17.ちょっと、そこまで
そろそろ此処の浮遊感にも慣れたなと雛菊は何もない白い虚無を見つめる。
天井も地面も壁もない。
そこに立っているのにあるべき感触が足から伝わらないのはどうにも奇妙な感覚だけれど、浮遊感に酔うなどの不快感がないのは幸いだ。
(此処は道なんだろうな)
必要な場所に繋がる道なのだろうと雛菊はじっくりと何もない空間を見つめた。
振り返れば一つ扉がある。
意識をしたから見つけられたのだろう。
あの扉は元の世界へと続く扉。直感的に理解するが、その扉はもう必要ない。シャナの元へ戻ると心を決めたからにはあの扉を開ける必要はなかった。
躊躇いはあった。どの道を選んでも後悔するのも分かっていた。既に後悔している。けれどあの世界を捨ててしまえば半身は死んでしまう。
(私は小さい時からもう選んでいるんだ)
目の前に扉が現れた。ノブはないけれど最初から半開きで、中を覗けばあの大樹の広場だった。
さくっと一歩踏み出す毎に音が鳴るこしのある芝を進めば、大樹の根元にはキクがいる。
まだ眠たげに太い根の窪みに体を埋めていたが、雛菊の姿に気付くと微笑んで小さく手招いた。誘いに応じ近寄って膝を折れば、キクは手招いていた右手で雛菊の頭を優しく撫でる。
「あの子をよろしくね。とっても寂しがり屋だから……」
「知ってます」
言われて口をついて出た言葉に自覚はしていなかったのに、そうなんだと納得出来たのが不思議だった。けれど思い起こせば行動の節々にそれらしい部分もあったような気がして、寂しかったと考えるとなんだか腑に落ちた。
「シャナは寂しがり屋のくせに考えすぎてひとりになろうとするからほっとけないんだよね」
そうだ。だから余計な気を回して人の気持ちを無視して地球に送り返したりするんだと思い出して向かっ腹を立てると、俄然力が湧いて郷愁の念が少し遠くなる。
「だからキクさんは安心して休んで」
言葉で返すには限界だったか、キクは瞼を重たそうに支えながら首を落として頷いた。
一滴、流れた涙が雛菊の手を濡らし、そこから温かな光が広がりだす。
何処か遠くで切望する声が聞こえた。
懐かしい声だった。
光が全身を包めば景色が変わる。
キクの姿はなくなり、視界はまた白くなった。
いつもと違うのは浮遊感がない事。
空気の流れを感じる。
足元に地面の感触が伝わる。
(此処は現実の世界だ)
あの夢のような場所ではないと確信し深呼吸するとむせかえる緑の匂いがした。
(学校でもない)
逸る気持ちを抑え光が晴れるのを待つ。
光は薄くなり下方から徐々に散って晴れるかと思えば、最後に激しく燃える線香花火のように強く瞬き雛菊の視界を眩ませるーー。
痛いくらいに眩しい光に目を擦っていると、その動きを制するくらい強く体を拘束された。
違う。抱きしめられた。
思い直し、戸惑っていると、首筋を誰かの髪の毛がくすぐった。肩に頭がもたれかかる。この大きさには覚えがあり、該当する人は身近に一人だ。
「ヒナギク⁉︎」
あまりに耳に近い叫びで雛菊はたまらず身を竦めたが、必死な声に首を横に振った。
「幻じゃないんだね? だったらどうして……いや、なんで戻って来たんだ」
なんでってなんて言い草。
どんな思いで帰って来たか人の気も知らないで。
そう言い返そうと口を開きかければその口を塞がれた。
見えないのはなんて不安だろう。
唇に触れたのもほんの一瞬だからそれが口付けだとしても感慨がない。
雛菊は目を擦り、霞む視界で目の前の人物をねめつける。
「シャナが願ったからでしょ」
会いたいという声ははっきりと聞こえた。
「聞こえるんだから。何処にいてもシャナの声は聞こえる……だか、ら……」
泣きたい気分じゃないのに涙は急に込み上げる。嗚咽で言葉に詰まらせ再度目を擦る。せっかく光が晴れたのに今度は自分の涙で視界が滲むのだ。これでは久しぶりのシャナの顔も見れないと溢れる涙を止めようと両目を覆えば、頬を撫でながら涙が掬われる。
「泣かないで……」
「誰の所為だとっ」
憤慨すれば呼吸が奪われる。今度は涙でぼやけながらも理解した。
(だからどうしてこのタイミングでキスなの……)
そういえば別れの時も勝手に唇を奪われた。嫌とは言わないがそれでも心の準備とか乙女には必要な覚悟の時間は欲しいところ。
唇に流れた涙まで舐め取られ、顔が離れるとシャナの目も赤いのが見て取れる。
自分の状態が分かるのかシャナはすぐに雛菊から視線を逸らすと俯き加減で顔を隠した。
「ごめん……」
伏せながら漏れ出た言葉は短い謝罪。言い分を聞きたかった訳ではないし、これでもシャナにとってはいっぱいいっぱいの誠意だと思ったので、雛菊はその態度について不問にする。しかしすっと細めた目は鋭かった。
「念の為に聞くけど、その謝罪はどっちに対して?」
返答如何によってはしばらくは許せないと考えていれば、シャナは小さく「帰したこと」と呟いた。
キスの事じゃなくて良かった。
雛菊は小さくほっとして拳を握り、振り上げたその手をシャナの頬に振り下ろす。
鈍いがしっかり的に中った音がし、シャナは目を白黒させて尻餅をついた。雛菊は慣れない行為に痛めた右手を振りながら笑った。
「これで許す。次は……ないけどね」
「――はい」
語尾は低く下げ脅しを含めて吐き出せば気分はすかっと軽くなった。
「ざまぁねぇな!」
いっぱいいっぱいだったのは雛菊も同じだったようで、盛大な声にもう一人の存在に遅蒔きながら気付いた。
ずっと気を使って再会に水を差さずに傍観していたのだろう、気まずそうに頬を掻くアサド同様に何を見られたか思い出した雛菊も頬を赤くする。
「聞きたい事話したい事は色々あるんだが、とりあえずまずはおかえり」
差し出されたのが左手なのは痛めた右手を考慮してだろう。雛菊も左手を差し出し握手を交わすと、向こうではお目にかかれない金色の瞳と視線を交わして破顔した。
「ただいま!」




