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トラベラーズ・レコード  作者: くるい
停泊の海賊船
26/91

二十五話 白銀の女神

 女神。


 その姿は前回の世――地球の本にあった天使の姿によく似た造形をしている。

 白磁のような肌に、白銀の羽根。神々しい衣に身を包んだ、透き通るような白い髪の女。

 それが――今まで俺を追い掛け続けてきていた女の姿だった。


 数ヶ月前、まだ俺は地球のどこかにある賃貸マンションに住んでいたことを思い出す。

 ……嫌に庶民的な記憶だが、そこまで悪くはなかったことだけを今は覚えている。それほどまで、昔の世界の記憶は遠く感じている。

 俺も、歳か。


 あそこには異質な存在など一つもなかった。ただ人が生き、魔法や能力のない者達は息苦しいまでに人の法に頼り、その上で働き、得られる金銭を絶対的なものとして生活していた。

 俺にはその世界に於いては存在しない者だったため、どこの国にも所属せず、無論パスポートも作らず――など。端的に言えば日陰者として生きていたため、それはそれで窮屈な生活を送っていたものだが。


 かなりの時を、俺は地球という平穏で塗り潰していた。

 地球で得られる知識はとうに十分な域まで達していたが、それなりに永い時を過ごしたのは何故だったのだろうか。そこがかつて俺の求めた平穏とは違ったとしても、かつての過去と未来を照らし合わせでもしていたのだろうか。


 人と人との関わりは非常に薄かったが、俺にはそれで十分だったのかもしれない。

 では何故、俺はこの世界でこんな魔物と対峙している――?


 ――そうだったな。

 俺がこの世界に来たのは、地球では俺の目的を達成することができないから、だったな。


「……女神?」


 紅き瞳を疑念に揺るがす魔物――アウラベッド。

 信じられないというよりかは、根本から理解の及んでいない返事は、ある意味予想通りと言えたものだった。

 俺はそれについては特に反応はせず、銃を向けたまま言葉を続ける。


「生物の一段階上の存在、と言って理解が追い付かなければそれ以上俺の口から話すことはない」

「……貴様は、何が言いたいのだ?」

「お前は先ほどイデアについて知りたいとも言っていただろ? 俺は親切心で話してやっているだけだ」


 現時点でこの魔物は今も血を流し続け、傷口を押さえたまま会話をしている。


「親切心、笑わせてくれる」

「ああ、笑え。お前が笑った分だけ、同じようにお前を利用している神に笑われているだけだ」

「ッハ――惑わされんぞ。どのような形であれ、我が貴様を捕らえて献上すればいいのだ。貴様はただ、こちらの動揺を煽るためだけに喋っているに過ぎない。そうだろう?」

「そうかもしれんな」


 俺は嘘を言ったつもりはなかったのだが。まぁ、相手がどう信じようが信じまいが俺には関係のないことだ。


 まだ攻撃をしてくる様子のないアウラベッドはさておき、俺は戦闘中のリーゼへ意識を割くことにした。

 リーゼは新手の剣士三体と地に降りて戦っており、たった一本の虹剣で剣士全員分の攻撃を捌いている。しかし動きに焦りが生じており、彼女本来の力を発揮し切れていないようだ。


 意識が散漫としているのが原因か。

 理由は……。


 俺はテレパスを起動する。


(リーゼ、目の前の敵に集中しろ。俺のことは考えなくていい)

(……っ、でも!)

(ひとまず俺の方に危険はない。どうせそこの三体を倒さなければこちらへ来ることもできないんだ)

(いざとなれば――)

(無茶をする必要はない)


 いつものようにテレパスを切断する。リーゼはそれでも気になるのか俺の方へ意識を向けてくるが、割り切ったのか目の前の敵に専念し始めた。


「それで、俺を捕まえるんだろう? 来ないのか」


 相手が死ぬ気で動けば、その傷でも俺の攻撃を躱し攻勢にも移る余裕くらいはあるだろう。

 しかし相手は必要以上に俺への警戒をしているのか、不用意に近づいては来なかった。


 魔力感知で俺の攻撃が察知できないのが理由か、それとも俺の言葉が原因か。


「……フン」


 アウラベッドは鼻で笑うと、自ら俺と距離を取った。

 俺はなおも銃を向けたまま睨んでいるが、眼前の魔物は未だ戦闘に入るそぶりも見せない。


「――神、か」


 そして、ふとそんなことを呟いてきた。

 俺は眉をひそめる。


「そのような者に追われる貴様は一体、何だというのだ」

「話す義理はない。お前の主に聞けばいいさ、教えてくれるかはともかくとしてな」

「……少なくとも貴様が神ではないことは分かった。イデアが女神だということは、今のところは納得するしかあるまい」


 ほう。

 もしや今の問答の間に俺のことを観察していたのだろうか。いや、俺の言葉選びから探ってそう考えただけの可能性もあるが……。


「しかし、貴様からは嫌な予感がする。――貴様が本当にただの人間であるのならば、イデアが世界を跨いでまで貴様を捕まえようとする筈がない。ここは一旦、退こうではないか」


 アウラベッドは自らの傷口から手を離すと、翼を大きく広げる。片手を上げると同時、黒い魔力が周囲の空間を浸食するように旋回し始めた。


「随分と勝手なことを言ってくれるじゃないか」


 自分から攻撃してきておいて自分の都合で逃げ出そうとはな。

 俺はアウラベッドの眉間に狙いを付け、トリガーに手を掛ける。


「アウラベッドよ。まさかとは思うが、俺の言葉が気になるのか?」

「我の名を、気安く呼ぶな――」


 ばさりと翼を羽ばたかせるアウラベッドに躊躇なく発砲した。しかしそれは片方の腕で打ち払われ、頭蓋を貫通すること叶わない。


「必ずや貴様を捕らえに舞い戻ろう――だが、それが今宵ではないというだけだ」


 打ち払った腕は銃弾に滅茶苦茶に荒らし回され、新たに鮮血が爪先を伝って流れ落ちている。しかしそんな傷などお構いなしに、アウラベッドは宙へと飛翔した。


「そうか。二度と来るなよ――」


 空へ逃げられてはしょうがない。

 俺は銃を降ろし、アウラベッドに聞こえるように呟いた。俺を強く睨んだ後、アウラベッドはリーゼと戦っている剣士達の元へ逃げてゆく。


「――次会った時がお前の最後だよ、アウラベッド。俺はお前という存在を、知った」


 その後の独り言は、既に遠く離れてしまったアウラベッドに聞こえてはいないだろう。

 リーゼに圧倒され押されていた三体の剣士は後続するアウラベッドの援護を受けながらリーゼを引き剥がし、遠くの空へと逃げ――姿を消していく。

 残されたのは地面にこびり付く血と、無残に散った誰とも知らぬ男の生首。


 俺は銃を懐に戻し、血の海から足を退けた。


 ほどなくして、逃げていた住民達や海賊連中なども魔物が居なくなったと理解し、喧噪と共にこちらへ戻ってくる。


 ――魔物の襲来。

 ――女神の存在。


 奴はアウラベッドという魔物を使って、俺の位置を補足し捕らえようとしていた。

 あのような魔物を、他に何体用意していることやら……。


「――大丈夫でしたか!」


 魔物に振り切られたリーゼはそれ以上の追跡を諦め、宙を移動し俺の前に着地する。彼女が纏う虹色の粒子が消え、剣も霧散した。

 リーゼも少しばかり疲労したか肩で息をしていたが、怪我などはどこにもないようだ。


 こちらも無事であることを伝えていると、海賊の一人が駆け寄ってきた。


 どうやら俺とリーゼのことは既にギレントルやガイラーから伝えられていたらしい。お陰で手早く事情を説明をすることが出来、後の収拾は彼らに任せることとなった。


「色々気になることはあるが、ひとまず危機は去った。とりあえず宿に戻る……リーゼ?」

「……レーデさん」


 リーゼは俺の顔を真正面から見つめて、酷く深刻な表情をしていた。しかしどこか迷っているようで、口を開こうとしてはその度につぐんでしまう。


「何だ」


 恐らくアウラベッドとの会話の一部を聞かれていたのだろう。だからリーゼは戸惑っているのだ。

 俺が一体“何で”あるのかを。


 どこの部分を耳に入れたかによって違ってはくるが、そもそもアウラベッドはリーゼを引き剥がし俺と一対一になった後も、最後まで攻撃せずに帰っていったのだ。本気で襲い掛かれば、とうにここに俺はいなかったかもしれないのに。

 不審にもほどがある。


「何か俺に聞きたいことがあるなら、言ってみろ」


 彼女が俺に対して悩んでいるのは、以前交わしていた会話にも関係はあるのかもしれない。

 しかし、そんな段階はとっくに越えている。ここで俺が何の説明もしなかったとして、そうなるとリーゼは俺を疑わざるを得なくなってくる。それが今じゃなかったとしても、一度抱いた疑念はその内肥大していくだろう。

 必ず。


 それに、話してやる機会としては今が丁度いいかもしれんな。


 俺が許可を下すと、リーゼは驚いたように目を瞬かせた。

 そして俺の後押しもあって、ようやく口を開いた。


 それは。


「イデアって、なんですか」


 ――俺は一瞬、顔を強張らせる。

 それはほとんど核心を突いたのと同じような、一言であった。











「俺が以前した話、覚えているか?」


 ノートから破かれた数枚の紙が机の上に広げられ、それぞれが距離をとって置かれている。一番左端に書かれた紙にはラーグレス・リーゼと書かれてあって、他の紙にはまだ何も書かれていない。


「えーっと……」

「異世界人だ」

「あっ、そうでしたね!」


 フィオーナの宿、その一室にて。

 端に設置された机の椅子に座っているのは、能天気な顔をしながら紙面を眺めている一人の少女。そしてその横でペン片手に立っている俺は――少女、リーゼの無垢な返答を聞いて若干白けていた。


「お前、本当に覚えているのか」

「勿論ですよ! レーデさんはあの空の上の星に住んでるんですよね!」

「……あぁ? まぁ、そうだな。それでいいか」


 それに近いことは確かに言っていた気がする。

 最悪異世界ってイメージが頭にあればいいのだが……。


「まず前提としてな。念頭に置いて欲しいものがある」

「はい!」

「言ってしまえば当たり前なんだが、普通の人間じゃ世界を移動することは絶対にできない。それはこの世で規格外の力を持ち、どんな魔物でも圧倒するリーゼでも同じだ。分かるな?」

「はい!」


 本当に理解しているのか?

 リーゼはにこにこしながら、夜中だというのに元気よく返事してくる。


「俺の言葉の意味を噛み砕いて自分で説明してみろ」

「つまり私はどうやってもレーデさんの世界には行けないってことですよね?」


 ああ、なんだ。分かってるじゃないか。


「そうだ。もっと言えば、“俺”と“イデア”と言う奴以外は誰も世界を移動できない。この話は後で繋がってくるから、忘れるなよ」

「へぇ……そうなんですかー……あ、はい、分かりました」

「何か気になることでもあったか?」

「いいえ、なにもないです」


 即答し、リーゼは俺から目線を机の上に戻した。

 俺はラーグレス・リーゼと書かれた紙にペンを置き、そこに新しくサーリャと書き加える。


「では説明に戻ろう。この一枚の紙、今ここのラーグレス・リーゼ、サーリャと書いた紙だ。この紙を、この世界とする」


 その紙を持ち上げ、リーゼに見せた。


「それで、他の白紙は俺が今まで通ってきた世界だとする」


 その後に他の紙を全て手に取り、最初の紙を表にして全てを重ね合わせた。


「ここで一つ質問だ。リーゼ、お前はこの一番表にあるこの紙――つまり世界から、後ろの紙へと移動することはできるか?」

「さっき言ったじゃないですか、できないって……んー、あれ? いいんですよね?」

「ああ、そうだ。合っている。お前はこの世界から別の世界へと移ることはできない。同様にサーリャも無理だ」


 また最初と同じように紙をそれぞれ机に置き直し、俺は小さな紙の切れ端を取り出した。


「うーん……難しいですね……なんか」

「悪いな、俺は説明はそう上手くはない。そもそも、その人の知らない概念を説明するっていうのはそう簡単なことではないからな。とりあえず今はそれで合っているから安心してくれ」


 この世界の住人が俺に魔法を教えるようなものだ。

 その概念が俺に存在していない以上、俺自身がこの身一つで魔法を使えるようになることは絶対にないだろう。魔石のように、道具にその概念が備わっていれば話は別だが。


「一応言葉でも説明しよう。こちらは難しいからあまり覚えておかなくてもいいが。リーゼの住む世界とまた別の世界では、位相そのものが違うんだ」

「……いそー?」

「位相だ。つまりこの紙には何らかの壁があって、その壁があるから世界を超えることはできない、という認識でいいぞ」

「うー……なんとなく、分かりましたけど。じゃあレーデさんは、その壁を超えることができるんですね?」

「まぁそういうことだ。その話も後でするから、順を追うぞ」


 正確には壁ではないのだがな。


 次に紙切れには“レーデ”と書き加え、俺はリーゼの世界の上へと置いた。


「んで、俺は今リーゼの世界にいるな」

「はい」


 その紙を紙の上から取り、白紙の世界へと置いていく。全ての紙へ同じ動作を行い、最後にリーゼの世界へと戻して手を離した。


「これが今まで俺がやってきた行為だ。俺はこのようにして世界を移動している。無論、条件はあるしここまで好き勝手なことはできないがな」

「あ、もしかして私が移動できないのはこの紙に書かれているからですか?」

「ん? ああ分かったか。そうだな、俺はこの小さな紙に書かれているから世界に縫いつけられていないんだ。だがお前は、この世界という紙に縫いつけられているから、他の世界には移れない」


 リーゼはほぉ……とか言いながら、頭を捻らせている。

 どこか抜けた頭をしているようにも見えるが、リーゼは存外飲み込みが早い。少なくとも俺の話を表面上は全面的に信じてくれているからというのもあるが、単純に頭が柔らかいんだろうな。


「俺という存在は、どこにも縫われていない」


 俺は再びレーデと書かれた紙切れを持ち上げ、今度は空中でその紙を持ったまま止める。


「壁を超える、というよりか……俺に関しては、世界の間に壁などないんだよ。俺は今この世界という紙に降りているが、一旦空中に上がればまた別の世界へと降りることができる」

「え――レーデさん、もしかして、ここからいなくなっちゃったりとかしないですよね? ね?」

「あー……おい、ちょっと待て、揺らすな、掴むな、おいリーゼ」


 何を心配したのか、リーゼは俺の脇腹を両手で掴んで思い切り前後に揺さぶってくる。いくらリーゼが細腕だと言っても加護とやらで強化された力は俺の非ではなく、はっきり言ってかなり痛い。

 何せあのギレントルと加護だけで戦い抜いた力なのだからな。


「……リーゼ。さっきも言ったと思うが、そう何度も簡単に世界を移動できるなんてことはないんだ。今の説明じゃそう聞こえてもおかしくないかもしれんがな。しばらくはここから消えるつもりはない」

「じゃ、じゃあいつかは行っちゃうんですか!?」

「さぁ――って、分かった、分かったから揺さぶるな。冗談抜きで痛ぇ!」


 俺はリーゼの手を剥がすべく手首を引っ掴む。すると、妙に大人しくなって力を抜いてくれた。


「すみません、つい……」

「そんなに嫌か?」

「嫌ですよ」


 掴まれた手首をだらりと伸ばしたまま、リーゼは涙目で俺を見つめてくる。

 信頼度が高くて結構なことだ。


「まぁ、安心しろ。俺がいなくなるとすれば、それはお前が俺を忘れた頃の話だよ」

「忘れませんから!」


 いや、俺が言いたいのはそういうことではないんだがな……。


「とにかく、そのくらい長い間は居るってことだ。俺にだって世界を移動している理由はある。此処ではその目的が達成されないと分かるまでは移動しないさ」

「うう……そうですか……分かりました」


 リーゼは何やら消沈した様子で視線を下に落とし、俺が手首を離すとその腕は力なく下へ伸びる。


「話、戻していいか?」


 あまり脱線する前に必要なことは優先的に伝えておかねばな。


 俺がそう聞くと、リーゼはがばりと顔を上げた。まだ涙は残っているが、どうやら今は新しい涙は溢れていないらしい。

 この短い間に腫らした瞼が、少しだけ赤く染まっていた。


「え、っと。レーデさんの目的って……なんですか? 達成したらまたどこかに行っちゃうんですか?」


 ……まだ訊くか。

 そんなに俺と離れるのが嫌か。むしろそこまで行くと、その理由を俺が尋ねたくなってくる。

 それに、元々リーゼは俺の目的なんぞを知りたくて話を持ち掛けたわけじゃないだろう。


「リーゼ。お前が知りたいのは、俺の目的ではなく“イデア”についてだろう? 俺とあの魔物と、イデアがどう関係しているのか――それを知りたいってことじゃないのか?」

「……そ、そうですけど」

「他人の過去は自分から詮索しない、とお前は以前言わなかったか?」

「――……っ。そう、ですね。ごめんなさい」


 リーゼは悲しそうに瞼を下げると、そう謝ってきた。

 別に謝って欲しいわけではなかったが……自分でも矛盾している、と自覚したのか。

 別にそれについてはどうでもいい。人間ってのは、どいつもこいつも端から端まで矛盾しているような生物なのだから。

 もしもそんな奴が仮にいたのだとすれば。そいつは、少なくとも人間ではない。


「俺の目的はお前が不安に思うような物騒なものじゃないさ。ほんの些細な、ささやかな願いに近い。誰かを殺して得るものでもなければ、何かを支配して達成するような類の野望とは縁遠い――俺が納得さえしてしまえばそれで終わる、たったそれだけの下らない目的なんだからな」


 達成したところで、結局のところ――意味などないのだから。


「そういうことじゃ、ないんですけどね」


 リーゼは俯いたまま、ぼそりと小さく呟いた。

 じゃあ一体どういうことなのか――それを聞こうと思ったが、リーゼは身体の向きを変えてしまった。

 自らの名前が書かれた紙を手に取って、リーゼはぼんやりとそれを眺めている。その顔は若干ばかりむくれていて、睨め付けるようにして紙面を見つめている。


「結論から言おう。“イデア”は、俺と同じ異世界からやってきた。そしてこの世界に存在する魔物に干渉し、俺を捕らえようとしている。つまり、奴らは俺の敵であり――」


 同時に。


「魔物が知能を手に入れたきっかけ、その種を撒いてしまったのは――結果的に、俺だ」


 正確には全て奴の仕業なのだがな。

 今、それをリーゼに言ったところでどうしようもない。俺が此処に来なければ、イデアがこの地で災いを生み出すことはなかった。

 それが事実だ。


 リーゼは紙面を眺めたままだったが、むくれていた表情が無へと変わっていた。

 彼女は決して俺へ一瞥をくれることはなく、小さく切り出す。


「イデアって、女神……なんですよね?」

「ああ」

「レーデさんはその女神に、何かしたんですか?」

「いや。俺は何もしていない」


 静かに切り出された口調から詰問するような口調に変わって初めて、リーゼの瞳が俺と合う。先ほどの涙で潤んでいた深い翡翠の瞳が、ゆらゆらと揺れている気がした。


「じゃあ、どうしてそんなに悲しそうな眼をしているんですか」

「……俺が、か?」


 そうか。

 俺は今、そんな顔をリーゼに見せていたか。


 眉間を右手で摘み、親指で押し上げて瞼を閉じる。


「ちょっとな。少し、昔のことを――思い出していた」


 それは、この世界に来るずっと昔のこと。

 俺が生まれ育った故郷のこと。

 俺が確かに人生を生きていた時代、その風景、景色。


 遙か遠い、俺だけの記憶。

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