三十二話 思惑
リーゼは一人、宿の部屋にて壁に背中を預けてぼうっとしていた。
魔法都市アリュミエールの宿を取ってから早二日、その昼でのことである。
「レーデさん、まだしばらく忙しいのかな……」
リーゼはベッドに腰を落ち着けたまま、手に持っている金貨袋を握っていた。
レーデが「少し単独で動くから宿で待っていてくれ」と残して出て行ってしまってから、ずっとこうである。
リーゼも彼が何の為に一人で都市を調べるのか分かっていたために素直に送り出したが、内心は付いて行きたい気持ちでいっぱいであった。
だがそうしなかったのは、彼がそういった場面で動く際に自分が要ると邪魔だと思ったからである。
「お腹減った」
腹がぎゅるりと音を立てても、リーゼはそこから動かない。
今リーゼが持っている金貨袋はレーデから当面の生活費として渡されたものであったが、しかしリーゼはそれを使うことをあまり良しとはしていなかったからだ。
――という理由は動かない内の半分で、後の半分は一人でこの金貨をどれだけ使っていいか分からなかったからである。
当面というのはどの程度を指すのか、何日分なのか、一回の食事でどれだけ消費してもいいものか、などがさっぱりだったからだ。
リーゼは戦うこと以外は取り柄のない常識の欠けた少女である。
幼い頃に生活といった生活を送っていなかったリーゼは、勇者として魔物を倒すようになってからは更に人間らしい生活など行なっていなかった。
食べられる物なら何でも食べた。本当に何も無い時は道に生えている草を食べることもあったし、泥のように汚い水を啜ることもあった。森に生えている茸や果実を食し、動物の死体にかぶりついたこともある。流石に焼く知識はあったため、火を起こして焼いて、でも味付けもせずに生焼けの肉へそのまま噛みついた。
当然腹を壊すことも多々あって、一日中苦しむことも何日も苦しむこともあった。それでも勇者の加護があるからか、食あたりを原因とする病気で死ぬことはなかった。
当時は今とは比べられないほど野生的で、今のような小綺麗な姿を保ってはいなかったのだろう。鏡を見ることなどなかったので、どの程度まで酷かったのかは今のリーゼには推し量るべくもない。
しかしそれはサーリャと出会ってから変わった。
何故だか最初からリーゼのことを知っていたサーリャは、その内リーゼの旅に付いてくるようになったのだ。
そこでいわゆる普通の暮らしを知り、落ちている果実や木の実、や知らない植物などを食べると駄目だということを知り、様々な常識も本当に少しずつだが覚えていった。
リーゼは人間を本当の意味で知っていったのだった。
しかし生活のほぼ全てをサーリャに任せっきりにしていた為、自分で人間として生きていく感覚は未だに不透明なままだ。
それでも昔のようなことはしないけれど、サーリャやレーデが付いていてくれるなら大抵のことは出来るはずだけれど。
今は、誰もいない。
一人で何をしていいのか、リーゼは分からなかった。
魔物を倒すこと以外、身に染み付いたものは何一つとしてなかった。
勇者として在るべき振る舞い以外、リーゼは何一つとしてなかった。
「……うん」
相変わらず腹の音は鳴り続けている。しかし、我慢できないほどじゃなかった。昔の暮らしを思い出せば、数日何も食べずとも問題無く魔物と戦うことができたのだから。
ぎゅる、と腹が鳴ってリーゼは足を畳んで丸まり、その間に顔を埋める。
ここで何もせずに居れば、いつかはレーデは帰ってくる。
いつか。いつかとは、いつなのだろう。
魔法学校に入学するまでだろうか。
それとも彼が学びたいことを終えるまでだろうか。
一日に一回は宿に戻ってくるのだろうか。
それとも。既にここには、いないのだろうか――。
「………………………………いやだ」
絞り出されたのは、そんな言葉。
まだ少ししか一緒に過ごしていない関係だが、レーデは様々なことをリーゼに教えてくれた。サーリャが知らないことも平然と知っていて、彼自身のことも教えてくれた。
そして彼は生まれて初めて見た可能性で、その予想は正しかった。
故にリーゼは、まだ彼のことをほとんど知らないのだと頭の隅で理解している。
何故なら、まだ彼の“本当の名前”も知らない。
彼がどこのどの世界で生きていて、何の目的で世界を旅して世界を回っているのかも、どうしてそんな力があるのかも分からないし、どうして女神などという存在に追われているのかも知らない。
多分、誰にも教えるつもりはないのだろう。
レーデは些細な願いだとか下らないことだとか、そういった風にだけ自分の目的について話していたけれど。
その目的が達成できないと分かったら、達成してしまったら。
レーデは、彼は、ここから消えて居なくなってしまう。
そうなっては欲しくないと、リーゼは思っていた。
自分が何とかしてあげられたら、何とかしてあげたいと思っていた。その上でここに残っていて欲しいと思っていた。
教えてくれない限りは何もすることができないけど。
――抱いた感情は、勇者の振る舞いではない。
「うう、お腹減ったな……どうしよう。でもこのまま待っているだけじゃ、お金を渡してくれた意味がない。少しだけなら、大丈夫なのかな」
金貨一枚が凄まじい価値を持っていることだけは知っている。たった一枚で銀貨が十枚分もあるというだけでその価値は窺える。
サーリャやレーデが買い物をしている姿を何度も見てきたのだ、ならばその感覚で同じようにやればいい。
できるはずだ。
レーデはこれで俺がいない間の食事を取れと言って残してくれたのだ。
リーゼは腹が減っていた。昔の自分であればその程度のことは我慢を我慢とも思わずに受け入れていたのだろうが、今の自分は今ここでうずくまっている行為を我慢だと思ってしまっている。
もう昔のようにはいかない。昔に戻ってもいけない。
昔のリーゼは、勇者ではあっても人間ではなかった。
「……よし」
金貨袋を握りしめたリーゼは、覚悟を決めたような顔で立ち上がる。
右の腰にはショートソード、左腰にはレッドシックルの赤き剣。
軽鎧を身に纏ったリーゼは魔物と戦う時よりも険しい顔をして、宿の扉に手を掛けた。
都市の人通りを一人で通るのは生まれてこの方初めてであった。隣に必ず誰かが居て自分を引っ張ってくれる人が居た今までとは違い、今回は完全に一人だ。
どこへ行くのにも自分で決めて、自分の意志で歩いて自分の意志で宿に帰る。
「ええと、確かこっちだったっけ……」
この前レーデと二人で食事をした大衆食堂とやらのある道はこちらの方だった。
それにしてもレーデはその日初めて訪れた都市だというのに、よくも自分の庭のように歩き回れるものだと純粋に思う。リーゼはそんなことはできない。
何故ならここには魔物などいないから、今までは訪れる必要などなかった場所だ。
道を歩いていると、楽しそうに会話をしている婦人の二人が目に映る。当然、帯刀などしていない。
リーゼと同じ年齢かそこらの少女が、同じ年齢の男女入り交じった子達と走ってどこかへ駆けていく。
年輩の夫婦が、杖をついて歩いている。
こうして観察することが無ければ人が歩いていることすら気にも留めなかったのかもしれない。
その人達は武装しているリーゼを気にも留めず、道を曲がったり視界の果てへと消えていく。
何とも言えない気持ちになった。
よくは説明できないが、リーゼは心が空いていくような虚無感を覚えていた。
それが何処から来るものなのかは分からず、ぼうっと道に沿って歩いていく。昨日歩いた道を思い浮かべながら、露店通りの方へ歩を進める。
声を掛けられたのは、突然だった。
「お捜ししておりました、ラーグレス・リーゼさん」
「……?」
後ろから、リーゼの本名を呼ぶ男の声。振り向けば、そこには白色に金細工で装飾された、ローブ姿の人間が立っていた。その顔付きから四、五十代の初老の人物だということだけは判断できるが、それが誰かをリーゼは知らない。
否、知っている。
彼ではなく――そのローブの存在を。
であれば、初老の人物が何者かで何故リーゼの名を知っているかなど、考えるまでもなかった。
「私共と戻って頂きたいのです。その為に、お捜ししておりました。長旅苦労様です、今代勇者殿」
教会――。
そのローブは教会における司教格の人間が着用することを許される、白聖骸の法衣である。
神を信仰しその教えを他人に導く者。そして教えに基づき、魔を滅ぼす勇者の加護を与える神の代理人。
リーゼは何故、と言いたくなった。
教会は今までリーゼがどのような目に遭っても、決して姿を現すことなどなかったのに。
今更どのような面をして呼びに現れたのか。決まっていた。
口から出たのは、拒絶の言葉であった。
「私は今、忙しいです。あなたに付いていく暇はありません」
「ほう。それは、魔物に関してですかな。もしや今も魔物との激戦の準備を整えていたのですか?」
「……そうです」
それは、真実ではなくとも嘘ではない。
リーゼは今も魔物を倒す為に旅を続けている。レーデと共に旅をし、道中で魔物を討伐しているのだ。
しかし司教の男が覗かせた口元を左右に歪めて喜びを見せたのをその目に入れた時、リーゼは確かな嫌悪を感じた。
とてつもなく気味の悪い、背筋をざらついた舌で舐められるような感触。
「それは良かった。実は、その件で捜していたのですよ。勇者殿のそのお力を強化するためです。一旦教会へとお戻りになされば、更なる力で魔物を葬ることなど容易くなります。さあ」
手を引かれる。
その心地は言うまでもなく、最悪だった。
「必要ありません」
気付けば、その手をリーゼは振り払っていた。
目を丸くした司教の瞳が、リーゼを貫く。
「これ以上の力なんて、あっても欲しくないです。このままで十分戦えますし、これまでも問題なく魔物を倒してきました」
「なんと」
司教はわざとらしく驚嘆し、肩を竦めて見せる。
「それは素晴らしいことです。が、しかし……近頃妙に魔物が力を付けているという報告が相次いでいましてね、念のためです。勇者殿では太刀打ち出来なくなってしまってからでは、遅い」
「魔物が喋るってことですか? 私はその魔物とも何度も戦ってきています」
既にレーデから真相を聞かされ、リーゼは実際にその姿も名前も知っているのだ。
アウラベッドやヴァンドゥル、ズールグレイ、エトモタイアと呼ばれた三剣士や、海の上で戦った名も知らぬ魔物。
今更司教の人間から既知の情報を知らされたところで、リーゼが驚くことは少しもありはしない。
「おお……流石は勇者殿、そこまで知っていましたか」
「なので、教会に行く必要はありません」
「しかし勇者殿。万が一、ということもあります。その万が一が起きてしまった時――勇者は貴女一人しかおられないのですよ。その意味、分かるでしょう」
司教の言葉に、リーゼは歯噛みする。
リーゼは教会に良い思いなど持ってはいなかった。
それもそのはずだ。
サーリャも共通して言っている通り、教会は勇者という存在で信仰を集めているに過ぎない。その為、建前上はリーゼを敬う姿勢でいるが、その実何もしてはくれない。
過去にリーゼが文字通りに泥水を啜る生活をしていても、そのことを教会は露ほども知らないのだ。
死ぬか加護を失えば勇者が“消えてしまった”事実が教会には届くそうだが、一度勇者になった後に教会からの干渉を受けることもない。
人類を守る為だけの力を手に入れ、魔物を倒す使命を持たせた後は、教会は一切の関与をしてこない。
向こうが得をする場面以外では――。
得、それは即ち教会から“勇者”を輩出し教会の名を広めること、勇者にやって欲しいことがある場合。
だがその勇者が死んだり加護を失っても、教会は全ての責任をその勇者に押し付け事前に根回ししてあった情報を使い汚名を丸ごと排除するため、その責を被るのは勇者ただ一人になってしまう。
過去の勇者に、そんな人物が居たらしい。
自ら勇者の禁忌を破り、加護を失って魔物へと変化してしまった愚者が存在することを。
言い伝えが本当かそうでないかは、リーゼが勇者になった瞬間に知ることができた。別段聡くはないリーゼも、教会の側から勇者を切り捨てて情報操作をしていたことが簡単に分かった。
何故なら、気付いてしまったから。
勇者という存在は、ラーグレス・リーゼただ一人しか居ない。そして勇者は、この世に一人しか存在することはできないのだと。
しかし死ねば、新しい勇者を生み出すことが可能で――新しい勇者を生むことは、教会にとっていいことであるからだ。
勇者は生きている限り魔物を殺し続け、教会が良い顔をする。加護を失っても新しい勇者を生み出せば、同じことを繰り返すことが出来る上に見返りも多い。
次の勇者が生まれる期間が開けばそれだけ魔物の脅威が広まり続けるが――そうなったら、勇者は強制的に作らせることが可能だ、ということも後に分かっていた。
それでも、それを知っていても勇者という存在が生まれ続けるのは、表に存在している甘い蜜だけがどうしようもなく輝いて見えるからだ。
力を欲し、目的を欲する無垢な子供はその甘い蜜に惑わされる。強大な力を持ち、自ら魔物と戦う運命を良しとする。
魔物に大切な人を殺されていたり。或いは力を手にして大切な人を守りたかったり。
――幼い頃からそう、教育を施されていたり――。
リーゼはそのどれでもない。
無垢とはほど遠く穢れていたリーゼは、その純粋無垢さを欲した。勇者となり、人間全てを無条件に守る為に力を振るう目的を、欲した。
何故か。
それは――。
「今、ここを離れるわけにはいきません。あなたに話すほどのことでもないですけど、今ここでしかできないことを私はやっています」
――人間を、愛することができなかったから。
レーデの名を持った本当の兄が死んだその日から、リーゼは兄以外の全てを憎み羨むことしかできなかった。
だから、勇者の使命を手に入れようと自ら教会の外から乱入し、勇者に志願した。無理矢理にでも愛することの出来ない人間を守り続ければ、また歩み寄れるのだろうと信じて。
そうすれば、また昔の自分に戻れるのではないかという淡い期待を込めて。
自らをそうしなければならない状況に置けば、きっと穢れが取り戻せるのだと信じて。
なってから気付く。
誰も彼もがその使命に、囚われてしまうのだと。
「興味深いことを仰るのですな。それは新たな力を手に入れるよりも、優先すべきことなのですか?」
「そうです」
「私に話すほどのことでもないのに、ですかな?」
「はい」
その理由も根拠も言わず、リーゼは司教を緩やかに拒絶した。
何故教会が今更になってリーゼに新たな何かを吹き込まんとしているのかはリーゼの知るところではないが……リーゼが素直に教会へと付いていったとして、何が起きるのか。
新しい力を手にした時に、自分が同じ自分で居られるか全く分からない。
何より行けば、この都市に確かに存在しているレーデと離れ離れになってしまう。
それは駄目だった。
それではリーゼが奴隷商に訪れたレーデを一目見て欲した意味が、なくなってしまう。
サーリャの言葉も忘れて彼へと縋った意味が、潰えてしまう。
彼は、もしもリーゼが居なくなればそのまま一人で行動してゆくだろう。決して自らリーゼを捜すことはないのだろう。
レーデにとって、リーゼはかけがえのない者ではない。
リーゼが勇者だから一緒に居るのだ。彼はそれを戦力と言い変え、直接リーゼにそう言っている。
その言葉に嘘偽りはなかった。
彼はリーゼが見つけた最後の可能性だった。
だから名を求められた時、彼には「レーデ」という名を渡した。
その意味をレーデは知らないのだろう。
リーゼには彼しかいなかった。
彼にとってはそうではなくても、リーゼにとって彼はかけがえのない存在だったのだ。そこにどのような意味が含まれていたのだとして、揺らぐことは絶対にない。
彼は特別だった。
そしてだからこそ、多少の線引きはあっても彼の意にそぐわないことは出来ない。
それは例え彼がリーゼを奴隷として購入せず、別のきっかけで一緒に行動するようになったとしても――変わることはない。
「ふうむ、なるほど……勇者殿は今決意のある瞳をしている。信じるに値する美しい瞳だ。覚悟や信念も感じられる……しかし、底に脆さを感じさせる。違うかね」
「……はい?」
「そう、ついこの前のこと。勇者殿はお一人ではなかった――そう、聞いているのですが。確か年若い魔法使いの少女と一緒に、はてここは魔法都市ではありませんか。今は一緒におられないようですが、もしかして何か、あったのですかな」
「……いえ、そんなことは……」
無かった、というわけではない。
サーリャの問題に直面し、リーゼは一時的に奴隷となった。しかしサーリャからは様々な助言を貰い、必ず何とかしてみせると言って離れた。
そしてレーデと出会い、教会に勘付かれることなく全てが終わった。そのはずだ。
空いた期間はたったの数日でしかない。
一時期でも奴隷だったなどという情報が教会の耳に入れば、一体リーゼにどのような手段を用いて勇者の加護を剥奪させるか、それとも殺しに来るか、それは分からないが――奴隷商は、壊滅した。
逃げた者も居るが、そのような者がどうやって教会と連絡を取るというのか。仮に取ったとして、壊滅した組織の話などを聞いて誰が信じるものか。
一笑に付されるだけだ。
「おや……? もしかして、今その少女は中央大陸にいるのではないのですかな? そして貴女は、何らかの目的を持って魔法都市へとやって来た。そうでしょう? 心配することも隠すこともありません。勇者殿の苦難、私共も全身全霊で協力致しますぞ」
全然違うが、サーリャが中央大陸に居ることだけは合っていた。
何故、どこからサーリャの居場所を掴んだ。そして何故、本当に今更になってリーゼに接触してきたのか。
そうまでしてリーゼに付与させたい新たな力とは、一体何なのか。
「あなたにできることは、ありません。だから言わないんです」
「――中央大陸北東部、ゴルダン渓谷のトンネルが魔物によって完全に潰されました。このことは承知で?」
「……えっ?」
先の先を読まれていたかのような司教の言葉に、リーゼは動揺した。そこはサーリャが向かった方面だ。
一体何がと思考する間もなく、司教は全てを悟った顔付きで淡々と説明を続ける。
「そこで魔法使いの少女が戦っていたという報告を受けているのですが、それは勇者殿のお連れではないのですかな。だとしたら急がねばなりませぬ。今現時点で北の大陸から中央へと渡り、渓谷を越える手段はどこにもない。しかし勇者殿が教会へと戻り、私共と更なる力を手に入れれば、渓谷を独力で突破し少女の元へ向かうことも可能でしょう。恐らく渓谷より先は魔物によって占拠され、その少女にも危険が迫っている。逡巡している暇などありませぬぞ」
サーリャが、危ない。
司教の言葉を信じなかった場合、司教がここまで的確に情報を押さえてリーゼを捜し出してくるのは不自然で、なればそれまでの話は全て本当のことだと見るべきで。
リーゼは金貨袋を取り落としそうになって、急いで力を込めて握り締める。だがその動揺は激しく、司教に返事を返すどころか一歩も動けずに硬直してしまっていた。
サーリャは一番最初にリーゼにこの世界を教えてくれた、かけがえのない人だった。けれど、離れてしまってから心配ではあった。散々大丈夫だと本人に言われたが、その心配は心の奥底に残っていた。
それが、表へ現れてリーゼの心を蝕んでいく。
「少し、考えさせて、下さい」
「勇者殿は今よりも強大な力を求めるのが……恐ろしいかね? 何、案ずることはない。神は常に正しく清く慈しみ深く、正しき者に聖なる力を授けて下さる。私共は、然るべくして賜った慈愛をただただ享受すればよいのです」
司教の戯言など、ほとんど耳には入ってこなかった。
「考えさせて、下さい」
ただそう言って、リーゼは逃げるように踵を返す。
空腹など、とっくの昔にどこかへ消え去っていた。




