四十話 殺し合い(後)
馬車を襲っていた蛮族の攻撃は、突然ぴたりと止んだ。
「……ほう?」
それまで魔法を展開し続けて敵の奇襲を防いでいたヲレスは、静まった周囲に目を配って片眼鏡に手を掛けた。
地面に転がった矢の数はびっしりと。回収すれば再利用出来るものも多いが、たったこれだけの人数に消費してしまった矢の数は勿体無いほどだ。
何せ消費してなお、こちらの面々を誰一人として倒せていないのだから。
「逃げ帰ったにしては薄気味悪い。僕と戦うのを諦めてもおかしくはない戦力差ではあるけれど、一度戦いを始めた蛮族が簡単に諦めるとは思えないな。僕もまだ、一撃も加えていないのだし」
それはそうだ。
ヲレスは防御を任されたのであって、攻撃を任された覚えはないのだから。やろうと思えば地形ごと破壊出来たとしても、ヲレスは積極的に動いていない。
「……終わった、わけではないのですか」
「そうだね、別に敵の気配は消えていないよ。ほら、向こうでは戦いが続いている」
ホラ、と言われても御者は何も分からないのだが。
こちらへの波状攻撃が止まったことで安心してしまっていたため、遠くで何が起きているかなど全く判別が付かない。
しかし耳を澄ませば、小さな物音が御者の耳にも入ってくる。
先に飛び出したリーゼ、或いはレーデ、その両方が激しい戦いを繰り広げているのだろう、ということは分かった。
「お、こちらに来るね。なるほどなるほど、そういうことだったのか」
ふとヲレスがそんなことを呟いた。
何が来るのか、と御者が目を凝らす。
――そこにはリーゼが双剣を構え、山賊の大群とやり合っている光景が飛び込んできた。
「あ、あれは……」
「うん、そうだね。多分彼らは、彼女の戦闘力を見誤っていたのだろうね。僕以上に」
「――え?」
「ああ違うね。見誤っていたのではなくて、知らなかったのだろう。実際に僕もこの目で見るまでは、あまり実感として理解はしていなかった」
御者は目を丸くし、リーゼが戦う光景に釘付けになっていた。
リーゼは傷だらけだった。全身に生傷を負い、赤い赤い血を吹き出し、それでも戦っている。
――それでも?
傷だらけの彼女は、度重なる傷を受けてなお全く衰えない剣技で山賊達を圧倒していた。しかもその上で、確実に倒している。最初の言通り、殺さず意識を奪って。
酷い怪我をしているというのに余裕綽々で。
まるで手加減をしているような――赤子を手玉に取るような、流麗な動きで。
「……凄い」
御者はただただ、そう呟くことしかできなかった。御者も薙刀を扱う上で相応の鍛錬を積み重ねてきた人間だ。自分がここまで力を付けたのだって、何年もの研鑽を経た技術であるというのに。
彼女は、あの少女はあの若さで、輝いている。二本の剣を自由自在に操り、弓矢を躱し剣戟を交わし、山賊が一人また一人と数を減らしていく。
正に天賦の才が見せる神の領域。自分には絶対に辿り着けない高みに、歳若い彼女は立っている。
リーゼが勇者だということを知らない御者は、鬼神の如きリーゼの攻防を見るだけで圧倒されていた。
「分かったかい。多分、彼らは気付いたんだ。僕などに構っている暇などないのだと」
あのまま少女を放置してしまえば、全滅する。そう悟ったからこそ、山賊はリーゼのみに狙いを定めた。
どんなに強かろうと所詮は孤立している相手、各個撃破すれば取るに足らない相手だと――見誤って、総勢で立ち向かった。
「その結果があれだ。まぁ僕らにとって悪い話じゃないさ。彼女が強過ぎて、山賊が一方的に打ちのめされるというだけの話でね」
レーデがリーゼを単身で向かわせたのは、必ずそうなってくれると理解していたからなのだろう。
そして当の本人は、彼女が巻き起こした混乱と自らの撒いた爆発の隙に煙のように戦場から姿を消している。
魔力反応のないレーデはそれからヲレスの認識外へと潜んでいる。音も無く亡骸となっている山賊は、レーデの殺戮によるものだということが簡単に分かる。首筋をナイフで一撃、鮮やかな手捌きだ。
これでは山賊も、漠然と数を減らしていることには気付けてもレーデの暗躍には目が向かない。
「素晴らしいね。このまま行けばこちらの勝利は確定だ。山賊は全滅するか逃げ帰るという選択肢を持つことになるだろう。が、しかし」
――事はそう、甘く単純明快には作られていない。
ヲレスはくつくつと笑う。
狂人の笑みを、前方に向ける。
「そうそう。一つ、言い忘れていた……いや、言い忘れていたというのは表現が違うな。そう、何がしっくりくるのだろう。隠していた? それもなんだか違う。この場合は隠されていたでも、違う――そう」
「何を言っているのですか……?」
「ああ、いや。気にしないで欲しい。今のは僕のただの独り言だ。そして君、早く馬車の中へと入るといい――危ないよ」
ヲレスは一方的にそう伝え、ルルと同じ客席の中へと御者を促す。
「何かが、来るのですか!?」
「うん、そうだね。後は僕に任せて、安全なところに身を隠しているのがいい」
御者も今までヲレスに守って貰っていたのだ。
その本人がそうまで言うとは、一体。
彼の言葉に頷き、御者は客席へと乗り込む。
――その直後。
黒灰の淀んだ霧が、馬車のある位置を中心として、辺りを呑み込んだ。
「……えっ?」
常に四人の陣系を作って波状攻撃を続けてくる山賊と戦っていたリーゼは、新たに陣系に組み込まれた一人を気絶させ――。
後方からやってくる黒灰に、身体ごと全てを呑み込まれた。
ちかちかと明滅する視界。淀んだ空気が辺りを包んでいて、一面灰と暗闇に覆われた世界へ変貌していた。
「これは、なんだろう……」
同時に、辺りの気配が鎮まった。今まで戦っていた山賊の人間の気配は全くしなくなり、先ほど気絶させた男の姿ですらも見えなくなっている。
というか。一寸先の視界すらも、見事に奪われていた。それまで見えていた森も煙のような空気に包まれて見えず、まるでこの世界に自分一人しかいないのではないか、という錯覚すら覚えていたところに。
――遠くで轟音が鳴った。
その方向は、間違いなく馬車のある方。リーゼは焦って振り向くが、やはりそこには何も見えない。
「……くっ」
何が起きたのか、察知できない。
いつもはこうした緊急時になればレーデからのテレパスが届いてもおかしくはないのだが、それすらもなかった。不安に駆られたリーゼは目を閉じ、両手の剣を腰に戻してから、己の感覚だけに任せて馬車の方向へと戻っていく。
途中でぐにゃりと柔らかいものを踏む感触がして、リーゼは立ち止まった。
踏んだそれを手に掴む――腕だ。血にまみれた黒い腕。引き上げると、首を斜めにぱっくりと裂かれた死体が眼前に映る。
これは、この切り口はレーデのものだった。
「レーデさん……どこにいるんですか?」
リーゼは不安げに辺りを見回した。当然これだけ視界の遮られた世界で何も見えるはずがないのだが、リーゼは死体を離し、必死で馬車へと戻る。
これは相当に危ない状況だ。唐突に変化した状況が何を指すのか分からなかったリーゼは、焦りを募らせる。
山賊がリーゼと真正面から戦い続けるのを諦め、新しい策を講じたのか。それにしては不気味で、誰も襲い掛かってこないのが不自然だ。
とにかく馬車に戻らないと。
そう駆けるリーゼに、何かがぶつかる。
「いたた……」
「ルルさん!」
ぶつかったのはルルであった。リーゼはルルの手を取って見失ってしまわないように傍に抱き上げ、状況を尋ねる。
彼女は馬車の中に居たはずだった。ヲレスに守られて一番安全な客席で待機していた彼女が、どうしてこんな場所にいるのだと。
「……そこにいるのはリーゼさんですか? 馬車が、壊されてしまいました」
「馬車が――他の皆さんは無事なんですか!?」
「いえ、壊されてしまって皆とはすぐはぐれてしまって。この霧の中ですから、あまり不用意に動かない方がいいと思っていたのですけど」
ルルはそう言い、リーゼの肩を借りながらしっかりと地面へ足を付ける。
「私が最後に見たのは、御者の方がヲレスさんと一緒に居たところまでです。レーデさんは馬車から離れてしまっていたので、霧が埋め尽くす頃にはもうどこに居るのかは分かりませんでした」
「ありがとうございます。多分、レーデさんなら大丈夫ですけど……とにかく、捜しましょう」
ルルと出会えたことで少し頭がすっきりしたリーゼは、意識を集中させる。この霧は以前に船で起きた視界妨害の魔法に酷似している。
ならば、と。
「――神触結界」
こういった場合なら遠慮なく振るう。
これは人を殺す為の力じゃなくて、人を護る為の力。
強力な結界が周囲に展開され、半透明の障壁が霧の中へと出現する。
「……っ?」
異変はリーゼに起こった。自らの展開した結界が萎縮し、霧を上塗りする前に溶けて消滅してしまう。力が相殺されたというよりかは、能力の行使そのものを拒まれたような、身体に張り付く嫌な気配。
この霧はただの霧ではないというのか。
リーゼは何度か神触結界を放ち、そのどれもが発動した直後に霧に呑まれる嫌な感触を覚え、行使を中断させる。
今展開されている結界以外全ての魔力を拒む類の霧――リーゼは危機を感じて纏虹神剣を現出させる。
「消えない……?」
現した剣は、消滅することもなく手元で力を発揮していた。そのことに少しだけ安心したリーゼだったが、どちらにせよ魔力そのものの発生を妨害する魔法が広範囲に展開されていることは確かだ。
その場合、レーデは問題ない。
危ないのは――御者と共に居るはずであるヲレス。
彼は魔法使いだ。その魔法使いが自らの魔法を阻害されるような事態に陥るなど、考え得る限りの最悪の状況だった。
「ふんっ!」
纏虹神剣を構えて空気を斬り裂くと、目の前の霧だけが取り払われる。密度の高い剣であればこの霧に消されてしまうことはなく、形を保っていることができるらしい。それならまだ捜しようはあった。
「しっかり私に掴まっていて下さい、また見失ってしまったら今度こそ見つけられるか分からないですから。大丈夫です、私が必ず皆を助けます」
他には人の気配も感じられず、新手の魔物の気配もない。
これはきっと、立ちこめる霧による弊害だ。あれだけ数の居た山賊の気配すらも全く感じ取れなくなるなど、そう考えるのが普通であろう。
リーゼはルルを引き連れ、霧の中をゆっくりと歩き始めた。
「こいつは一体……?」
俺は唐突に発生した霧に呑まれる前に離脱し、事前に遠くへと逃げていた。この中で視界を奪われるのは少々不味いからな。
発生源は馬車の方角で、恐らくヲレス達は既に霧に呑まれてしまっている。俺の居た距離がギリギリ範囲から逃れられる位置だっただけだ。
リーゼは霧を抜けたのだろうか。
(おい、リーゼ。無事か?)
リーゼにテレパスを繋げ、声を送る。だがリーゼからの返事はない。
魔石は正常に機能しているはずだが、リーゼに何かがあったのか?
「この霧じゃ中の様子は確認できんな……それにしたってこいつは奴らにとっちゃ逆効果なはずだが、リーゼを撒く為か?」
霧なんぞ撒いたところで、不利になるのは向こうのはずだ。大人数であればあるほど、霧の視界で連携が不可能になっていく。
ただでさえ俺が背後から山賊の後衛を始末していたんだ。恐慌状態に陥るのは俺達ではない。
ナイフの血振りをしつつ、一本を布で拭って懐へと隠して行動を再開する。霧の範囲を離れ、外側から一周するようにだ。
霧に呑み込まれていった山賊が外に出てくる様子は見られず、中から戦闘音はおろか物音すらも聞こえなかった。
俺は舌打ちし、観察を続ける。
後もう少し反応がなければ突入を試みようとした当たりで、霧を突き破って誰かが外に出てきた。
そいつは、薙刀を抱えていて――。
「他の奴らはどうした?」
それは御者であった。彼は全身から汗を吹き出しながら俺の方へ駆け寄って来る。途中蔦に足を絡ませて転けそうにしながらも、必死の形相で俺の元に寄り膝を付いた。
「ヲレスさんが――突然、大量の敵に! 私には逃げろと、それで」
「女性は?」
「わ、分かりません。申し訳ありません……私だけが、必死に逃げて」
「状況は理解した。貴方を責めるつもりはない」
御者が逃げてきて無事で、ヲレスが大量の敵と戦闘。ルルの所在が分からず、ヲレスと共に居るか御者のように逃げたが霧の中で迷っている可能性がある。
リーゼの位置は不明、か。
荷物を馬車の中に置いてきてしまったことが悔やまれるが、今はどうしようもできないか。
「もう少し詳細は分かるか? 例えばこの霧がどこから発生したとか、ヲレスが相手する敵の姿とかだ」
「は、はい。霧は私達の待避していた馬車から発生しました。ヲレスさんが相手していたのは大量の山賊です。ですが、確かにリーゼさんがほとんど全ての山賊を引きつけていたはずなのに……」
「リーゼも見たんだな?」
「はい、霧が起きる直前までは、確かにこの目で」
「助かる。となると、リーゼも直前までは無事だったわけだ」
もう一度テレパスを送ってみるが、やはりリーゼからの応答はない。この分だと、霧に何かしらの原因があると見ていいか。
電磁パルスのように周囲に魔力のやり取りを妨害されているのかもしれない。となるとテレパスは使えないだろう。俺が魔力を扱える人間ではないため、予測しかできないのが面倒な所だが。
魔力消費が気になることもあって、テレパスを送るのはそこまでにしておいた。
俺は少々思考し、依然その場で存在し続ける霧を眺める。
風によって流されていないため、魔法による霧であると推測される。この前海賊船を襲ったものとやり口は似ているが、あれは俺たちの認識をそのまま遮断する類の結界だった。
今回は霧として出現しており、範囲外に逃れることで霧の影響下からは抜け出せる。
「一度中に入って確かめてくる。出てこられるというのなら、侵入してもまた脱出することは可能なはずだ。貴方はここで待ち、他の三人が出てくるのを待っていて欲しい。俺もそう長くは入らない」
これがもし敵の罠だった場合を考えれば、あまり深く入って確認することは好ましくない。相手方が俺やリーゼの猛攻を防ぐ意味で使っていたのであれば、その点では効いているのだ。
「もしも山賊が一人でも出て来るのを見つけたら、隠れていてくれ。どうしようもなくなった場合は戦うしかないが、見つけたからと言ってわざわざ殺しに向かってもこちらが危ない」
「分かりました。私も力になれればよかったのですが、結局何も」
「このルートを選んだのは俺達だ。俺達がどうにかするのは、道理だろう」
直接命に関わるのはルルだけ。
行動を起こすのは彼女を見つけ出し、安全圏へと運んでからだ。この霧で中は全く窺えないが、大体の位置取りは掴んでいる。
まずは記憶と勘を頼りに、馬車付近へ移動しなければな。
俺は御者をその場の茂みに隠れさせ、再び周囲を確認して状況の変化が起きていないかを確認する。その後、霧の内部へ突入した。




