三十四話 危機迫る
魔法都市アリュミエールに到着してから、一日、二日、三日と日々を重ね、既に今日で十日目に差し掛かっていた。
リーゼは一日掛けてレーデから徹底指導された結果、昼下がりのこの時間は買い物に出掛けることを覚えている。
今日でまだ一人で買い物に出掛けるのは三回目ではあるのだが。
あれから、未だにレーデは魔法学校へ通えてはいない。様々な方法で根回しや関係者へのコンタクトを取ろうとは試みているものの、進展の方は芳しくはなかった。
それでも着実に準備は進んでいるのだが、魔法学校関連についての今までの行動をほとんど何も教えて貰っていないリーゼでは知る由もなかった。
リーゼが特別レーデから何かを言われたのはレーデが旧大陸出身にしておくということくらいで、他は生活等のことについてだけ。お陰で金銭感覚なども少しずつ理解してきたリーゼは、金貨袋を持ち歩いて都市を彷徨いている。
明確に行く宛もないので、足取りはふらふらと。
時間も制限はないので、ゆっくりと。町並みを眺めて物色し、特段理由がなければ一番安い食材を買うだけ。無ければ買わない。
たとえば売っている野菜が同じでも、品種や質や状態などの関係で値段が違うこともあり、単純に店によって付けられている値段が若干ズレていることも多々ある。
なので、急ぎの用事でさえなければその店で欲しい物を見つけた場合、一旦頭に残しておいて他の店を回り、一番割に合ったものを買う。それはレーデから教えられたことだ。
一番安いからと言って量が異常に少ない根菜を購入してきた際にレーデが短い溜め息を吐いていたので、リーゼはそのことを大切に記憶へと刻み付けている。
何故食材を買っているのかと言えば。
二人が借りている宿では値段の関係か、食事が付いていないからである。
宿では部屋を自由に使えるのと、共用の調理場や湯浴み場を一部利用できるといったものだ。貸家とそう変わらないが、形態が若干違うそうで。リーゼにはあまり意味が分からなかったが、住む場所があれば十分だったので全く文句はなかった。
毎日身体を洗うことができるなど、それだけで天国にも近い条件である。
なので食事は外部で取らねばならなず、リーゼもレーデも食事は各自が外食という形を取っている。リーゼは普段料理をしないため食材などを買い込んだ際はしばらくレーデがその場で適当な保存食や長持ちのする料理を作っていることが多い。
夜は食事を共にするが、朝昼などの時間はレーデが単独で行動してしまっているので、リーゼがすることは基本的には何もなかった。魔物が都市に襲い掛かってくるようであればまた話は別なのだが、この十日で魔物が現れたことは一度もない。
「はぁ……」
リーゼは都市の大通りをとぼとぼと歩きつつ、小さく息を吐いた。
何もしていないからといって、やらなければならないことが消えるわけでは決してない。出来ないことは出来ないことでしかないが、それらは頭の隅に残り続けている。
リーゼは、悩んでいた。
最初の数日間で教会の司教と遭遇し、そこで伝えられた内容についてだ。
あれから司教がリーゼに干渉してくることはなかったが、リーゼはそのことを未だレーデに話していない。機会がないのもあるけれど、積極的に話そうとはリーゼも思っていなかったのが主な原因だ。
勿論、リーゼがサーリャを助けに行きたい旨などもレーデが知ることはない。
もしかしたら中央大陸の現状については聞きつけてはいるのかもしれないが、例えそうだとしてもサーリャのことまで耳には入ってはこない。
何より、レーデは魔法学校へ入学するために忙しく動き回っている身だ。ここで司教と会ったことを説明し、サーリャを助けに行きたいなどと言ってしまえばどうなることか――。
それは、リーゼには分からなかった。
却下される可能性もあれば、紹介状を送ったサーリャであれば付いてきてくれる可能性もあるだろう。けれど何をどう選択したところでリーゼの話がレーデにとって邪魔になってしまうことは確かであった。
司教の言葉が偽りを孕んだ言葉でない証拠もどこにもない。そのような不確かな言葉を信じ、今順調に進んでいる物事を壊すことなど出来ようはずもなかった。
「おや、いらっしゃい。ちゃんと一人で来られるようになったんだね」
リーゼが入った店で出迎えをしたのは、野菜売りの中年男性だ。リーゼに対しての言動から察する通り、以前にレーデの指導を受けた店でもある。事情を幾つか知っているのか、男性は笑いながらそんなことを言ってきた。
「は、はい、もう大丈夫ですよ! そんな子供みたいな扱いしないでくださいよぅ……」
「ははは、私のようなおじさんからすれば君はまだまだ若いさ。出来ないことを恥じる歳じゃない」
「うう」
「お兄さんも言ってたろう? 失敗から学べばそれでいいって。若い内にどんどん失敗して世の中知っておくと、後々役に立つってことだね」
男性の言うお兄さんとはレーデのことだ。
周りから見れば普通はそう見られるもので、ガイラーのように恋人関係だと評する者はそういない。尤も、ここまで自由な二人が奴隷と主人の関係だと考える者は誰もいないのだろうが。
「今日は何をお求めに? いつもと品揃えは一緒だけど……ああそうそう、今日入ったトマトが甘くて美味しいんだけど、一つ買っていく?」
「ああいえ、特に欲しいものがあったわけではないんですが……レーデさんからは、長持ちするものをとお願いされています」
「ふむ、いいじゃないかお嬢さん。ちゃんと私の誘惑にも耐え、お兄さんに頼まれた通りの買い物が出来るなら大丈夫。他でもこうやっておすすめされることはあるけど、あまり誘惑に負けて買い込んでしまうと後が怖いからね」
「……ちょっと、試さないでください! 大丈夫ですから!」
「ははは、ごめんね。おじさん暇なもんで、ついつい世間話ができる相手がいると、ね。まあでもお財布事情は大事だよ」
リーゼは恥ずかしさを覚えつつも買い物を続ける。そこでは人参や大根やらを購入し、銅貨が三枚無くなった。宿にはまだ他にも最初の方で仕入れていた調味料、それに玉葱などの野菜は残されているので後は肉類を少し買って保冷しておけば夜に料理してくれるのだ。
リーゼも一度料理をしてみたのだが、レーデに味見をさせたところ「とても食えたもんではない」と一蹴されたため、要練習である。
あの時は辛辣な感想を述べながらも全部食べ切ってくれたのがレーデの優しさであった。
「あの、おじさん」
「ははは……自分じゃなくてお嬢ちゃんみたいな可愛い子に言われたりすると、いい加減に歳を感じてくるよ。そろそろ奥さんが欲し……いや、なんだい?」
薄くなった髪の毛を寂しそうに撫でる男性へ、リーゼは店を去り際、尋ねた。
「取り返しの付かない失敗も――大事、なんでしょうか?」
「ほお……そうだね。確かにそういう失敗も、時にはあるだろう。でも、取り返しが付かなくてもその経験は必ず身に残る。私はどんな失敗も大事だと思う。当たり前だけど、その失敗は次に生かすことが前提だけどね。こんな答えではどうだい?」
「――はい。ありがとうございます、また来ます」
手を振って店を後にする。
取り返しの付かない失敗。
野菜売りの男性は、それも大事だと言う。
けれど、リーゼはその言葉を聞いても納得し切れない部分があった。
例えば家族を殺してしまったり――。
そんな失敗は、あっていいものなのだろうか。
大事なのだろうか。そんな経験を次に生かすなど、あるのだろうか。
そもそも次なんて、どこに。一度死んでしまったものは二度と戻りはしない。
本当の意味で取り返すことなど出来はしない。
同じように。
失ってしまった心を取り返すことも、出来ない。
多分きっと、全く同じものは。
リーゼは来た道を戻り、宿へと帰る。
途中でお菓子の良い匂いが鼻腔をくすぐったが、お菓子は高いという理由で立ち寄ることはなかった。
「あれ、レーデ……さん?」
帰ってきてすぐ、リーゼは違和感を覚えた。
麻袋に入れられた野菜類を入り口の横に置いたリーゼは、そこに居るレーデの元へと歩み寄る。
レーデはベッドで仰向けに寝ていた。疲れ切った様子で目を閉じ、上着はベッドの下に投げ捨てられるように乱雑に置かれている。
今はまだ陽も十分に出ているというのに、レーデが寝ていることなど今までは一度もなかった。
リーゼの記憶では、レーデはリーゼより数分前に外出してから行動は共にしていない。
ということはリーゼが食材を買って戻ってくる間に戻ってきて就寝に入ったということになるのだが、リーゼはいまいち納得しかねていた。
レーデにしては、色々と雑にしている部分があったためだ。
常日頃がさつなガイラーであれば或いはやるのかもしれないが、レーデが衣類を畳まずに放り投げるなど有り得ない。更には毛布の上に寝転がっており、ベッドに飛び込んですぐ眠りに入ってしまったかのような有様だ。
「レーデさーん……?」
仮眠、なのだろうか。
しかし今日は始まったばかりだ。前日やその前と同じように出ていったレーデがすぐに宿へと帰って眠る理由が思い付かず、リーゼは困惑する。
この短時間に何かが起きてしまったのだろうか。
とにかく今はそっとしておこう。リーゼは腰の武装を解き、起きてから改めて聞いてみようと麻袋の中身を整理するのだった。
レーデが起きたのはそれからすぐのことだった。非常に鈍い動作で起き上がってきたレーデは足だけをベッドから出すと、床に付けて上半身を起こす。流れるように上着を取ろうとして――それが脱ぎ捨てた位置にないことに首を傾げ、そこで初めてリーゼの存在にも気が付いた。
「あ、畳んで机の上に置いておきましたよ」
「ん……そうか。ありがとう」
お礼を言ったレーデが立ち上がろうとし、一瞬足下をふらつかせたのがリーゼの目に入る。幸い倒れることはなかったが、レーデは疲れた様子で机に手を起き、虚ろな瞳で上着を取り上げている。
どう見ても正常な人の動きではなかった。
確かにここ数日、レーデがそうした行動を取ったことは何度かあった。リーゼはただ疲れているのだと思って本人から何か言われない限りは触れなかったが――今回ばかりは、黙っていられる程度の状態ではない。
「身体、どうかしたんですか」
危なげな動作をするレーデはこちらを振り返ると、「まぁそうなるだろうな」と一言発した。
レーデ自身、リーゼが不安に感じていたのは察していたのだろう。左手で右肩を揉みほぐしながら、レーデは普通に答えてくれた。
「最近、調子が悪い。作業に身が入らないどころか、こうして起きているので精一杯だ。この世界特有の病かとも思ったが……どうやらそうではないらしい。一通り本でも調べたが、似たような症状は確認できなかった」
「……っ。それ大丈夫じゃないですよ、すぐ横になって下さい。私が看てみます」
「お前に分かるのか?」
「……いえ、でも。回復魔法を掛けてあげることならできますから」
「分かった。頼む」
再びベッドへ横になったレーデを、リーゼは見る。
リーゼは勇者であって医者ではないため、専門的な知識などは持ち合わせていない。
だが今まで一人で生きていた時、自分の身は自分で守るのが全てだった。体調不良や病気に掛かった際は自分で原因を究明し、治さなければならなかったのだ。勇者という規格外の回復力を持っているリーゼとレーデではまったく状況が異なるだろうが、役に立つかもしれない。
リーゼは目に魔力を集中させ、レーデの身体の内部までを視認する。
――が、特に異常は見られない。
流行病ならリーゼにもとっくに感染しているはずなので、自分が掛かってから気付くこともできる。
レーデの言う通り、その部類の病には掛かっていない。発疹もなく、臓器が異常動作を起こしている様子も見られない。肋骨の方は完治しており、かといって他に外傷は見当たらない。
血色も悪くない。
寄生虫や虫の毒にやられたわけではなさそうだ。
レーデに流れる微力な魔力も、正常に巡っている。
「とりあえず一度回復魔法を全身に掛けますから、じっとしていて下さい」
「何か分かったか?」
「いえ……すみません」
「お前が気に病むことではないさ」
力を抜いたレーデを淡く緑に発光する魔力が包み、細胞の一つ一つに働き掛け活性化させる。主に外傷に対しての処置だが、代謝が高まれば身体の重さも少しは解消するはずだ。
「辛かったらいつでも言って下さい、これくらいならいつでもできますから」
「助かる」
「……あの。これより酷くなるようなら、医者に掛かった方が――」
そこまで言って、リーゼは口ごもる。
医者は莫大な金が掛かることは、リーゼも知っている。症状から調べて病を治すまで、一体どれほど掛かってしまうのだろう。サーリャの村で発生した病はそれ自体はどこにでも発生しうる流行病であったが、果たしてレーデの病は?
原因不明の病を治すには、一体どれほどの金が掛かってしまうのか。
だからレーデも自分で本などを読み漁って調べていたに違いない。巨大な都市だからこそ医者はいるだろうけど、レーデはそんなこと誰に言われずとも知っているはずなのだから。
「……金の心配はある。が、俺が動けなくなっては本末転倒だからな。考えてはいる」
「私、ここでも頑張って稼ぎます!」
「止めておけ。真面目に働いても何年も掛かるか分からん……まあこれで少し楽になった。俺はまた外に出てくる。今日は付いてきてもいいぞ」
「え、ほんとですか?」
「ああ。今から向かう先は俺だけで行く必要もないからな」
幾分マシになったと言ってレーデは立ち上がる。もう今すぐに出掛けるつもりなのか、上着を手に取った。
「もう少し休んでからでは……?」
「いや、いくら休んでも体調は一向に良くならん。少し、気になることがあるんだ。そいつを調べるだけ調べたら――」
そこでレーデは口を閉ざす。
次の言葉はなかった。
「レーデさん!」
突然意識を失ったレーデが力を失い、リーゼに向かって倒れてくる。それを受け止めてレーデを見ると、既に意識を失っていた。
鼓動は正常、身体に異常が見られない。なのに、どうして。
レーデを担いだリーゼは一言謝ってからレーデの鞄へ手を突っ込み、中から金貨袋をあるだけ引ったくる。レーデが持っている袋の分を考えたら、これでほとんど全財産。一瞬迷ってその一つを鞄の中に返し、後の全てを持ってリーゼは部屋を飛び出す。
迷っている時間も渋っている時間もない。
リーゼはそれまで悩んでいたしがらみや悩みなども全部忘れ、レーデを担いで都市を走った。
この前やった大陸を横断するのと比べればその程度は訳ないこと。
突然の出来事だ。リーゼにも全く原因が分からなかった。
早く医者へ見せないと、レーデは手遅れになってしまう――。
そうなってしまえば。取り返しなんて付かないことは分かっていたから。
だが焦りからか、リーゼは失念していた。
自分が数日前、一体誰に会ったのかを。その人物は一体何者かで、どのような組織に入っているのかを。
一度だけ会ったその人物。今日まで干渉してこなかったその人物が、まさかここに現れようとは――。
「おや、勇者殿。お急ぎでどうされましたか?」
頭からすっぽりと抜けてしまっていた。
リーゼは眼前に立ちはだかるようにして現れたその人物に、目を丸くして思わず走っていた足を止めてしまう。
特別な者のみが着用を許される白聖骸の法衣をこれでもかと風になびかせ、初老の人物は汚い笑みを広げてリーゼの行く先を阻害する。
「まさか、あなたが――?」
リーゼの中で、一つの考えが纏まっていく。
レーデの症状は、もしや。最初からこのことを知っていて、レーデがこうなるまで黙っていたのか――。
「私が? 何でしょう。それより、私も勇者殿を捜していたのですが……その男の方はどうされたのですか?」
リーゼは司教を殺意の籠もった目で睨み付ける。
今、得物は腰に付けてはいない。
だから、やるならこうするしかない。
レーデを担いでいない方の右手に、虹色の光が収束する。周囲に風を生み出しながら現れたその剣は、纏虹神剣による神の加護の産物。
それを見た司教は目を見開き、何事かといった瞳でリーゼを諫めようとしてくる。
「勇者殿、どうしたのですかな? こちらに魔物は居りませんぞ? 私が何をしたというのでしょう? その剣を収め下さい、何も無理にとは言っておりません、まずは話し合うことから始めるべきです。誤解があるなら、それを解かねばなりませぬ」
「あなたが、レーデさんを――」
しかしそんな戯言はリーゼには聞こえない。リーゼはなるべくレーデに負担を掛けないようにしてから剣を司教へと突き付ける。
「――こんな目に遭わせたんですね……絶対に、許しません。例えあなたを殺して私の加護が無くなるというなら、それでいい。ここで、あなたを」
「……は……? お、お待ちを! 勇者殿は何かを勘違いしている! 私は何も――ひいぃっ!」
リーゼの剣が司教の首元、寸前に迫る。まだ触れてもいないというのに首から一筋の血が流れ、恐怖の声がリーゼに浴びせられた。
少しでもずらせば首が撥ね飛ぶ威力を持った、その剣。虹色の光子が怒りを暴発させるように撒き散らされ、司教の顔を蒼白で埋める。
危機迫る様相で、リーゼは司教へと詰め寄った。
「レーデさんに一体何をしたのか教えて下さい。でなければ、今すぐその首を断ちます」
「――否! 私は何もやっておりませぬ! 勇者殿、何があったというのですか? 担いでおられる男のことであれば、私は無関係だと述べましょう!」
周囲から人が集まり出した。次第に増えてゆく人々に、容赦なくリーゼと司教のやりとりが見られている。
些かこの状況はまずいのではないか。そう判断したリーゼは、大人しく剣を霧散させる。あろうがなかろうが、司教ではリーゼに対抗する手段など何一つとして持っていない。
その場にへたりこんだ司教の胸ぐらを掴み、強引にこちらへ引き寄せる。
「……本当に、あなたじゃないんですか」
「違いますとも! そも、私はその男を今初めて知ったのですぞ!」
周囲の目があるから誤魔化しているのか――。
ならばと司教の耳元へ、リーゼは小さく呟く。
「だったら、誰もいないところに来てくれますよね。そこで話をします」
返答を聞かずに法衣ごと無理矢理引っ張り立ち上がらせる。
リーゼはそのまま司教を引っ張り上げ、通行人の目線を避けるようにして一番近くの路地裏へと逃げ込んだ。




