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シャナと花のバラッド  作者: 藤和葵
第五章
55/61

01.むかしむかし――それから現在。


 此処は何処。

 昏く冷たい水の底に沈んだ筈なのに気付けば緑の森の中にいる不思議。

 濡れた体は確かに最後の記憶を証明しているのに、不可解な現状に首を傾げながら辺りを見回す。

 むせかえる深緑の森。

 見覚えのない木々だが、こんな森は近所にあっただろうか。

 誰かが助けて此処まで運んだ?

 だとしたらどれだけの距離を何の為に。

 自分を助けてくれる人はもうこの世にいないのかと思っていた。それとも此処はあの世なのだろうか。

 鳥の囀りが聞こえる。木洩れ日が濡れた体を優しく包み、風で木々がそよぎ、青い匂いが鼻を擽った。

 あの世でもあたしは一人だ……。

 涸れたつもりの涙が零れ落ち、乱暴に目尻を擦った。

 その際に頬に張り付いた自分の髪の毛に気付く。

 日に透ける鳶色の髪。

 憎らしいと思った髪色はあの世までこのままなのかと絶望しつつ、そんな恨みも飽き飽きだと腕をだらりと下げて天井を仰ぎ見る。

 枝葉の隙間からは光で白く輝いて溜息が零れた。

 森は深い。

 奥に進むと何があるのだろう。

 三途の川でもあるのだろうか。

 立ち上がり、何故か気になるその先に足を向けた時だ。


「そこは神域だよ」


 凛としたよく通る男の声が引き止めた。

 人がいたのか。

 驚いて振り返り、また驚いた。

 くすんだ自分のそれとは違う、目映いくらいの金色の髪に金色の瞳。

 すっと通った鼻筋に尖った顎、すらりと伸びた手足など今まで見て来たどの男よりも頼もしく見えた。

 しかしこの形はどう見ても異人ではないか。

 知らない間に横浜にでも流れ着いてしまったのか僅かに震えたのを別の意味で捉えたのか、男はにこやかに笑みを浮かべて腰を屈めた。


「こんな場所でずぶ濡れとか、何があったか分からんが俺は決して危害を加えない。行く場所がないなら連いて来るか?」


 差し出された手に訝しんだのは、今までこんな躊躇いもなく優しさを向けてくれた人がいなかったからだ。

 他人の裏のない優しさを知らなかった少女が初めて触れた温かなもの。それを与えてくれた人に心惹かれるのを誰が止められようか。

 たとえこの後生まれたものが悲劇だとしても、どうして責められようか。



 * * * * *


「――あの時、あたしがあの人と出会わずあの子と出会っていたら、今頃あなたは平穏に生きれたかも知れない」


 いつもと違い、眠りから覚めたすっきりした声でキクは言った。


「最初に望まれた通りの出会いをしていれば、苦しむ事はなかったと思わない?」


 静かに問われ、雛菊は暫し黙する。

 キクは大樹の幹に背を預け、傍らに伸びる張り出した根を撫でながら空を見上げた。


「でも人の心を左右する事は出来なかったの。だから貴方がそこにいる。ごめんね」


 謝りながら何故微笑むのか、キクの表情を窺い雛菊は真意を探るが腹の探り合いはそもそも備えてない。


「死ぬのはどんな気分?」


 ようやく分かりやすい質問が来た。

 雛菊はすっと息を胸に取り込んだ。



 * * * * *


「さいってーな気分ですわ」


 ふんぞり返ると驚くくらい上下に揺れるソノラの胸に思わず視線を取られる。

 女性でも目のやり場に困る褐色の膨らみは自身の胸に手を当て嫉妬すら覚えるほどだ。


「最低なのはこっちも同じだよ。裏で糸引いてたのは知ってるんだから」


 雛菊を元の世界に帰す魔法薬をシャナに渡したのは既に聞いていた。恨み節ならこちらの方だと憤慨して胸を張れば鼻で笑われる。明らかな迫力不足が敗因だ。


「セラフィムというのはホントしつこいですわ。次元を越えてまでマスターの願いを叶えるなんて愚かしい。二日経ってもまともに立てないなんて、貴方、ご自身の状態が理解出来ないくらいお馬鹿じゃないでしょうね」


 半身は起こしているも、大きな枕に背中を埋めてベッドの上で人を迎えている雛菊はソノラの皮肉に苦笑を浮かべる。さすがに今なら彼女が何を言いたいか分かっているつもりだ。


「セラフィムの力で無理した反動はもう知ってる。私、少しは見てきたからね」

「……何をご覧になったの?」


 雛菊を馬鹿な小娘と舐めた視線しかくれなかったソノラの目の色が変わる。セラフィムに大して抱く感心があるらしいが、雛菊もお人好しになる気にはなれずに肩を竦めた。


「少なくともセラフィムは“マスター”の為に動いているわけじゃないってこと」

「意味が分かりませんわ」

「マスターだからセラフィムが恋い焦がれるわけじゃないの。変な事をシャナに吹き込まないでよね」


 あの夜の告白をなかった事にしたシャナへの入れ知恵の犯人も既に聞いていた。

 初めての告白を蔑ろにされた原因を軽視出来るほど大人でも寛大でもない雛菊は、この件に関しては白黒はっきりと明言しておきたい。


「あたくしは先のセラフィムはマスターに尽くし、一国を成したと伝え聞いていますのよ」


 ソノラも負けじと応戦するように根拠を明かすが、今の雛菊には何の抵抗力もない。


「その人はマスターじゃないの。歴史書があるなら訂正しといてよ」

「貴方、戻って来るまでに一体何を聞き知りましたの。勿体ぶらずに開示なさいな」

「それは言えません。プライバシーに関わるからね」


 ふふんと、挑発めいて笑えばソノラが悔しそうに歯噛みしたので胸がすっとする。


(私って、結構性格悪いかも知れない)


 まだ数回程度しか顔を合わせた事はないが、いつも自信たっぷりなソノラを言い負かすのはそれなりに気分が良かった。

 以前はセラフィムに関してあまりにも無知であったが、少しばかりの入れ知恵を仕入れて余裕が出来たのだと思っている。その前は周りから聞いた情報が真実だと受け取るしかなく、翻弄されっぱなしだった印象だ。

 これで自分もこの世界で出来る事が増えるだろうか。

 そう自身の可能性に期待したところでソノラの襲撃が本日の事だった。

 創天の魔術師としてセラフィムの力の管理だとか口では言っていたが、好奇心に溢れた目は精霊の研究に熱中する誰かとよく重なった。


「全く、今度自白剤を用意するから覚悟しときなさいよ!」

「……それではソノラ様をヒナギク様のお食事には一切触れられぬよう、護衛を強化したいと思います」


 ぽつり。

 落とされた言葉が発せられた先をソノラが睨む。


「それとも一興を講じて毒味役を増やし、その場で試食しましょうか。きっとあらゆる暴露話が聞けますよ。勿論、その効果を確かめるべくソノラ様もご同席なさるんですよね」

「……冗談よ」

「えぇ、わたくしもそのご冗談に乗らせて頂きました」


 深々と一礼をしたものの、能面のように表情を一切和らげない顔が本気で冗談を言っているように見えなかった。


「ゾフィーさん……」

「ゾフィーとお呼び下さい」


 つい呆れて名前を呼ぶ雛菊にすかさず訂正を挟み、メイド服を着た侍従はまた深々と頭を下げた。


「貴方、面白いお付きが出来たのね」

「チェリウさん直属の部下なんだって。メイドさんの格好をしてるけど、本当は騎士で、見た目が物騒にならないようにスカートの下に帯刀してるらしいよ」

「既に雰囲気が物騒ですわ」


 確かにゾフィーは他の侍従とは違い、全く愛嬌がない。

 護衛が付いてまだ一日だが、最初の挨拶からまず笑った顔を見ていない。鋭くつり上がった細い目尻からは隙のない眼光が突き刺さる。化粧っ気もなく、日に焼けた肌と雀斑が野暮ったく肌を彩るので洗練された王宮付きの侍女と比べるとどうにも浮いて見えた。

 それなら素直に騎士の格好をした方がまだ精悍さを際立てるんじゃないかと思えるのだが、チェリウ曰わく「この弟子は年頃の娘っ子らしい格好を嫌がるから公務にした」との事から多分、親心なのだと汲んでいる。


「それにしても護衛なんてセラフィムって生意気ですわ。これに加えてシャナ様までべったりなんてホント、貴方、何で戻って来たんですか」


 真っ直ぐに恨み節を投げられ、雛菊は困って頬を掻いた。


「シャナが四六時中護衛につけないから、ゾフィーが配置されたんだけどね」

「あら、もう愛想尽かされて?」


 どうしてそこで嬉しそうな顔をする。

 急に喜色ばむソノラを横目に雛菊は息を零した。

 シャナが女装し、少女として付き添った頃は一般的に同性同士で通せたからまだ良かった。しかし、現在は正体を明かしているシャナが四六時中一緒では外聞が悪いとチェリウフィーに言われたのだ。無論、与えられた私室も変わって続き部屋はない。


「そもそもチェリウさんとか最初からシャナの正体知ってた訳だから、今更どうしてって思うんだけどさ……」

「そんなの、まだシャナ様が無自覚でいらっしゃったからじゃないですの? あの婦人、古い仲のようですし、シャナ様がそう簡単に手を出さない紳士だと分かってたんですわ」


 ぼやけばソノラは呆れたように、けれど苦虫を噛み潰した顔で答える。


「シャナが紳士?」

「そーですわ! でなければあたくしの誘惑を半年間も凌げるわけないですもの!」


 そこまで言い切れるくらい、一体どんな誘惑をしてきたのかが雛菊は気にかかる。


「一時は女性には関心のない方かと思いましたが、結局、貴方のようなちんくしゃを選んでますし?」

「いちいち突っかからないでよ」


 ちんくしゃと言われて腹が立たない訳ではないが、ソノラの隙のないスタイルと美貌を前に張り合うような無謀さも持ち合わせていない。


「大体、シャナは本当に私を選んでいるのかな……」


 聞けばソノラは眉尻をひくりと上げ、雛菊を睨め付けた。


「それ、本気で仰っているなら貴方、相当なお馬鹿さんですわね」


 ソノラが怒っているのは分かる。雛菊も自分が今更何を疑っているのかも分かっている。


「でも、だって、私、シャナから好きとは言われてないし……」


 決定打が欲しいのは乙女心だと訴えれば、呆れと怒りの両方の溜息を吐かれた。


「念の為に聞くと、ソノラって惚れ薬って作れるのかな?」

「一過性の効果なら可能ですが、あたくしがそれを貴方の為に処方して何の得が?」

「だよねー」


 安定の説得力に頷きはするものの、まだ何処か腑に落ちないのには理由があった。


「ヒナギク、いるかい!?」


 ノックもそこそこ、返事を待たずに扉が開かれる。


「シャナ様」


 咎めるゾフィーの声をすり抜け、癖のあるぬばたまの髪を躍らせて傍らのソノラにも目もくれずまっしぐらにベッドへと向かう。


「シャナ、おかえ――……」


 言い切る前に熱烈な抱擁を受け雛菊の言葉が途切れる。


「ただいま。具合はどう? 今日はソノラが面会してると聞いて、帰ってしまったらどうしようかと思って……」

「あの秘薬は一度きりの効果しか出ませんわ」


 つまらなさそうにソノラがふてくされたが、シャナはやはり気にも止めずに腕の中の雛菊を確認して猫のように頬を擦り寄せると更に抱き締める。


「えと、シャナ……心配しないでも私、もう何処にも行かないから、その……」


 雛菊が離してと赤くなり、衆人環視の中で変な汗を掻きながら訴えればシャナは不服そうに体を離す。


「貴方、これだけ見せつけもまだ疑うのかしら?」

「落差に戸惑うんだよぅ」


 色々腹を括ってきたつもりだが、まさかこんな部分で戸惑わされ、熱で寝込んでしまいそうだった。


 

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