三十五話 交渉
「ですから、私は本当に何も知らないのです。邪推はおやめ下さい」
半ば土下座気味の格好で、司教は頭を下げていた。
入り組む路地裏の更に奥。誰の目にも届かない場所で、リーゼは難しい顔をして黙り込む。
何度か脅したが司教はずっとこの調子だ。うろたえた様子は変わらず、同じことを言い続けている。
本当に割る口すらもないかのように。
「じゃあ、私には何の用事で来たんですか」
「この前のお返事がそろそろ頂ける頃かと思いまして、数日前から捜していたのです」
リーゼに他人の嘘を見抜く鑑識眼はないので、このような司教の真意は掴めない。薄っぺらい台詞にどれだけの偽物が含まれているのだろう。
隠すことがないからこそ、言葉が薄く感じるのかもしれない。
「……もしや、ここで成すべきこととは、その方の治療だったのですかな?」
「違います。でも、似たようなものです」
リーゼ自身、司教の言葉の真偽が分かるまで斬ることは出来ないが、司教にレーデとのことを話すべきか迷っていた。
しかしこちらも隠し事をしていては、進む話も進まない。
仕方なく、リーゼの方から口を開くことにした。
「私はサーリャと別れてから、色々あってレーデさんと一緒に旅をしています」
「その方が、レーデという方で?」
「はい。なので私だけがあなたに付いていくことはできませんし、レーデさんは目的があってここに来ているんです。それが終わるまではここから離れることはできません」
レーデは魔法学校に入学し、呪縛魔法について調べるためにこの都市にやってきている。それを調べてどうするのかを聞いたことは一度もないが、彼の目的達成に必要な行程であるとリーゼは理解していた。
――でも、ここで動かなければ。
――サーリャに、もしものことがあれば。
リーゼでなくても、誰でも分かることがある。
死んでしまえばもう、取り返しが付かないことなど。失敗とか関係なく、誰かが死ぬというのはそういうことだった。
人が死ぬ時ほど強制的で絶対的な別れは、他にはない。
「ですが、このままでは魔物に中央大陸が占拠されてしまうやもしれないのですぞ。そこには教会の支部も、沢山――それに勇者殿の仲間も」
「でも今は、レーデさんが」
こんな状態になってしまったら、もう話すことも叶わない。とにかく今は、彼の状態を解明して病を治すことがリーゼのすることだった。
でないと、話せることも話せやしない。リーゼが進んで話したいかそうでないかは別にしても。
「ふむ、では私がこの方の病を治してみせましょう」
「――近寄らないで下さい」
「……なんと」
こちらへ歩み寄ろうとした司教に手を翳し、リーゼは一歩後ろへ下がる。
「私はあなたを信頼してません。あなたの言うことも……すみません、ほとんど信じられないです」
「何故ですか、勇者殿。私は、私共は神を信仰し勇者殿を信仰し、世の安寧を願っています。あなたの手に煩わしいことなどした覚えはありませんし、妨げになる行いなどしていません。ですからこうやって」
「そうです、あなた達は私に何もしていないじゃないですか」
司教はリーゼの言葉を聞くなり、「は……?」というような顔をしてこちらを見てくる。
言い表せない憤りが、もやもやとリーゼの頭の中で渦を巻いた。
「あなた達は私を勇者にしただけです。その後、今日に至るまで何もしなかった。今日だって、私を勇者にした時と同じことをしに来ただけなんですよね」
「そうですが、それが何か……勇者とは、そういうものでしょう?」
「……っ」
正しくそれが当然であるかのように言い放たれた司教の言葉。
それにリーゼは眉をしかめるが、リーゼの反応に気付かないどころか全く気にも留めていない様子で司教は語る。
「私は勇者を生み出すだけの者です。勇者とはそれ即ち信仰の賜。勇者殿は私にとって神にも等しい存在。私は勇者殿をずっと昔から崇拝し、信仰を続けておりました」
リーゼの中に言い知れぬ吐き気が喉を伝うのが分かった。
この司教は、教会はこう言っているのだ。
「神はおまえだ」
と。
だから勇者は人間の為に魔物を討伐するのが当然で、教会は勇者を神のように崇め信仰するのが当然で、人の為に勇者が動くのは自然の摂理のように当然だと思っている。
――それも、ほとんど盲信的に。それがこの世の全てだと言わんばかりに。
教会は勇者を利用しているのではなく、それこそが当然のことだと思っているのだ。
背筋に寒気が走るのを感じて、リーゼの眉は更に寄せられる。
自らが望んで勇者となってしまったことに、複雑な嫌悪を覚える。
「……私は、神じゃありません」
「はい、勇者殿は正しくは神ではありませぬ。ですが私の神であり、皆の救世主です」
「そうじゃなくて……」
「神は救いを下さる。ならば私共は神に信仰し、神に選ばれし勇者が現れるのを待ち、祈りを捧げることが全て」
「――とにかく!」
リーゼが声を荒げたことに司教は目を見開いて驚いた。
これ以上司教の話を聞いたところで身にならないし、意味もない。リーゼは司教の言葉を遮り、意識を失ったままのレーデの身体を強く抱き寄せる。
「私は急いでいます。今あなたと会話する時間はありませんし、返答もまだできません」
「どこへ行かれるのですか」
「見て分からないんですか、私はレーデさんを医者に連れて行くんです」
「なるほど、やはりそうでしたか……では私も付いて行きます。もう一刻の猶予もない故、私も焦っているのです。その方を医者に預けている間は、お話出来るのでしょう? もしかすると、私にも出来ることがあるかもしれませぬ」
「祈ることですか」
リーゼは皮肉のつもりで言ったが、司教は自信満々の顔で「そうですな」と頷くばかりだ。
話にもならない。
「……付いてくるだけなら、いいです」
リーゼは半ば諦めがちにそう残し、司教に背を向けて歩き出す。平然と後ろを付いてくる司教にもやもやとした気持ちを渦巻かせながら、大通りへ出た。
医者の場所はすぐに分かった。リーゼが通行人に話を聞けば、レーデの容態を見てこの都市に住まう医者の場所を教えてくれる。
道案内に沿って歩を進め、しばらく歩くこと数十分ほど。魔法で建築された白い箱型の建物に辿り着き、リーゼは中に入っていく。
勿論司教も後ろから付いてくるが、なるべく気に留めないことにしていた。
「ほう、ここが医者の居る場所なのですな。確か名をヲレスだとか言った気がします」
「……知っていたんですか?」
「一応、魔法都市には名医が居るとは聞き及んでいましたからな。私も勇者殿を捜しに来ただけですので、場所まではなんとも。勇者殿もその為にここへ来たのでしょう?」
リーゼは返答をせず奥へと進む。司教はこうして道中もずっとリーゼに話し掛けてきていた。何故この対応をして平然と会話を続けようとするのかはリーゼも些か疑問ではあるが、止まらないものは止まらない。
まるで自分が一緒に旅をするパーティであるかの振る舞いに、どこか釈然としないものを感じつつ。
「あ、すみません」
「……ん? ああ、ああ、僕に用事か。ごめんよ、考え事に集中してしまうと周りが見えなくなってしまう性分で。たった今気付いた」
清潔にされた空間の左端の方。木椅子へと座って机と向き合っている青年に声を掛けると、青年はすうっと顔を上げてまずレーデの方を眺めてきた。
「患者はそちら? いいよ、丁度手が空いているので早速見てあげよう。いや何、僕が進めていたのは単なる宿題だ、学校のね。気にするほどじゃない」
まだこちらはすみませんとしか言っていないはずなのだが。
青年は顔を上げるなり矢継ぎ早に喋り出し、片眼鏡に手を掛けくいと上げる。
レーデの顔を数秒だけ見つめて、青年は何も言わずに廊下の奥へと歩き出してしまった。その行為を黙って見ていると、ふとこちらへ振り向き首を傾げる。
「ん、なんだい。こちらへおいで、診察台に乗せてからじゃないと詳しいことは調べられないよ。見たところそう重体っていうわけじゃないけれどね」
「は、はい……」
先ほどの言葉からしてこの青年は魔法学校の生徒なのか。
そこで司教が口を挟む。
「なるほど噂通り変わったお方ですな」
リーゼはそれについても何も返さなかったが、心の中では司教に同意していた。
確かに変わった人だ。初対面の人に変だと言ってしまうのも失礼だったが、青年はどこまでも自分の世界へ入り込んでいるといった印象だった。
リーゼと司教が青年の後を追って奥の部屋へと入ると、青年は既に診察台の前に立っていた。片眼鏡を白い布で手入れしていた青年は遅れてやってくる二人に目を向けると、無言で診察台を指し示してくる。
「ここに寝かせればいいんですね」
レーデを診察台の上へ寝かせる。
台は柔らかい布で覆われており、患者が負担にならないように造られていて、レーデの身体が少しだけ診察台に沈む。
「では診察を始めようか。ああ、そうそう。ところで君達は見ない匂いがするけれど、この都市には最近来たのかな。そうだと思うのだけど、僕の噂は知っている? そちらの彼は知っていそうだけど、君はどうだろうね」
「……いえ、私は知らないです。医者、だということは聞きました」
「一見してお分かりになりますか。私の勘違いでなければ、ヲレス・クレイバーと言った名前だったような」
「あぁ、そうだろうそうだろう。ヲレスは僕だ。では問題なし」
何度か頷き、拭き終わった片眼鏡を掛けてから青年ヲレスはレーデの体勢を整え、手足を真っ直ぐにさせる。
レーデはその間、少しも動かなかった。ただ規則的に動く呼吸と鼓動が、レーデが正常に生きていることの証だ。
「さて、では見るとしよう。うむ。君達もそこに立っていて別段問題はないよ」
リーゼはヲレスの独特な雰囲気に不安を感じたが、それはすぐに解消されることとなった。彼が片眼鏡に魔力を灯して見た瞬間、リーゼは彼が一体何をしているのかを察知する。
ヲレスはリーゼがレーデの身体を看ていた時のように、それを片眼鏡を使用してやっているのだ。時々触診もしながら診察を続け、ヲレスは動きを止める。
「……ん?」
そして、こめかみに人差し指を添えてこつこつと叩き始めた。
「何か分かったんですか」
「いや何も。おかしいな、何もないからこそおかしい。そう、何もないんだ」
「……はい?」
ヲレスはこめかみに手を当てたまま、片眼鏡に送り込んでいた魔力を消し去る。
「君、根本的なことを聞いてもいいかな。この人、魔法を使えないだろう?」
「はい。使えませ……あっ……」
リーゼは普通に答えてしまい、はっと気付いて言葉を止める。彼は魔法が使えないことを基本的には隠しているのだ。
しかし既にヲレスにも司教にも聞こえてしまっているようで、ヲレスはなるほどと一つ。
「合点が行った。いや理屈は通るというだけで、確定はしていないけれども。どうも、この患者の身体に魔力が有害な物質である可能性が高いね」
「――っ!」
ヲレスがさらりと言ってのけた言葉に、リーゼは絶句してしまう。
それもそのはず。有害物質であるというのなら、リーゼが今まで掛けてきた回復魔法は、毒にしかなっていないということになる。
でも回復魔法がレーデに効いていたのは事実だ。
一体それは、どういうことなのだろうか。
「そう驚くことでもないよ。最初に僕が言った通り、重体じゃあない。でも不思議だね、彼には魔力を処理する機構が存在していないとは。これでは悪戯に魔素化した魔力が流れ続けることになる、放置していればいずれ支障も出よう」
「あの、えっと……」
「機構ってのは臓器のことじゃないよ。そう、君にも分かるように言えば、単純に彼には魔力を処理する能力がないんだね。だから蓄積した魔素が身体を巡り続け、いずれ身体を圧迫する。肉体許容量を大きく越えた魔素の固まり、それも同じ魔素が流れ続けていたんじゃ毒にもなる」
リーゼはヲレスの話を聞き、ようやく理解した。
レーデは異世界人だ。それは本人が自身でそう言っていて、今まで一緒に行動を共にしていたリーゼはレーデが決して酔狂を言っているのでないことは知っている。
そのため彼は魔法が使えない。代わりに他の人には出来ない技術を平然と使ったり魔石などを利用した魔法を行使していたが……。
だから、リーゼはもっと早くに気付くべきだったのだ。
レーデの身体に魔力が流れていることの異常さを。
「でもヲレスさん、ちょっと分からないことがあるんですけど」
「ん? ああ聞きたいことは概ね分かるよ。基本的な回復魔法の残滓がまだ魔素化に戻らずに残っているからね。きっと魔法が効いたことについて聞きたいのだろう」
今の診察でそこまで詳しいことまで調べていたらしい。ほとんど言いたいことを当てられてしまったリーゼがあたふたと言語化できないままに肯定すると、ヲレスは面白そうに笑みを引いた。
「即時的には効果を発揮するね。魔力自体が有害でも、それらによって引き起こされた魔法はそのまま効く。例えばこの患者の肋骨が回復魔法によって治癒されているけど、それは魔法によって肉体の細胞が活性化された結果だね。ただ使用された魔力は患者の体内に残る。その後に魔力が魔素へと変換された時、彼の身体に処理能力がないから有害な毒へと変わってしまう――と、これで分かったかな?」
リーゼはヲレスの説明にただただ感心するばかりだった。
一目見ただけで、過去の傷まで分かってしまう。ヲレスは本当に優秀な名医なのだ。
「この状態が長く続くと患者に負担が掛かってしまい、常に疲労状態へと陥る。何、これは誰だって起こるものだ。理論上は、どんなに処理能力の優れた魔法使いでもその魔法使いに見合わない量の魔素を流し続ければそうなってしまうだろう……試しに実験してみたいところだ、いやする必要もないか、結果が目に見えている」
「ど、どうすれば治るんですか?」
「簡単だよ、身体に溜まった魔素を抜けばいい。でも残念だけど、彼の身体が何故魔素を処理出来ないのか僕には分からないので現時点では場当たり的な対処しか行えないよ。彼専用の道具を造るにしても、そうだね。どれだけ時間を取ればいいものやら」
ヲレスは悩んで、一通り悩んだ素振りをしてリーゼと司教へ目配せをする。
「とりあえず、施術を開始しよう。どちらか魔力の欲しい方はいるかな。なければ僕が貰おう」
「えっ、魔力ですか?」
「その方に蓄積している魔素を移すのですかな?」
「移すという言い方は不適合だ。僕が施術をする際には患者個人の持つ魔力を一旦取り除いてから施術をし易くするのだけれど、今回はそれをするだけでいいんだ。しかし取り除いた魔力……今回の場合は魔素だね。その魔素を返却する場所がないから、それを受け持つ人が必要なだけで、移す行為とは程遠い。それで、どうする?」
「じゃあ私が貰っていいですか」
リーゼは手を挙げた。
「多分元は私の魔力ですし、一番馴染む……? というか、自然に入ると思います」
「うん、そうだね。そうしよう。ではこちらへ」
促されるままレーデの元へと寄ると、ヲレスは両手に魔力を集め始める。
施術はほんの少しの時間を要するだけで終了した。
「それなりに身体をやっていたはずだから、まだ目覚めるには時間があるけれど、ひとまずは大丈夫だよ。身体の調子に変化はないかな?」
「……はい、あんまり変わった気もしないです」
「それはよかった。拒絶反応を起こすことがないとも限らないからね」
にこりと微笑み、ヲレスは柏手を打った。
「よし、それじゃあ交渉の時間だ」
「へ?」
「ん、お金の話に決まっているだろう。これから何回僕の元へ通うことになるかは分からないけれど、そう。場当たり的対処ではなくしっかりと症状を克服するためには、それなりのお金というものが発生するのはごく当然の帰結だ。忘れたわけではないだろう?」
「いや、交渉と言っていましたから……」
市場でレーデが食材の値段を売りの人に交渉することはあったが、ここでもそんなことをするとはリーゼは全く思っていなかった。医者などに掛かったことはないので、高い――ということしか漠然とした知識のなかったリーゼは、微笑んだままのヲレスがそう言い出したことに驚きを感じていた。
「? ほら、いくら出せるのかな」
「……えっ」
「もしかして医者ということ以外には何にも知らなかったりするのかな。それは困ったね……でもそちらにも結構な大人の方も居るのだし、僕は問題ないと思って仕事を引き受けてはみたのだけれど」
「勇者殿、自分で払う金額を指定するのがヲレスという医者のルールですぞ」
司教がリーゼに耳打ちをしてくる。
自分が? お金を払う金額を指定?
「そう。僕の施術にいくら払えるのかを決めるのは僕ではなく君達だ。だから君達が見ることに何の問題もないと言ったんだよ」
「は、はぁ……なるほど……」
「言い換えれば、これは患者の価値だ。もしも君の指定した値段が僕の怒りを買うような値段だったら、さあどうなるだろう」
「――患者の、価値」
レーデの価値。
彼にどれだけの金を掛けられるのか、と。そうヲレスは言っているのだ。
「……えと。私、自分のお金じゃなくてその、今助けて貰ったレーデさんのお金しか持ってなくて、その……ヲレスさんが納得する金額というのは、駄目なんでしょうか」
「僕の納得する金額? 君は随分と凄いことを言うものだね。そうかそうか、君が支払う金は患者の懐からなのか。それだと確かに決めるのは難しいかもね」
これがリーゼの金であればいくら使ってもいいのだが、これはレーデがギレントルやガイラー達レッドシックルと交渉した結果生まれた大金だ。
レーデがこれからの生活費や学費に使用する、大切なお金だ。リーゼが好き勝手にどうこうしていいお金ではない。
そんな悩むリーゼの姿をしばらく見つめ、ヲレスは腕を組み――衝撃的な言葉を放ったのだった。
「僕が一生遊んで暮らせるだけの金――は、流石に誰も払えないからね。でも僕が指定するというのなら、条件はこれしか有り得ない。君達の所有する全財産、それが条件だよ。それだけの金は持ち込んでいるはずだろう?」
――全、財産?
リーゼは時が止まってしまったかのように、硬直する。
交渉の場で他人に値段を任せるなど、一体自分がどれだけ間抜けなことを言ってしまったのか――発してしまった言葉を後悔するには、もう遅かった。




