四十三話 片鱗
音がする。
戦争の音。
死の音。
叫び声と雄叫びとが混じり合い、剣戟や重々しい振動の余波が荒波となって押し寄せる。
視界は紅蓮に染まっていた。空の色すら紅く変色し、世界を覆っている。
「――――――」
出航から半日後。
赤き世界に包まれた港は、戦乱の海と化していた。
リーゼはグレイグ率いる船に乗り込み、三隻の内中央の船に陣取っていた。先頭を突き進むその海賊船の船首に立ち、いつどのタイミングで魔物が強襲を仕掛けてきてもいいように見張っている。
航路は最低でも一日は掛けるところを、魔導球の使用による短縮を行った。そのため自らの推進力を得た船は強引に海を割り、中央大陸へと向けて突き進む。
中途で散発的に襲い掛かってくる魔物は主に遠距離からの攻撃で始末し、船は難なく予定通りに中央大陸、レッドポートへと到着した。
そう、到着はしたのだ。あまりにも呆気なく、順調に。向こうからの連絡船が一隻も来ないというのに、何故そこまで円滑に事を運べたのか――。
「――ッ!」
甲板から身を乗り出したランドルは息を呑む。
レッドポートに停泊する一際巨大な海賊船、『レッドシックル号』に搭載される魔導球が起動していて、港全体を赤色に染め上げている。
魔導球の発動時間は長くはない。使うタイミングの限られているそれが展開されているということは、戦が始まってからそう時間は経っていないのだろう。
「私が先行します、皆さんは安全を第一に後から来て下さい!」
この惨状を見て、まずリーゼが真っ先に動いた。
彼女は虹色の剣を構えて船首の端から跳躍すると、天聖虹陣によって光子を身に纏うことで宙に浮き、そのままの勢いで遠く離れた船着場へと着地する。
その視界に映ったのは四足獣の魔物だ。それが群れをなし、尖った牙を口元からぎらつかせ、港に降ってきたリーゼに警戒と敵意の眼差しで睨め付ける。
だが攻撃に移ろうとした瞬間、背後より放たれた剣閃にそれら全ての胴体と首とが切り離された。
血飛沫を上げてごろりと地に転がるそれの後ろから、体格の良い男が姿を見せる。
「――リーゼちゃんじゃねぇか!」
魔物を両断してみせたのはガイラーであった。赤い剣を手に道の脇から登場した彼は、転がる魔物の死体を見下ろしてから足を止め、リーゼの名を呼ぶ。
リーゼは他の敵性反応がなくなったことを確認してから、天聖虹陣の使用を中断した。
「ガイラーさん、大丈夫ですか? 他の皆さんは?」
「俺ぁ大丈夫だ! だが港全体がヤベェ、さっき魔物の軍勢が襲ってきてな――このタイミングで来てくれたのはアレか、助けに来てくれたのか? だったらちょっと手伝ってくれると助かる」
「勿論です! 遠くに巨大な反応ありますけど、それと戦ってるのはギレントルさんですか?」
「ああそうだ、今は何とか港に入れずに抑えてっけどどうなるか分からねぇ。雑魚狩りは全部俺達でやってっから、リーゼちゃんにはそっちを頼めるか」
「はい!」
遠くの方へ意識を傾ければ、魔物の反応の中に一体だけ飛び抜けた個体が戦闘している気配がある。とてつもない魔力反応だ。ゴルダン渓谷にて戦った怪物と同等か、それより強力な魔物であることが予測される。
いくら海賊が有利となる戦場でも、この強さは相当危険なことが窺える。どれだけギレントルが強くとも、一人に任せていい敵ではない。
「……どんどん湧いて来やがんなコイツらはよ!」
会話の間にもガイラーを追い掛けてきた数体の四足獣が建物の上から飛び出し、リーゼとガイラーに襲い掛かってくる。その内一体を中空にて斬り刻み、リーゼは遙か遠くの魔物の姿を睨み据えた。
「ではこっちはお願いしました」
「おうよ!」
全身に肉体強化を施して赤く染まるガイラーはその膂力で剣を振り抜き、四足獣の胴体を斬り裂いて絶命させる。
こっちは任せておいても大丈夫だと、そう判断したリーゼは体を捻り、ギレントルが戦闘する方面へと駆け出した。
戦火に包まれる港は海賊と魔物との混戦でほとんど埋まっていた。
住民は家屋の中に待避し、身を固めて戦いが終わるのを待っている。
リーゼは疾走しながら進行を塞ぐ敵だけを斬り伏せて進み、途中で出会った海賊達に自らの助太刀を伝えながらギレントルの元へと向かっていた。
魔物の数はリオン村を襲った時よりも遙かに上回っているが、今回はこちらも海賊達という戦力が動いているためそこまでの戦力差はない。
だが魔物を生み出す核がどこにも見当たらないことから、今回は港の外から次々に入り込んでいるのだと思われる。
更には獣型の魔物に混じって何体か全身を甲殻に護られた人型の新手も現れていて、それらは次々に建物を襲っていた。纏虹神剣による斬撃だからこそ容易く魔物の防御を斬り崩すことが出来るが、その甲殻は堅く海賊達も苦戦を強いられているようだ。
海賊達では肉体と剣の双方を強化した一撃を入れても甲殻に弾かれ、浅い傷を残すばかりでどれも致命傷には至っていない。海賊三人掛かりで相手を引きつけるのが限界で、そうした現場にはリーゼが乱入して片付けた。
現在見える魔物は獣と人型の二種類。リーゼが手助けしなければ危ないと判断した戦闘にだけ介入しつつ、ようやく港の入り口方面へと辿り着く。
そこは破壊の限りを尽くされていた。石と固めた土で埋めて舗装された道には亀裂や穴が空き、倒壊した建造物に崩れた壁による瓦礫が酷い。
そんな場所で、ギレントルは傷だらけで二振りの剣を構えていた。
相対していたのは、身の毛のよだつような黒い――鳥の魔物。巨大な体躯を二枚の翼で浮かし、炎のような漆黒の魔力を展開している。
今までリーゼが見てきた魔物とは一線を画する化け物だった。
近くで見て初めて実感することがある。
強さにして渓谷の化け物の倍、いや三倍はあろうかというほどまでに到達した圧倒的強者の格だ。
燃え盛るその鳥は鋭い紅眼をリーゼに合わせ、嘴を高らかに広げ、咆哮する。
そこでギレントルがリーゼの存在に気付いた。
「――なんでこんなところにアンタがいんだい?」
「助けに来ました! 後は私がやります!」
瓦礫からギレントルの隣に降り立ち、再び天聖虹陣を発動させてリーゼはそう言った。絶対に鳥の化け物から視線を離さず、纏虹神剣の切っ先を鳥へと突き付けて威嚇する。
「……ふう、そうかい。アタシもまだまだやれるといいたいとこだが、ちょっと限界でね。すまねぇけど、お願いするよ」
あの魔物との戦闘でギレントルは酷く負傷していた。
黒く発熱する炎に身を焼かれ、肉を食らわんとする嘴や鋭く尖る爪との打ち合いで肉体は限界に達している。
強化無しでは形さえ保てないほどに刃こぼれしている赤き剣の惨状を見やれば、ギレントルがどこまで身を擦り減らして戦っていたのかも分かろうというものだ。
更には翼から撃ち出される羽根の攻撃を防ぎ切れず、ギレントルの全身は深い裂傷を幾つも負っている。かなりの量の出血のせいか四肢に上手く力が入らないようで、瓦礫の上に膝を付いて俯いてしまった。
――間一髪、か。
もしもリーゼの助けがもう少し遅れていようものなら、或いは。
「大丈夫です――私に任せて下さい」
ギレントルを守るように立ち位置を変え、鳥の魔物へ殺気を送り込んだ。虹色の光子が赤い世界を舞い、強力な力の恩恵がリーゼにやって来る。
絶大な力――だが相手も対抗するようにして、漆黒の魔力を展開していく。どうやら今までのは本気ではなかったらしく――再び甲高い鳴き声を天空に張り上げ、三尾を揺らめかせた鳥の魔物は優雅に大きく飛翔する。
口元に集約された魔力。
やろうとしているのは間違いない、ブレスだ。
「神触結界――」
即座に障壁をドーム状に展開し、ギレントルと自分を覆って余りあるだけの防御を完成させる。
魔物が撃ち放たんとされるブレスの最大火力に合わせ、それを耐え切る強度で生成した勇者の固有能力だ。リーゼはそれを感覚と経験だけで生み出し、轟音と共に放射される漆黒の光線へと備える。
――ジュウ。
鉄でも溶け出してしまいそうな音を発して、それは結界の中央へと衝突した。真正面から力と力が互いを削り合って、術式から顕現した結界を、魔力の塊を強引に強化したブレスの両方を削り合って魔素を辺りに散らしていく。
ただれだけの衝撃で暴風が沸き起こり、辺りに転がる瓦礫が吹き飛んだ。
「――強いっ……!」
一言、歯を噛み締めてリーゼは悶えた。即席とはいえ全身全霊の能力を込めて発動した神触結界を、ただのブレスが破壊しようと喰らい付いているのだ。
――いや邪悪な鬼気を発する漆黒の魔力はただのとは言い難いかもしれない。が、リーゼには関係なかった。
天聖虹陣で強化された神触結界の防壁と拮抗するというだけで、それは最早異常だったのだから。
だからリーゼは己の能力を完全に解放させた。
今までそうしなかったのは消耗が激しいのとそれを使うだけの魔物が現れていなかったからに過ぎないのだが、リーゼはその切り札とも言える能力を切った。――切らされた。
「――《天象神化》――」
もう少し事前に結界へ負担する魔力を用意してさえいれば絶対に切ることの無かった――いや、ギレントルがブレスを防ぐ結界の下に居なければ絶対に使いはしなかっただろうリーゼの最後で最終の手札。
右手に構える纏虹神剣が一際強く発光し、辺りを照らす。雷の如く纏わり付いた雷電が迸り、天空の魔物めがけてそれは思い切り振り抜かれた。
神の裁きを天より穿つ――そういった意味合いを込められた、一撃必殺。これまでの能力が戦う為の能力だとするならば、天象神化は言わばリーゼが持つ唯一の“殺すための能力”であった。
虹雷が神触結界による壁をすり抜け、斬撃の形を成して猛威を振るっていたはずのブレスを真っ二つに両断、衝突した側からブレスの形さえも取れないほど徹底的に消滅させていく。
魔物はその余りある威力に恐れを為して逃走しようと身を翻すが――もう、遅い。
如何に飛行能力が高かろうと、雷の速度で飛来する斬撃は確実に命を削り取る。
――バチィと弾け、赤い世界がほんの一瞬白く色を変化させた。
抵抗の甲斐なく身を両断された魔物は余波の雷電に身を焦がされ、瓦礫の上へと落下してくる。――ずしり、巨体が地に墜ちた。
動く様子は毛ほどもない。
「はぁっ……はぁ……っ……く……っ――」
「おい、大丈夫かい!?」
圧倒的なまでの勝利であった。リーゼが強いと口に評した鳥の魔物は黒焦げの骸と化し、命を絶って塵と消える。
しかし、その消耗は尋常ではない。胸の苦しみに訴えたリーゼはその場で倒れ、息も絶え絶えに瓦礫の端を強く握り締めて唸る。
つまるところ――それだけの威力が、ただ一度の斬撃に濃縮されていたということだった。
「大丈夫です……少し休めば、これくらいすぐに戻ります」
「っは――そんな顔して言ってくれるねぇ。アタシに本気出さなかったって理由が、今ならはっきりと分かる。助かった、肩貸しな……後はアタシが背負ってやるよ。そんくらいはさせてくれるね」
「あ、すみません……ありがとうございます」
纏虹神剣も神触結界も天聖虹陣も、虹の粒子へと変化し霧散する。全身に全く力の籠もらないリーゼを抱き起こし、ギレントルも限界に近い身体に渇を入れ、深く担ぎ上げた。
リーゼが倒れるのは無理もなかった。
戦い続けで消耗した肉体で約十日も飲まず食わず、睡眠すら取らずで樹海を捜し回り、港までノンストップで疾走した後に休まず渡航し道中の魔物と戦った末、最後に一番の大物へ全力を注ぎ込んだのだ。
むしろそれで倒れるというのは当然の帰結であろう――それで平気でいるようなら、それはもう人でも勇者でもない。
というリーゼのコンディションの事情など、たった今再会したばかりのギレントルには分かりようもなかったのだが。
「なぁ、リー……ありゃ、寝ちまってんのか? マジかいなアンタ」
声を掛けようとしたところで、すーすーと寝息が鳴らされたことに気付いてギレントルは言葉を投げ掛けるのを止めた。
「……随分と無茶させちまったね」
一人ぼやき、眠る少女の頭を一頻り撫でる。
きっとそれだけの力を先程の戦いで行使したのだ。どう軽く見積もっても人間技ではないその力――きっとその反動なのだろうと解釈し、ギレントルは一度魔物の死体へ振り返る。
肉体が再生を始めているだとか、分裂して新たな個体へ生まれ変わっているだとか、そんな奇妙なことは何一つ起こっていないようだ。
リーゼの一撃で壊滅的な死を迎えた鳥の魔物は、真っ二つに両断された上で肉体を粉砕され、それはもう完膚無きまでに死んでいた。動き出すことはないだろう。
「……ありゃ――魔晶じゃねぇの?」
その身体の中心部。
ぎらりと輝いた赤い石が砕けて砂と化した光景を目撃し、ギレントルは睨むように目を細める。
――魔晶。何度も取引をしたことのある物品で、濃い魔素の漂う秘境の奥地に生成されるのがこの魔力結晶である。
昔はよく混同されがちであったが、この魔晶と魔石は別物の存在だ。
魔石も自然から発掘される魔力石から生成されるが、魔力結晶は“莫大な魔力の塊”がそのまま固形化したもの、だ。
その自然と環境によって溜まる魔力の質は異なるが、死体から現れた魔晶の色は赤で、属性は火であることが分かる。
魔晶はそれその物自体が強力な魔力を帯びているため貴重な物とされている反面、同じく貴重ではある魔石とは違って流通数も多いのが特徴。
サイズによってどれだけの魔力が蓄積されているのかは変わるが、そのどれもが一級品であることに変わりない。
用途は魔導球などに使用する燃料補給がメインではあるが、優秀な魔法使いが然るべき手順を用いて術式を刻めばそれ自体が強力な魔法を発動する媒体にも変化するという代物だ。
術式の刻まれた魔晶は更に高値で売買されるようになり、特に一般人が教わることのない専門的な術式になればなるほど馬鹿馬鹿しい値段が付けられるという。
――そんな、魔晶。
それが魔物の肉体の中心部から砕けて出てきたということは、あの魔物の心臓部がその魔晶で構成されていたことを意味する。サイズにして拳大かそれ以上、つまりは地形を一瞬にして変質させてしまうような規模の魔力量が籠もっている。
そんな魔晶を取り込んだ魔物――。
自然に生息する魔物がたまたま魔晶を喰い、凶暴化したとは考えられない。魔晶とは人の手により掘り出されなければ、永遠に魔力を溜め続けるだけの結晶だ。
下手に触れれば魔力が暴発し、辺りを巻き込んで消滅させる。
そんなものは動物も魔物も喰いはしない。
例え喰ったのだとしても、その莫大な魔力に耐え切れずに肉体が自壊する方が先だろう。
――誰かが意図的に魔物と魔晶を融合させ、一つの個体へと変えでもしなければ。
いつもであればその考えを起こすこと自体が馬鹿らしくなるものではあるが、最近は――そういうわけにはいかなくなった。
「ちっと、危うくなってきやがったじゃねえの。こいつは後でレイドにも相談しねぇと……ったく」
ギレントルは魔物の死骸から目を離してから未だ戦いの続く港の戦場を見やり、舌打ちを鳴らした。
「後は頼んだぜ、テメェら」
眠るリーゼを抱えたまま戦えなどしないし、自分自身次の戦闘に備えるだけの体力までは残していない。だが、まだ魔導球が生み出す赤き世界は港を包んでいた。残りの展開時間は僅かであろうが、この鳥級の魔物はもういない。
残党狩りの全ては副船長へ一任すると決め、満身創痍の船長は勇者を抱えて船まで戻る。
――ギレントルもリーゼも、最後まで気付くことはなかった。
リーゼの発した虹色の力――その一部が、禍々しい灰へと、変色していたことに。




