが青年の言葉に少なからずショックの受けた彼女の手を解くには――十分。

 一歩前に出て、村長へ向かう。


「――分かった、了承しよう。だが、そこの娘も一緒だ。お前は贄として何の意味も成さない。ただ無駄に死ぬだけ、分かっておるな?」

「勿論です。ありがとうございます」


 村の人は知っている。

 青年が記憶を失っているということを。そうして村に住みつき、彼女の世話になっていることを。

 そんな青年がここまで言って頷いてくれるだけでも――十分だった。


 取り乱して癇癪でも起こそうものならどうなっていたかは分からないが、あくまでも青年は冷静に告げたのだから。誰もが、彼女と添い遂げるものだと思うだろう。

 何せ青年にはそれまでの――記憶がないはずなのだから。少なくとも青年以外の全員はそう認識し、疑いの余地もないほどに青年もその役を演じていたのだから。

 せめてもの慈悲はあった。

 ――なら、後は。


「明日、それまで逃がさないように隔離せよ」


 それから、二人は村の外れに造られていた地下室へと運ばれた。光すら射さない淀んだ空気、交代で見張りが部屋の前に立つような、そんな部屋。

 宣告された贄が逃げ出さないためだけに造られたものだろう。

 真っ暗な室内に青年と彼女が放られる。


 堅牢な石造りの壁。鉄製の扉に石をくり貫いただけの小窓。まるで囚人を捕まえておく牢屋のようだ。

 舌を噛んでしまわぬように、頭を打ち付けて死なないように、二人は全身を拘束されて口に布をあてがわれていた。

 真っ暗闇。二人の姿など欠片も見えようもない。しかし一夜を寝て過ごすだけならば十分だ。


「――」


 きつく噛まされた布のせいで喋ることが出来なかったが、青年は生の最後の語らいをするつもりなど無い。

 彼女には言いたいことが沢山あったのだとしても、青年にはなかった。

 ――何故なら、そこで死ぬつもりも死なせるつもりもなかったのだから。

 今度は、青年が彼女を助ける番だ。

 そして、今は伝えることが出来ないが、きっと明日――本当のことを、伝えよう。


 彼女のむせび泣く悲しげな声だけが、狭い室内をただただ巡っていた。





 次に地下室から出された時、外は雨が降っていた。空は灰色に濁り、雨が大地を濡らしている。何時間もの間を地下牢に閉じこめられていたのかといった感覚は青年には分からなかったが、きっと夕方なのだろうと推測した。

 全身を拘束されたままの二人は口枷さえ解いて貰えはせず、木と布で造られた担架に乗せられて運ばれていく。

 村長が祠と言っていた場所に連れられるのだ。村の中でも力仕事に秀でている者が四人選ばれ、一人を運ぶのに二人掛かりで担架を持ち上げる。

 しばらく揺られ、山に入り山道を登ること数十分。

 青年が少し首を傾けて前方を見やると、石造りの祠がそこにはあった。石柱が幾つも立てられた、その中央にある無骨な石の洞窟だ。

 その内部最奥の場所にて、二人は降ろされた。


 四人の村人達は松明を祭壇の壁に括り付け、祭壇の中央には拘束した二人を隣同士に寝かせて担架を一纏めに片付け、深々と頭を下げてから足早に去っていく。

 ――悪しき風習だ。生け贄など、したところで意味があるかどうか。


 足音が無くなる。ほの寒さと雨の臭い、洞窟の湿気た空気が辺りを包み込む。

 呻き声一つが何度も木霊するような静かな洞窟。燃え続ける松明の火を眺めながら、青年は顔を歪めた。

 殴られて気絶させられたり、言葉通り全身の骨を折られたりしなかったのは幸いか。余計な体力を使わずに済むのだから。


「――燃やせ(丶丶丶)――」


 本当に小さな声だった。

 声になるかならないかの小さな音。それが洞窟に木霊した瞬間、青年の全身から松明の火と同種の火が現れる。それは青年を縛り上げる布と縄だけを丁寧に焼き切り、そこで自然に鎮火した。


「――ふぅ……衰えていなくて、良かったよ」


 むくりと起き上がり、彼女へ視線をやる。

「――っ」

 彼女は驚いた様子で青年を見つめていた。

 声にならない声でこちらを見る彼女の目元は、昨夜さんざんに泣いていたおかげで腫れ上がっている。松明の火で照らされるその瞳と少しだけ視線を交わし合い、青年は一つ息を吐いた。


燃やせ(丶丶丶)


 たったそれだけの言葉。

 青年が吐いたその言葉に呼応するかのように――赤い赤い火が、彼女の布と縄だけを焼く。数瞬で焼き切って、先ほどと同じように火は消滅する。

 彼女は赤く腫らした目を丸くして、何度も瞬きをし――ゆっくりと、起き上がった。


「ど、どうしたの……? これは、今のは――何?」


 それまでの絶望に満ちた顔が上塗りされ、驚きで満たされていた。そこに怯えと恐怖心がないことに安堵して――青年は言葉を返す。


「どうもしないさ。どうも、していない。とにかく、もう誰もいない。私も君も、これで贄ではなくなった」


 ――青年が今使用したのは他でもない、魔法であった。魔力と呼ばれる力を身体の内から変化させ、現象へと昇華する能力。これまで青年が過ごしてきた世界では常識で――ここでは誰も知らない、それが魔法だ。

 青年が此処へと飛ばされたのは、本人にも分かっていない。


 しかし。

 それまで青年が魔法使いとして過去の世界で活躍していた身であったが故に、分かっていることがあった。

 魔法とは“破壊”を呼ぶものであること。使えば使うほど、争いを呼ぶ。破滅を誘い込む。

 ――そこに例外はなく、必ず争いが起きるのだ。どのような災厄になって降り掛かるものかは決まっておらず、だが必ずどこかで返ってくる。

 ねじ曲げた事象。起こり得ない現象。結果の改竄。

 それらがもたらす現実への回帰、修正、帰結。

 そういった現象である以上はそれを認めるしかないが――故に。


 青年は、此処では魔法を使っていなかった。

 そんな状況など来るはずがなかったから。魔法の存在しない世界でそれこそ魔法のような魔法など、使うべき時は来ない。


 ――だが、青年は一つの可能性を考えてはいなかったのだ。

 自らが魔法使いであるが故に、魔法を使わねばならなくなる運命を。

 そして、魔法を使えば魔法が破壊を呼ぶことを。その連鎖は青年が魔法使いである限り、どのようなカタチになっても降り掛かるのだということを――青年は考えていなかった。

 そして、使ってしまった。


 この時の青年は、帰結する未来のことまで予想をしていなかった。想像していなかった。

 ――そこまで魔法に絶望しては、いなかったのだ。







「――じゃあ、その、君は」

「そう。私は記憶を失ってなんかいないし、倒れていたのも行き倒れというわけじゃない。失望したかい、幻滅したかい。そのことはここで謝るよ。そして、もう――二度と、会うこともなくなるだろう」


 青年はここで、自らの話を彼女に聞かせていた。包み隠していたことなど何もない。青年はこの世界に住まう人ではなく、またどこか別の場所から現れたイレギュラーだった。

 ぽつりぽつりと始めた話も、進むにつれて躊躇もなくなり、とうとう最後まで話してしまった。

 日没はまだなのか、村長の言っていた奴ら(丶丶)はまだ現れない。


 魔法など人の身に余る所行だ。

 魔法使いであれた時代に感じなかったことも、この生活を続けて身に沁みて思うのだ。それは再確認、と言うべきか。

 火は火種があって初めて人の手で起こせるもので、それには火起こしの道具が必要だ。決して言葉一つで起こせるようなものじゃない。

 そんなのは化け物だ。人間じゃない。

 向こうではどうだったか知らなくても、この世界では化け物なのだ。


 それに、彼女にはずっと嘘を吐いていた。記憶喪失の病人であったから家に住まわせて貰っていただけの身なのに、それすら嘘だったとは。

 人の甘さに付け込んで、青年は嘘を吐き続けていたのだ。

 いつか償わなければならないと思って、今こうして魔法を使い、彼女を助けて――彼女に魔法を見られた。

 青年は彼女を好いている。でも彼女は――全てを話した以上、もう、少なくとも今までと同じ関係ではいられない。

 これが魔法を使った結果なのだろう――青年は、彼女との関係を破壊したのだ。


 もっとやりようはあったのかもしれない。もう少し考えればもっといい方法があったのかもしれない。

 それでも青年がこの方法を選んで自分でやったのだから――それで後悔など、なかった。

 だから別れを。


「そっか――良かった。本当に、良かったよ」


 告げようとして、青年は言葉に詰まる。


「……なん、だって?」

「記憶、失くしてないんでしょ。それがないってことは何も知らないってことで、今まで過ごしてきた楽しかった日々も辛かった日々も悲しかった日々も悔しかった日々も全て覚えていないだなんて、それって多分、寂しいことだなって思ってたから」

「――君は」

「何より、怖いだろうなって思ってた。でも忘れてないなら、良かった」

「私のことが――」

「怖くないよ。恐ろしくなんてない。ずっと一緒に居たから知ってるもんね、ウチは。君が誰より優しいのかは、ウチも知ってるよ。さっきのこともずっと話さないでいたのは、ウチのことを考えてくれてたからでしょ? ――ありがとう。こんなところまで助けにきてくれて……ありがとう」


 別れを告げて、彼女を逃がすつもりでいたのに。

 それで終わりだった。助けられて助けて、終わるはずだった。

 のに、気が付けば。青年は抱き締められていた。


「私はずっと君に嘘を吐いていたんだ」

「それは、ウチも一緒。君の心配ばかりして、自分のことは話さなかったから」

「それとこれとは、訳が違うだろう――」

「違わないよ。だって、本当のことなんて何にも話してないんだから。ウチね、戦災孤児ってやつなんだよ」


 青年の背に腕を回し、強く抱き締めながら、彼女は滔々と語り出す。戦の一言で青年は眉間を寄せて、今は黙って彼女の話を聞くことにした。


「元々はおっきな町に住んでて、こことは遠い所でのうのうと生きていたんだ。でも戦争が始まって、お父さんが戦争に行って――帰ってこなかった」

 戦争――。恐らく青年が思うところの戦いとは全く違うのだろうけど、壮絶なものであるのは確かだった。

「悲しんでる暇はなくてね。今度は町が襲われて、いっぱい人が死んだ。お母さんはウチに手紙を渡して、この宛名の人を訪ねなさいってウチを裏手から逃がしてくれた……聞いて、る?」

「聞いてる」

「――うん。それで、手紙と一緒に渡された地図を持って、ウチはその人の家を訪ねた。今思えばあの時お母さんが言った『後から追い掛ける』ってのは、ウチを行かせるための言葉だったんだって気付いたんだけど……それで。その家の人は、優しかったよ」

「すまない、野暮なことを聞くけど……無事に辿り付けたのか」


 戦争中に子供が一人で彷徨くなど――途中で敵兵に見つかって、どうなるかは目に見えているのに。


「うん。多分、もう少し遅れてたら死んでた。お母さんは多分、私のために――ううん。話、続けるね」

「……悪かった。それ以上は聞かない」

「……うん。でも、その人の家もいきなりやってきた人を養うだけのお金なんて、なかったんだよ。少しはあったのかもしれないけど、ウチにも分かるくらい生活が苦しくなってきて……しばらくしてウチは、その人からまた別の人へと連れられる形になった。その人とウチのお父さんが懇意にしていたからって、お金持ちの家に」


 そこから先は、言われずとも想像が出来てしまうものだった。

 金持ちの人には拒否され、また別の人の元へと渡される。きっと懇意にしていたこともあって最低限の役割だけは果たしたのだろう。

 けれど両親の死んだ後、子供を育てるメリットがないから誰かに回した。その人もまた、誰かに回した。

 要するに、たらい回しだ。誰も受け入れたくないから、また別の誰かに回す。その繰り返し。

 それこそ母親が手紙を書いた人だけが、面倒を見てくれた。しかしその人が次に紹介する人もそうだとは限らない。表だけが良かったかもしれない。

 ――そうやって、彼女は最終的にこの村に落ち着いた。


「だからウチは流れ者で、あの部屋だけがウチの部屋だったんだ。おかしいとは思ったでしょ」

「……いや、宿屋の娘かと最初は思っていたけど」

 彼女は青年から離れ、向き合う形になって初めて笑顔を見せる。

 膿が取れたかのような、すっきりした顔で。

「違う違う、空き部屋をくれただけ。でも、それでも村は歓迎してくれたから。皆、優しい人だったから。優しい理由は――ちゃんとあったんだけどね」


 それが一定の周期で行われる、贄の儀式。

 確かに、言われてみればおかしかった。どうして青年と同じくらいの年の彼女が、一人で小さな宿を住まいにしていたのか。

 最初から、気付いてやるべきだったのだ。

 自分に精一杯で――そこまで、思考が回っていなかった。


「そ。誰も何も言わなかったけどね。だから引き取られたんじゃないかな。ウチはね、ちょっと疲れてたんだ。本当はもっと前に気付いていたし、それで逃げようと思っていたんだけど――止めた。どうせここで逃げてもろくでもない死に方するんだろうしって、そこで考えるのを止めて。多分、疲れてた。生きるのに。お父さんとお母さんには悪いけど……ね」

 ――だから。

「この村で精一杯生きて、それで終わり! ウチはここで幸せな人生を送りましたー……で、いいかなって思ってた。だって、そうしている内は幸せだから。例え終わりが化け物の生け贄なんだとしても、いいかなって思った。これからずっと辛い思いをするよりも、これまでが楽しいって思える方がよかったからね。――そんな時、君が現れた」

「……ああ、そういうこと、なのか」

「そういうことなんだよ。ウチは――君と一緒に過ごして、本当に凄く幸せだったんだ。だから、怖くなっちゃったの。死ぬのが」


 ――そんな時だ。

 ずしりと重い足音が入り口から聞こえたのは。

 連続的に続くそれは、青年と彼女の前まで続いてやっと止まる。


 二人は動かなかった。

 青年は彼女を見つめたまま、彼女は青年を見つめたまま。


「だったら――これからを私と一緒に紡ごうじゃないか。今が幸せなんだろう?」

「幸せにしてくれるの? ウチは嘘吐きなんだよ。もしもあのままウチが死んでいたら、君はどうなっていたと思う。ウチは、何も言わなかった酷い女だよ」


 青年は彼女の手を取った。

 ――化け物を前にして。

 彼女は涙を溢して、その手を握り返す。


「……ばかだよ。ウチなんかを、貰っちゃうなんて」

「そこはありがとうと言って欲しいな。でもまあ、これから化け物を退治するんだ。私は馬鹿で構わない」


 青年は優しく微笑み、彼女から手を離す。

 相対するは暗闇の化け物だ。

 ゆらめく火に照らされて映るその姿は――怪物と言って差し支えない姿形をしている。あくまで二足のその化け物は、巨大な頭部を垂らしてこちらを眺める。生え揃った牙は凶暴に尖り、数十本も乱雑に生えた腕が不気味さを漂わせる。

 ――少なくとも捧げられた贄を喰いに現れる知能はあって、今青年と彼女を喰い散らかそうとしている、そんな化け物。


 彼女を助けると決めたその日から、恐らくはそういう運命にあったのかもしれない。

 ――だったら、何でもしてやろう。魔法が破壊の力であるのは変わりない。それが我が身に降り掛かるというのであれば――青年は、その破壊に立ち向かうために魔法はかいを使う。


壊せ(丶丶)


 それが何であろうと――破壊する。

 それが、魔法使いの本分だ。

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