02.I'm lovin'you. It's true.
恋というものがどんな気持ちをもたらすか、知っていたつもりが実はほんの側面だったのだと、この度雛菊は学んだ。
自分の胸が張り裂けんばかりに抱いた切なさや寂しさ、会いたいと募る想いなどは特に片恋の症状なのだと、振り払えない未練に自覚した時でさえ衝撃を受けたくらい、雛菊は恋愛において鈍感な面を持っている。
それが男女交際という仲に発展した場合、どうなるのか察しろと言われたら酷だろう。
(そもそも両想いなんて初めてなのにどんな顔したらいいもんなのさ)
恋愛小説や少女漫画もそれなりに読んでは来たが、かと言って実った初恋がどんなものかなど千差万別だ。既に創作物で固めていたイメージとズレが生じているから始末に負えない。
一つ、雛菊が確信したのは、恋が甘酸っぱいなんてただの都市伝説に過ぎないという事だ。
甘酸っぱいなんて生易しい。単に酸っぱいだけじゃないかと、内心ぶすくれている。
(本当に恋が甘酸っぱいならどうして私の胃はこうもキリキリするんだろう)
腹を摩り雛菊は目の前の少年を見つめ返した。
「どうしたのヒナギク、具合が悪いの? これ、煎じ薬だよ。飲み易くはしたけれど少しキツイから一気に押し流して飲んで」
「分かったから……その、手を離してくれないかな。一人で飲めるぐらいは元気なんだから」
薬の服用一つに体を寄せられ、器を持つ手を握られている状態で冷静でいられるほど男慣れしていない初心な雛菊は身を捩る。突き刺さるソノラの視線がとても痛い。同時に胃もおかしくなっている気がした。
シャナの過保護ぶりにも戸惑うが、生粋の日本人である雛菊には見慣れない翡翠色の瞳は宝石のような輝きの所為か、未だ受けた事のない圧を感じる。それが単なる被害妄想だといいなと雛菊はしくしくする腹部をまた摩った。
「どうしましたの。せっかくシャナ様が煎じてくれましたのに、早くお飲みなさいな」
「言われなくても飲むよ」
冷え切った声でソノラに促され、雛菊は器を両手に口に近付けると鼻に来る刺激臭にうっと顔を歪める。確かにこれはシャナに言われる通り、一気に押し流した方がいい代物だ。ちびちびと口に苦い良薬を長々と味わうのは得策ではない。それでもやはり躊躇うのは人としての本能だろう。
「ーーその薬、滋養強壮効果が高いものですわよね」
苦悶の表情で良薬と戦う雛菊を何処か面白そうに観察しながら、ソノラはシャナに聞く。雛菊はどうして煎じられたもので効果が分かるのか首を傾げるが、その道の者には通じる何かがあるのかもしれない。シャナは疑問の色もなく頷いた。
「ああ。今のヒナギクは力の使い過ぎで憔悴しているだけで、消化器官や内臓に問題はないからね。でも体力がないと抵抗力も弱くなるし、楽観視は出来ないだろ?」
「なるほど、あたくしてっきりシャナ様が彼女を回復させて早速致してしまうのかと勘繰ってしまいましたわ」
「ぶっ……」
脇で会話に耳を傾けていた雛菊はついはしたなくも薬を噴き出した。すかさずゾフィーが布巾でベッドに散った飛沫を拭い取り、雛菊は口元を押さえて礼を述べる。それから斜向かいで雛菊の狼狽ぶりにほくそ笑んでいる魔女を睨め付けた。
この露出狂の痴女は何を言い出すのか。そう思いながら見やるソノラは、今日も今日とて此処は何処ぞのビーチかと雛菊が言い出したくなるビキニトップにヒップ下のラインが今にも見えそうな丈のスカート。そこから覗く艶かしい編み上げのガーターストッキングに包まれた脚線美が惜しげも無く晒される姿に、一、日本婦女子として雛菊は正視出来ずに目を逸らす。ソノラの姿を長時間見るには焦点を何処に合わせたらいいか惑うので、雛菊はあまり直視が出来ないのだ。
(普段から下着同然の格好だから発言にも恥じらいがないんだよ)
再び気を奮い立たせ、きっと睨め付ければソノラは涼しい顔で手を振って体を反転させた。
「男女間は風通しが良すぎるより、少しぎこちないくらいの空気がいいものですわよ?」
「余計なお世話だよ!」
捨て台詞に雛菊は啖呵を切り、火照る顔を誤魔化すが如く薬を一気に飲み干してゾフィーに言い放つ。
「ゾフィーさん、塩! 入口に塩播いてください!」
「塩なら厨房に取りに行かねばなりませんが、今御身を離れるのは……」
「私の護衛は大丈夫だから! なんかもう、こういう時は塩をね、撒くと気が晴れるというか悪霊退散みたいな!」
「かしこまりました」
日本の慣習など知らないゾフィーは得心はしないが、雛菊の指示なので一礼して厨房へと向かった。彼女の生真面目さはチェリウフィーの折り紙付きなだけある。その結果まるで顎で人をこき使っているような気分だが、カッとなって言ってしまった手前あっさり引き下がれなかったのだ。反省はしている。
命じられれば即座に行動に移すゾフィーが退室し、人が急に減った室内の空気が何処か静かだと耳で感じた折、シャナの呆れ気味の嘆息が響いた。
「君は相変わらず考えが足りないと言うか、警戒心が足りないよね……」
スプリングを軋ませ、ベッドに寄り掛かるシャナに雛菊は息を飲んだ。
(あ、まずい……)
ソノラの発言から敢えて意識しないようにしていた存在と二人きりの状況を作ってしまった事に気付いた雛菊は、少年のくせにやたら熱っぽい視線から逃げるよう自身の顔を毛布で隠す。
「どうして顔を見せてくれないの?」
「どうしてってシャナが覗くからでしょう……」
「そうしなければ君の顔色を窺えないじゃないか」
そう言われ、シャナに引き剥がされた毛布が雛菊の膝に重なり落ち、眼前に宝石のように紅い双眸に戸惑った間抜け顏が写された。
「耳まで真っ赤。熱でもあるんじゃない?」
少し前の検温では平熱だった。上がったとしたのなら原因は体調不良以外の理由だと雛菊が口を開けようとすれば蓋をされる。
「……苦っ。自分で作っておいてなんだけど、もう少し飲み易くなるよう改善が必要だね」
ぶつぶつと一人ぼやくシャナが只今の一連の流れで放心する雛菊の混乱しきった顔に気付いて小さく笑う。見慣れた仏頂面からの豹変に毎度戸惑うが、少年の姿を思えば年相応と言える悪戯っ子めいたその表情に雛菊の心臓は忙しく跳ねてしまうのだ。
「せ、せめてこういう時は大人の姿の方が自然じゃないかな……」
どちらの姿が好きだとか、少年も青年もどちらもシャナなので雛菊の気持に差異はないのだが、自分よりも幼い容姿に艶めいた行為をされると変な罪悪感がちくちくと胸を刺して来る。
今ではシャナが見た目通りの年齢ではないと分かっている雛菊だが、慣れない事尽くしの経験に加え、相手の対応まで大きく変容しているから混乱は一入だ。だからこそ、自分が今しがたどんな意で取られるかも分からない発言をした事にとんと気付きもしない。
シャナはそんな雛菊の心中を知ってか、楽しむように口角を上げる。
「ーーそれってつまり、大人の姿を取ればまたキスしてもいいって事だよね?」
「よ、よくないよ! 」
動きを見せるシャナに何かを察知した雛菊は慌てて制止する。幸いシャナの見た目に変化はなく、ほっとして雛菊は居住まいを正した。一人勝手に慌てふためいた結果なのに乱れたベッド上がやけに疚しく見えて、不自然がない程度にシーツの皺まで伸ばす。
(私は一体何をやっているのだろう)
羞恥で熱くなる耳を長い髪で隠し、雛菊は唇を突き出して小さく呟く。
「こーゆーのはもっとムードが大事だと思うんだ……」
「ベッドのある部屋に男女が二人きりの状況を自分で作っておきながらムードがないなんて言うのかい?」
そう言われたら確かに自分の迂闊さが招いた結果なのだが、頭の中で雛菊は大きく否定する。
(それでもやっぱり絶対違う。少なくともこんな状況でまだはっきりと気持を確かめないままでしたくないんだよ、私は!)
今はいちゃつきたい気分じゃないのよと、ツンと膨れて拒絶の意思を示せば、負けじとシャナも口を間一に引いてよく見知った仏頂面を見せた。しかしこっちの表情の方がこちらとしては落ち着くのだからおかしな話だ。
ちらと親しんだ無愛想な少年を盗み見るがすぐにバレ、責める目を向けられる。
「……アサドにはさせたくせに」
一瞬何を言われたのか理解出来ず雛菊は首を傾げるが、暫ししてぶわっと変な汗が湧き出たのが分かった。
「信じらんない! 盗み見てたわけ⁉︎」
もう随分前の騒動の夜の日の出来事だ。あの頃はシャナとは喧嘩中でまともに言葉も交わしていない時期だった。雛菊はシャナがそれでも影で護衛に回っていたのを知る由もないので、あの日の晩の出来事はアサドと二人だけの話で済ませたつもりだったのだ。
しかしよりによって一番繊細な部分を、シャナでさえ触れてもらいたくない箇所を知られていたとあっては雛菊も平静ではいられない。
こういうのを俗に浮気と呼ぶのかと脳裏を過ったが、あの頃はまだ自分の気持ちを自覚していなかったから問題はないと彼女自身の心の平安の為に言い訳する。
「一応言っておくけど、あの日のアレは私とアサド君の問題で、酷い言い方だけど強引に奪われたんだからね」
「でも君はその行為でアサドに怒っていなかった。それだけじゃないよ。君はあの時で何回キスを許したんだよ。普段からアサドには肩を抱かれても抵抗しないし、井戸の中では密着してるし。なのに僕が同じ事をやったら許されないのは不公平だ!」
「不公平って……」
話の方向が、まるで自分だけお菓子を貰えていない子供の駄々に聞こえてきて雛菊は脱力した。シャナ本人は至って真面目な顔付きなのだが、持ち出す話題が今更な気もするし、そもそもアサドのスキンシップは彼の性格や人徳で許されたものだ。それにアサドは女性のエスコートを交えて自然と行うのだから、その芸当がシャナに出来るとは思えない。実行したところでキャラが違うと雛菊は戸惑った事だろう。
「大体、アサド君が今同じ事したら普通に拒むに決まってるでしょ」
あの夜の告白を忘れてしまったのかと雛菊は少し拗ねて溢す。
確かに勢いで口にはしたし、シャナもその時は拒んだ。しかし、今こうしてまた次元を越えて戻って来ているのだから自分の気持ちを察してくれてもいいのにと思うのだ。
「正直、私、シャナの気持ちがよく分からない」
「何が分からないんだよ」
憮然な面持ちでシャナに聞き返され雛菊は息を吐く。
言わせないで欲しい。そんな気持ちなのだが、何処かで歩み寄らなければ長引きそうな気もした。
「ーー私、シャナが好きだよ。大切な家族よりもシャナを選んでラキーアに戻って来たの。それがどれだけ大きい選択かは分かってくれるよね?」
此処で理解してくれなければこの話はそれまでなのだが、シャナとてそこまで鈍くはない。むしろ神妙に頷く。
「この世界が君にどんな負担を掛けるか知って尚、こうして此処にいる事を僕は奇跡だと思っているよ」
彼にしてはとても素直な言葉だ。その言葉は嬉しいのだが、雛菊が欲しい答えはそれではなかった。
「……馬鹿」
あからさまに雛菊が落胆するとシャナはムッとして顔を近付け詰め寄った。反射的に雛菊が仰け反ると更に距離を詰め、後頭部がベッドのヘッドボードに押し付けられて逃げ場をなくす。
正面から見据える真紅の瞳は苛立ちに困惑、焦燥の色が見え、彼が必死なのは伝わった。
「分からない。僕が好きならどうして逃げるんだよ」
手をボードに突いて雛菊を更に追い込んで縋るシャナに情けなさを覚えつつ、そんな表情も新鮮だと思ってしまう時点で結構拗らせている自分を自覚してしまう。
(この人って私よりうんと歳上なんだよね……?)
見た目以上に大人びて見えるかと思えば、子供っぽいヤキモチを焼いて見せたりでとても愛おしくなる。
だからこそこの耳ではっきり聞きたいと願うのは我儘だろうか。
雛菊はなるべく顎を引き、心持ち顔を離してシャナの顔全体が見えるように言った。
「私ははっきり言葉で聞いて現状ちゃんと把握したいの。私、言ったよ。シャナが好きだって。まだ分からない? 私が何を望んでいるか本当に分からないの?」
口にするだけで恥ずかしくて頭から毛布を被って隠れたくなる。告白をねだっているのは上手く伝わってくれただろうかと、恥ずかしさを堪えてシャナを窺えば目が丸くなった。
赤い。瞳は元々血のように、宝石のように赤いのだが、そうでなくて、頬や耳が色白の肌を誤魔化しようもなく染まっているのだ。こんなに真っ赤になって照れているシャナの姿は初めてで、雛菊も戸惑ってかける言葉を探せば溜息と共に苦々しい声を零された。
「僕にアサドみたくなれって?」
「……そんなに言いたくないの?」
つい険を含めた物言いをすればシャナはすぐに首を横に振る。
「そうは言ってない。ただ、言ってないのに今気付いて、改めるとまた、どうしようもなく恥ずかしいってだけで……」
「私にだけ言わせる気?」
「言ったらキスしてもいいの?」
「それは聞いてから考える。ていうか、キスはなんで恥ずかしくないなかなぁ」
「君の唇が気持ち良いからだよ」
これには何も言うまいと雛菊は口を引き結んだ。
告白より十分恥ずかしい台詞を言っているなんて気付いてないのだろう。此処で指摘すると、この基準のよく分からないシャナから言葉を引き出すのは難しくと思えた。
どれなら良くて何なら恥ずかしいのだろう。
羞恥の基準を考える雛菊の目の前でシャナは覚悟を決めた顔付きだ。自然と雛菊も緊張で身構える。
ゆっくりとシャナの顔が雛菊の耳に寄せられる。
精一杯押し出すように掠れた声で囁かれた言葉。
その言葉を耳に雛菊は頬を染め、ゆっくりと頷いた。「私も」と小さく返すと、シャナの顔が寄ってくる。今度は雛菊も難色は示さず、素直に目を閉じた。
息を間近に感じる接近に鼓動が早くなる。
「ようヒナ! ゾフィーから今シャナと二人きりと聞いて邪魔しに来たぜ!」
ノックもなしに開かれた扉から、今までの空気を全て取り払うような快活な声が飛び込んだ。
「お、いい具合の間だったか?」
二人の距離を目に金色の瞳が意地悪く弓形になる。
雛菊は慌ててシャナの胸を押し離し、シャナは不愉快そうに舌打ちした。
「アサド、邪魔をするな」
気が逸れたのか、不貞腐れ、雛菊の抵抗にあっさり身を引いたシャナは乱入者を冷ややかに目で刺す。それにめげない男ーーアサドは長い金の髪を揺らしてにかっと笑った。
「やだね。男女間はちょーっと邪魔が入るくらいが丁度良いんだ」
似たような台詞をついさっきも聞いたな。
ぼんやりとそんな事を考えながら、雛菊は気の置けない友人から見舞いの花束を貰い、少年の嫉妬を煽るのだった。




