四十六話 生と死
――時。
――霧に覆われた樹海。
暗い霧は全てを包むよう広がって、小さな世界を呑み込んでいる。
足下には夥しいほどの血液が流れ、妙な静けさが広がっている。
「なんだい――それは――」
ごぼり、と。目の前の男が血を吐いた。胸部からは赤い染みを衣類にまで作り、地面にぼたぼたと血溜まりを残していく。
右手はこちらに向けられたまま、微動だにしない。その手の先――俺の身体が、鋭い裂傷を受けていた。コートの上から無惨にも切り刻まれ、骨まで露出した右腕が生温い風に晒されている。
激痛以上に――痺れと嫌な寒気を感じていた。
構えていた銃は力を失った俺の手から離れる。血と混ざった土にその身を落とし、硬質な音を響かせて銃は転がった。
俺にそれを取る余裕は今の所はない。
しかし、十分だった。
心臓に風穴を開けられたヲレスは俺へ問い掛けようとして、更に大量の血を口から吐き出して咳込む。
口元を片手で押さえヲレスは俺を睨み付けていた。予想だにしなかったからか、憎しみと痛みの両方に顔が歪んでいる。
銃撃と魔法。
それぞれがお互いの命を削り取っていた。
「お前には教えてないからな」
流石にこの傷は冗談では済まされなかった。
腕の筋繊維が切り刻まれ、骨まで亀裂が入ってしまっている。それだけならよかったものの、全身も同じようにヲレスの魔法で裂傷を負っていた。ただ庇うように立ち回った右腕が一番悲惨だというだけで。
少し前に負った腹部の刺し傷も相当に重い傷だ。今も血が流れ、俺の自由を奪っている。
このままでは、もうじき死ぬ。どうにか逃げ延び、適切な処置を行わなければいけない。
傷口から感染症を引き起こせば終わりだ。たとえば破傷風なんかに掛かってしまえば、今の俺にはどうすることもできないだろう。
「ガハ――ッ――ぐ、全く美しくないものを――」
「心臓を一撃だ。それでも立っているお前を賞賛してやりたいところだが」
「――舐めて貰っては――――困る」
そう言うと同時、ヲレスの傷口に緑色の光が纏う。
治癒――いや、医術。詠唱等の呪文の一切を必要としないヲレスの魔法は、言葉を封じても関係無しに発動する。
しかし、目の前で無防備な姿を晒して治療とはな。
瞬間的に全身へ力を入れ、俺は左手に隠していたナイフをヲレスに投擲する。この傷で俺が動くとは思っていなかったらのか、避けようとする行動を越えて刃が喉元へと突き刺さった。
「がぁハッ……――クソ、がぁ……」
「クソは、こっちの台詞だ」
即座に右手で喉元の刃を抜き、声にならない声を上げて俺へ威嚇してくる。その穴の空いた喉元にも淡い光が収束していた。回復魔法――実に厄介だ。手持ちのナイフは温存したい、近接は無理だ。
最後の力を振り絞って、俺は踵を返す。
ヲレスに止めを刺す余力は俺にはない――正確にはなくはないのだが、それは本当に“俺が全ての選択肢を失った時”だけだ。
一度やってしまえば俺が今まで探し求めてきた目的が確実に失敗することを意味する。
俺がその手段を取った瞬間、この世界での全ては無に帰するのだ。
たかだがヲレス一人に使いたくはないし、使えるはずもなかった。自ら可能性を閉ざす意味がどこにある。
とはいえ死んでは一番意味がない――悠長なことを言っていられる場合でないのは確かだった。
傷口を癒す隙に逃走を。銃を左手で拾い上げつつこの場から逃走を図った。
ヲレスが重傷を負ったのが原因で霧は幾分薄れている。それでも最初と比べればの話だが、目の前と少し先の地面が見えてりゃ障害物には引っ掛からない。
――のはずだったが、俺は行く手を阻まれた。
何も見えない、しかし先に進むことはできない。障壁。結界。見えない壁に阻まれて、俺の足は止まる。
今更、考える必要はなかった。
「……美しくないと言いながら、随分と汚いやり口で追い掛け回すんだな。ヲレス。檻の中に自分と獲物を入れるのは、空を自由に飛ぶことよりは美しいとでも言うのか?」
「人に背を向けて逃げるような者にそんなことを指摘されるとは思わなかったよ。まるで分かっていたような口振りだね」
「さぁな」
俺は後ろへ振り向きつつ、そう言った。
そういやこいつも“結界を張れるんだった”な。更にこの霧じゃ、ヲレスの張った結界すらも識別することはできない。
退路は断たれた。
奴はどうあっても俺を逃がすつもりはないらしい。
「一通り傷は癒したようだな」
銃を構えて牽制する。
「僕は医者だよ。治せない傷など、ある方が問題だ」
「と強がって言われてもな」
――呼吸が乱れているぞ。
呟いて、引き金を引く。
「二度も同じ手は食らわないよ」
ヲレスが俺の銃を睨み付ける。何かしらの魔法が発動した瞬間のことだ。今度こそ心臓を貫こうとした弾丸は空中で弾かれ、あらぬ方向へ飛んでいく。
弾道に結界を張って軌道を巧く逸らしたらしい。弾丸がヲレスの横を通り抜けたとほぼ同時のタイミングで、ヲレスは身を屈めて俺へと突っ込んでくる。心臓に負わせた怪我は治り切っていないようだが、そこまで俊敏に動けるとはな。
回復力で言えばリーゼが化け物染みていたのを思い出すが、こいつも相当――大概だな。肉体がというよりかは、銃創の痕をも残さぬ治療の腕が。
まぁ、ただ狙い撃っただけの弾が二度も命中するとは思っていない。一度目は分からないからこそ対処に困るが、二度目は違う。
――アウラベッドには一撃目を躱されたこともあったが、あれは例外にして。
ヲレスほどの使い手なら一度で見極め、二度目は必ず防ぐであろう。
まさか結界を使って弾道を逸らしてくるとは思わなかったがな。
残る弾数は四発。打ち切った後に装填を行わせてくれる余裕の一切はなさそうだ。
「そいつは火魔法だな。俺が一番“視る”機会の多かった魔法だ、そんなに使い易いのか?」
「右腕が使い物にならなくなるほどの傷を受けて――悠長に問答を交わす暇など、君にはないと思うのだがね」
俺に肉迫する際、開いた右手に火炎が展開される。圧縮された魔法――燃え盛る火が集中する様は太陽を彷彿とさせるエネルギーの塊だ、あんなものが当たれば黒焦げで済むかも分からない。
「じゃあ聞いてやろう」
腕の一本はくれてやる勢いで左腕を差し出す。煌めく炎に向かって、ヲレスに向かって、俺は躊躇などしない。
「――な」
どうやらそれが想定外の行動であったのか、ヲレスは間抜けな一言を洩らしてその魔法を直撃から遠ざけようと、ほんの数ミリ腕を動かした。
少しばかりの猶予。時間にしてそれこそ一瞬かその程度のタイムラグ。だが戦いに於いて言えばそれは致命的な隙と化す。
元より当たってやるつもりはなかったが。
俺は身を捻ることで火球を避け、左手を地面に付けて軸にし回転する。続けざまに放った回し蹴りが一撃、ヲレスの膝を横から砕いた。
突撃の勢いと蹴られた衝撃で前方へと投げ出されたヲレスは俺の真上を通過して体勢を崩し、血塗れの土へと転がり込む。
「ここで、俺を狙うのは何故だ?」
――ヲレスは俺が一人になった瞬間を見計らい、背後から背中を突いた。
その目的は言わずもがな、俺そのものを研究するためだろう。当然だが、異世界からの来訪者である俺の肉体の造りは確実に此処の世界の人間のそれとは違う。
差がどれほどあるかは把握できないにせよ、人の種類が違う程度には構造は異なっているはずだ。俺が魔力を循環させる機能を持ってはいないのがその証拠。
同じヒト科、人間種、人間族であることは疑いようもない事実――だがその差は開いても種類の違う犬同士といった差でしかないだろう。
高い知能を持ち、二足歩行で歩き、独自の社会形成を持ち、高度に進化した言葉で意志疎通を行う、哺乳動物という点に違いはない。
そのため、普通の人間は外見だけで俺が余所者であることは理解しても特殊であると判別するのは難しい。しかしヲレスは人間の身体に精通する魔法使いだ。医術を極め、長らく人体を自らの手で研究してきた者なら気付くだろう――俺の身体が違うことには。
魔力を循環できずに死ぬ人間など、この世界にあってはならない存在だ。突然変異で生まれても死ぬ運命、人間の身体は普通そんな異常を起こすことはない。
永い歴史を繰り返して情報を積んできた遺伝子が、『魔力は必要なもの』だと刻み付けるからだ。
他で言えば、そう。この世界にも同じように流れている酸素を『吸うだけで死ぬ人間』などいないように。
だからこそ、俺が此処に存在しているのは端から可笑しいことになる。何故なら俺は――普通、既に生きていないから。
外側からの干渉による理由で後天的に魔力が毒となった場合は話は別になるが、俺の場合は最初からそうとしか言えない身体だった。それは体質の一言で区別していいものじゃない。
魔法を使えない人間でも――魔力は自然と身体を循環して排出されるはずだ。
俺にはそれがない。魔力を循環させる機能も、変異した結果すらも。当然だろう、そんなものはないのだから。
ないのにこうして生きている。成人を越えてなお、生存することを可能としている。なのに今更になって魔力中毒に倒れ、ヲレスの元に運ばれた。
だからこそ可笑しい。
――それこそ異世界から転移してきた者でもなければ、あり得ない現象だ。
だがヲレスがそこまで察するとは思えない。というか、そんなものを一つの推論ではなく結論にまで至るような人間など異常を通り越して異質そのもの――もしくは異世界の存在を知っている一部の例外だ。
だから俺はそれについては考えなかった。
ヲレスはそこまでこの世を知り得ていない。
それでも、俺やリーゼの反応から最近になって魔力中毒に気付いたということはヲレスも理解しているはずだ。俺が魔力中毒の対処法を知っていることに疑問を挟んできたのは、それが大半の理由を占めていることだろう。
研究対象としてはこれ以上がないほどの被検体のはずだ。
いや俺からすれば勘弁して欲しい以外の何物でもないが、ヲレスが興味を抱いてしまったのは事実。
――しかし、それでは少し噛み合わなかった。
俺を狙うために付いて来ているということは重々承知の上だったが、ここで俺を狙う理由に繋がらない。まずリスクが大き過ぎる。なのにリターンが圧倒的に少ない。
俺を捕まえて研究に没頭するよりも、俺の体調を管理するといった当初の名目で動いた方が遙かに安全で危険のないものだった。俺本人の協力も得られ、誰からも睨まれることなく公に俺の身体を調べることができる。
――解剖までは出来ないが。魔力を視る片眼鏡がある以上、何も急いでそこまでする必要はないだろう。
普通だったらな。
ヲレスは言っていた。
「最初から決まっていたことだと、お前はそう言ったな」
「――見掛けに依らずやってくれるじゃないか……少し、君の実力を見誤っていた、というべきか――ああ、ああ、そうだね。僕は君をここで捕らえる、それは決定事項だ」
「分からないな」
「狙われる側が狙う側を理解するなど、正気の沙汰ではないけれど」
「お前に正気かそうでないかを問われるのは心外だが、そうだな。間違っちゃいないさ、俺は別に正気でいるつもりはない。とっくにそんなものはない――尤もこの話には関係ないが」
俺は体勢を整えようとするヲレスに銃口を向ける。一発、放たれた弾はヲレスが横に転がることで回避された。
つまり再び体勢が崩れ、時間が稼げたということだ。どうやら傷口を治せるとは言っても、当たって無事で済むわけではないらしい。
まぁ分かっていたことだが。魔物ですら避けるような弾丸をただの人間が直撃していいはずがない。
「こうして俺に反撃される可能性を考えなかったのか? それでも俺を狙った理由は――やはり、どうしても“リーゼ”が欲しかったか」
今回、俺はヲレスの魔物についての意味ありげな発言は無視することにする。関係しないということはなかろうが――恐らく直結はしないからだ。
こいつは全ての陰謀を操る主犯などではない、そう断定するには計画性そのものがなさ過ぎる。
ヲレスはそういった人物ではない。
「――なるほど、気付いたね」
「誰だって分かる話だ。俺を人質にすれば奴は自らを棄てても俺を助けようとする。あの言動を見ていてそれに気付かないはずがない」
結界。霧。樹海。特殊な魔法で場を整え、俺一人だけを残すことで奴の舞台は完成していた。
後は俺を捕まえ、全てに気付いたリーゼを待つだけでいい……と。
あんな下らない言い訳をリーゼに吐いたのは、むしろ気付かせるためだと考えるのが無難なのだろう。
そうでなければ、リーゼはいつまでも戻ってはこない。
「人ってのはしぶとくて中々死なないが、時には案外あっさりと死ぬものだ。人の生き死にに長いこと関わっていたお前ならそれがよく分かるだろう――ヲレス」
「意味の分からないことを言わないでくれるかな。人は簡単に死ぬよ、そうでなければ医者など要らない。人がしぶとい存在であるのなら、僕は医者になどなっていないよ」
「ならば俺を殺さずに捕らえるのがどれだけ難しいか、分かるだろう」
ヲレスの魔法は確実に俺を殺すつもりで放たれた殺傷性の高い魔法であったが、その実俺を殺そうとはしていなかった。
殺すなら最初の一撃で俺の首を斬り落とせばいい。俺は一撃目に気付けなかった。何故なら俺は魔力など関知できず、その事実をヲレスは知っているから。
もっと根元的な驚異を察知して俺は動くが、流石に無詠唱かつ何の予備動作も無しに起動した魔法に対処可能なほど人外ではない。
――少なくとも、今は。
ヲレスがそれをしなかったのは、ここで殺すメリットがないからだ。
殺害した司教ですら薬品漬けにして保存しておくような奴だ、いっそ秘境と言っても差し支えない自然の奥地で俺を殺してしまえば――運ぶ間に肉体は腐る。それは致命的だろう。肉の腐った死体など、研究に使えるものか、そんなことをこいつはしない。
「それも含めてお前は俺を舐め過ぎだ――先ほど魔法を逸らしたのも、こいつも、いい証明だな」
使い物にならなくなった腕を上げ、俺は血の滴る腕へ一瞥をくれる。――ああ、こんなものか。
右腕の筋は豪快に絶たれ、二の腕に関しては肉ごと抉れて骨が露出している。見るだけで吐き気を及ぼしかねないグロテスクな光景が、自分の身に起きている。
それ自体は慣れてるの一言で片付けられるのはいいが、そんなことをしてもこの事態が良くなるわけではない。殆ど感覚も失せている腕、さて応急処置くらいは出来るのだが――この先、動くかどうか。
この場では目の前の医者にしか治療が行えないというのは、とんだお笑い草だ。その傷を付けたのがこの医者などもう皮肉にすらならない。全く。
「お前がある程度本気を出していたなら、俺が右腕を犠牲にしたところでさほど意味はなかったよ。今頃右半身ごと切り刻まれてそこの土の上にくたばっている。お前がそうしないのは第一にリーゼの人質に使うつもりだったというのはあるだろうが、まあ――二兎を追う者一兎も得ずってことだよ」
――ヲレスの右手首が、ぼとりと土の上へ落ちた。
その顔を驚きで満たしたヲレスは肉の断面へ目だけを動かして見、そこから吹き出した血液に顔を赤く染め上げる。
「……やってくれたね……やってくれたよ……知らなかった、そんなやり方もあったということだ」
そして、得心の行った顔付きで躊躇なく右手首を魔法で焼き払う。即席で止血された肉は焼け焦げ、ヲレスは憎々しげにこちらを見据える。
「何言ってる。まだ終わりじゃない」
――次は、左手首がヲレスから離れた。両手が無くなり、その間をするりと。
極細の糸が宙を伝う。
「仕込みナイフ。俺がただ小さなナイフを隠し持っているわけがないだろ……だから、魔力の有無を戦闘力に直結させて考えるお前達の思考は、嫌いじゃない。御しやすいからな」
ナイフはその通り俺が多用する暗器の一つ。
いやそれでも銃を暗器に数えるのはどうかと思うが、このナイフに限っては立派な暗器だと言える。
これは目に見えて分かる凶器と目に見えない凶器、その二つを組み合わせた護身用――とは名ばかりの暗殺用の暗器なのだから。
そのナイフは銀糸を通して俺の指先と繋げていた。それは手から離れてもナイフを遠隔で扱えるようにするためと、そのまま銀糸を使うことの二つだ。
最初の投擲の本来の目的は糸を放つため。そしてヲレスがナイフを引き抜く時、こっそりと手首に糸を絡ませた。
絡ませただけではその糸には感覚などなく、特に心臓を破壊されたり喉元を抉られる等の痛みで感覚を鈍らせている相手が気付くには、土台無理な話だ。
左腕についてはほとんど運が良かっただけに過ぎない。ヲレスが全く抵抗をしなかったのをいいことに――右手首を切り落とした時、ついでに左手首にも糸を絡めただけ。
伴う技術は高度になるため、だけというのは表現違いなのかもしれないが。
自らを極められないならば、道具に頼るのが俺の戦い方だ。特に傷だらけの現状、俺にやれることは限られる。体術など傷口を余計に広げるだけだった。
血液の滴る銀糸を手繰ってナイフを左手に構え、俺は不敵に笑ってみせた。
「左も焼くか? 医者が両手を失うってのは致命的だろ」
「こんなものは然るべき処置を行えば元通りになる。しかし気に食わないなぁ、僕が君を追い詰めていたはずなのに、いつのまにか君が僕を追い詰めた気になっているのが、特に」
「勝手に悔しがっていろ」
俺が言うか言わないかのタイミングで既に両手首を焼き払っていたヲレス、彼は落ちた手首を魔力で宙に浮かばせ、手首の無い腕で抱き寄せる。
既に霧は、晴れていた。背後の結界も消滅している。
「ふん、集中力が乱れれば結界も霧も維持が難しい。そりゃそうだろうな、霧はお前が編み出している魔法だとしても結界の方は――“覚えたて”だ」
「……いつからだ」
俺がそれを言った途端、ヲレスはこれ以上ないほどに顔を歪ませた。それまでの口調も崩して低い声で、
「いつから、そのことを知った」
「確信に至ったのはたった今、お前の反応だがな」
俺が結界に阻まれた時。触れて初めて、その性質を思い出した。それはリーゼが使っていた神触結界に酷似したものだ。
それが異常であることは何となく理解した。リーゼが能力と言っている神触結界は、魔法の類を超越した何かである。
普通は誰かに真似など出来やしない。
だが、俺の予想が正しければ、それはある条件さえ満たせば“誰にでも使える”能力である――ということ。
加えてヲレスはずっと、俺とリーゼを観察していた。そしてヲレスはリーゼが結界を張った後に、初めて自らも結界を使っていたのだ。言ってしまえばあれは試しのようなもの、出力も効果も薄れることは承知の上で、あたかも最初から扱えるかのように振る舞っていたに過ぎない。
「わざわざ理由を教える必要はねぇな。一つ言えるのは、これ以上お前がリーゼに近付いて貰っては困るというだけだ」
それは直接の意味ではなく、ヲレスが勇者の高みへと迫る意味で。
魔法の理屈が分からない俺には理解出来ない話だったが、ヲレスがそういう場所へと至ろうとしていることだけは分かった。
別に勇者の力を得ることが最終目的という意味じゃない。ヲレスが目指す場所など俺には知ったことではないのだが。
――そいつが俺の邪魔になるというのなら、黙って迎える必要がどこにある。
ヲレスは。
そんな俺の言葉を聞いて嗤う。全く面白くなさそうに、くつくつと低い声で嗤い出す。
「……いいよ、逃げなよ。いいさ、君に関しては大体見終わっている。最悪諦めてしまってもいいとさえ思っている――どのみち死ぬんだ。死ねば僕は君を回収する。腐っているなら腐っているで、どうにかすればいいだけのことさ」
「出来れば俺など殺していただろう。俺を逃がすと言いつつ――実はお前、結構ガタが来ているんじゃないのか。尻尾巻いて逃げ出したいのは俺ではなく、お前じゃないのか」
「たとえそうだとしても、それは君にも言えることだ。放置すれば君は死ぬ、早く僕から逃げ出してその手遅れな傷をどうにかしたいんじゃないのかい」
「なんだ、逃げないのか? いいんだぜ、今ここで俺を諦めて逃げれば――お前は助かる、俺は死ぬ。リーゼは俺をどうにかしてしまったお前を決して許さないだろう。お前は追ってきたリーゼをゆっくり調理すればいい」
「ああ、美しくない。全く、面倒だ」
――嗤いが止まる。
「そうか、逃げないか」
逆に俺は笑った。
「茶番は終わりにしようじゃないか。結局、どちらも目の前の人間を逃がすつもりなどないのだから」
「――それなら、仕方ない」
俺がこの場から離脱する方法は、ない。
「君は殺すには惜しい。殺してしまっては勿体ない。でなければ僕は初めからこんな面倒な真似を取らないさ」
「諦めが悪いな……ったくよ」
ヲレスを殺す方法などない。
ならば。
「――頼むぞ。誤魔化せ――畜生め」
俺の笑いは自嘲のそれ。
ヲレスは次の言葉を告げなかった――何故なら。
その場に、俺という“存在”はもういなかったからだ。
それは確実に俺では使えない技術。人ならざる力、一つ上位に存在する者のみが扱える――権能。
それを使うことは即ち俺の負けを意味していた。ヲレスにではなく、あの女神に。
――俺は人間であって、神ではない。
――それは俺がそう思って、信じ込んでいるだけ。
一度その枷を外せば、俺は人ではなくなる。そこまではしない、とはいえこれで限界だった――だから俺はヲレスを殺さない。いや殺せない。
殺せば俺の選択肢は、完璧にゼロになる。
今出来るのは、俺という存在を“この世”の全てから隠し通すことくらいだ。
ああ、いいだろう。俺は逃げるのは得意なんだ。
後はリーゼに任せるとしよう。
――そのためのリーゼだ。
アイツには俺に出来ないことが、出来るのだから。
◇
「消えた――」
ヲレスは今度こそ首を傾げていた。
魔法を使ったわけじゃない。そもそもあの男には魔力がないはずで、特殊な力を行使することは不可能なはずだった。だからこそ隠し持っていた大量の武器と体術で実力を補っていたのではないのか。
――なんだ、人という存在が完璧に目の前で消失するなど、あっていいものなのか。
隠密どころの騒ぎではなかった。
どんな魔法も人の存在を完全に消し去るまでは出来ない。どこかに転移するというのなら魔力の軌跡を追えばいいだけの話で、隠蔽や気配遮断や魔力阻害であれば、必ず魔法の痕は残る。
それがまるでなかった。
つまるところ、ヲレスはレーデが消滅する光景を捉えることができなかったのだ。
幽霊とでも言葉を交わしていた気分になって、ヲレスは舌打ちをする。
それほどまでに、レーデという人間は異質だった。探知の網をどれだけ広げようとも、レーデの気配はヲレスが見ている目の前の地点でぷつりと途切れている。
どうしようもなかった。
どうすることもできなかった。
レーデを生きたまま捕まえ、後からそれを使って勇者を捉える算段が水の泡だ。
何の為に都市から離れ、スコールを降らせ――道を塞ぎ、山賊まで誘導して馬車を破壊し、霧を放ち、レーデとそれ以外を隔離したと思っている。どれだけの労力だったと。
リーゼに“呪縛魔法”を植え付けて偽物の情報を信じ込ませるのに、どれだけの手間と確認が必要だったと思っている。
ヲレスはその場で膝を付き、魔力の消耗で限界に達した身体を休ませる。手首は後で切開し細胞を修復してから切り落とされた切断面と縫合し直せばいい。レーデに傷付けられた心臓や喉は後でゆっくり治療すれば完治する、
――だが。それまでの行動が無駄になったことに、ヲレスは憤る。苛立ちに小さく叫び、地団太を踏み――焼けた手首で髪の毛を無理矢理掻き毟るように暴れ――しばらくして、ふと冷静に返った。
「……さて。過ぎたことはしょうがないね。僕が見誤ってしまっただけのことだ。あんなものはついでに過ぎない。そう割り切ったよ」
完全に消え去ったレーデのことは断念するしかない。逃げられはしたが、あの傷では助からない。ヲレスはそういう風に加減をしたのだ。だから死体も見つからないのは残念で。
けれど、全てが無駄になったわけではない。
「勇者――謎が解けたよ、ようやく、ようやくね。これまで研究を続けてきた甲斐があった。その全てはここで披露するために培ってきたものだったんだね……ふふ、ふふふふふふ……ふふふふふふふふふふ」
ヲレスは嗤う。一人立ち上がって、奇妙に笑う。
「しかし随分と面白くもない。結局の所、アレはただの」
――“呪い”じゃあないか。
そう遺して、ヲレスは。
樹海から立ち去った。
そこに存在していないレーデが存在していることを知らずに。




