16.彼の願い
“あの日”魔女は真実を告げた。
蒼天の魔術師は創世記にも出て来る古い一族だ。
祝部であり、世界の調律士で監視者でもある。
一族の知識は決して文字には刻まれず、同族の中でもごく一部の者にしか口伝されない。
セラフィムについてもその数少ない者だけが知る情報で、その僅かをソノラから知らされたのは半年も前の話だ。
下手に口外してはならないものをシャナに伝えたのは、彼が召還者であり主だから。と、彼女は前置きした。
そう言ったのは彼女自身、雛菊に対して好感をあまり抱いてないのを自覚しているので、変に取られたくなかったのだろう。
それでも語られた真実と称された事実には嘘だと否定してしまったが。
感情を挟まない口調には「気持ちを察する」とだけ言って、彼女は諭すように続ける。
「心当たりはあるのでしょう? それとも後戻り不可能な状態にならなければ納得しませんか?」
意地悪な質問に、手渡された異界渡りの秘薬を前に選択肢はなかった。
* * * * *
「――ソノラの性癖はアレだけど、それでもヒナギクを気にかけてはくれたんだろう」
すぐに涙は取り払ったが、仄かに充血した目を気まずく前髪で隠しつつシャナは小さく零した。
「セラフィムの存在は許せないけど、器のヒナギクをそのままにはしておけなかったんだ。誰だって若い女の子一人を犠牲にしては寝覚めが悪いだろ?」
「確かに願いの代償がヒナの命って笑えねーな」
アサドの言葉にシャナは無言で否定も肯定も示さない。彼だけに見える精霊に慰められながら、こうするしかなかったのだと呟いた。
「あの夜の傷は残らない筈だったんだ。痕になったのはそれだけ衰弱していた証明だ」
「もしかしてあの時、目覚めるのが遅かったのも……」
「そういうことだ。でも! そうだとしても、それでもまだ間に合うなら、本来の世界に戻す秘薬があるなら手に取るじゃないか」
「だったら最初から言えばいいじゃねーか! それなら俺だってこの身体について別の方法で模索するさ。何も本人の意思を無視して返すとか乱暴だろ」
「だからなんだ! 此処にいたら誰かが彼女に縋るだろ⁉︎ それが真摯で切なる願いなら彼女が断れると思うのかよ!」
珍しく声を荒げるシャナに少し気圧されたアサドは息を飲んで押し黙る。
あからさまな私利私欲の願望なら退けられても、どうにもならない不条理に抗う切望を振り払う切り捨てる冷酷さを持たない雛菊には難しく、命を削る顛末が目に見えた。だからソノラの強制帰還にすぐ乗った。
アサドだって理解してない筈はないだろうが、感情が相反しているようにみえる。
雛菊がラキーアに留まりたい気持ちも嘘ではないが、やはり傍に置きたいのが本音だろう。
好きな人と切り離されるのは誰だって辛い。
それが死に別れでも生き別れでも痛みを伴う。
失う痛みはよく知っていた。だからこそ過ちを犯したシャナは身に染みて理解している。
「次、守れなかったら僕は二度と僕でいられない」
「二度と会えないのは変わりはないのにか」
「ああ。何処かで生きてさえいればいいんだ……」
本心なのに口にするのが酷く重たく、心が身を切られるように痛かった。アサドは押し黙り、同じ言葉は繰り返さなかったが、結局間が保たなかったか口は閉じきらなかった。
「そういやよ、仕出かした始末の為にセラフィム召喚を試みたんだろ。自分自身の願い事は何かなかったのかよ」
勿論そこにはアサドの呪いを省いた願いを意味している。
「ないのか? お前、結構つまらない人間だもんな」
俗な願いがなくてもなんら不思議はないと言外に滲ませた物言いにシャナは苦笑し、あるよとぼやいた。
「実際に願い事もつまらないし、今更言えたもんじゃないけどね」
苦々しい顔でシャナは見てくれと言わんばかりに胸を張り、猫背気味の姿勢を正すと「僕はいくつくらいに見える?」などと妙齢の面倒な女の言い回しをするので眉を釣り上げてアサドは口を尖らせた。
「知らねーよ。今だとせいぜい十二、三くらいだけどお前、俺ぐらいにもなるだろ。そんな変な奴の年齢とか気にした所でなぁ」
そう言うアサドの実年齢は三十を越えるが肉体は二十歳そこらのままである。身近に老齢ながら脂の乗った男にも負けない化け物みたいな老女を見ていたからか、出会った当初からシャナの年齢をアサドはあまり気にしなかった。今では自身も年齢不詳の身であるから余計それに対するこだわりがないのだろう。実際、長い付き合いの中で会話の流れで一度くらい聞かれた気がしないでもないが、答えを濁したら全く触れなくなったように記憶している。
濁したのは本人にとってもあやふやだからであり、口にした所でも胡散臭いし証明するものがないので説明が面倒臭かったからだ。
数えた事はないし昔の記憶は殆どないけど、多分二百年は生きてるかもと言ってみれば案の定反応は薄かった。信じられないというよりも実感が湧かないと言った反応だろう。だが、このままならアサドだっていずれは到達するだろう域を述べながらゆっくりと続ける。
「想像してごらんよ。大事になった人は必ず自分より先に死ぬ。後追いすら出来ない自身はただ生き長らえてその記憶すら次第に薄くなる。最初の自分を忘れる。そうしたらどう願いたくなる――?」
意地悪な問題だとぼんやり思いながら、すぐにピンと来ないアサドの様子に彼はまだ間に合うとほっとしつつシャナはいい加減焦らせずに答えを出す。すんなり言って流すつもりだったが、脳裏によぎった影が邪魔をして結局は詰まった物言いになった。
「殺してくれとか、優しい子には言えないよ……」
そんな願いは泣かせるだけだ。
今となっては別の形の願いを言えば死なせたくない子の命を奪うという悪循環にどうしようもなくなった。
「傍にいたら欲しくなるよな」
アサドが気持ちを分かってくれるのは嬉しい事だが、この件に関してはあまり同調して貰いたくない。そんな独占欲を抱くのは彼女の告白を蔑ろにした身では手前勝手過ぎなのは承知で、シャナが顔を歪めれば何故かアサドは満足げに笑う。
「なんだよ」
睨めばアサドはまた喉で笑い、顎をしゃくって「いやな……」と出掛けた言葉を飲み込んだ。
大概彼がこの顔を見せる時は人をからかったり子供扱いをする場合だ。過去、何度か経験もあれば雛菊相手に見せられたりもした。
つまらない事を思い出したと更に膨れると今度は頭まで撫でるように叩かれる。
「俺はお前が心を預けれる人間が増えるのは嬉しいんだよ。その相手がヒナでもさ。……ま、ヒナの気持ちが俺に向いてるなら折れる優しさまでは持ち合わせてないけどとうにフられてるからなー、俺。それでも惚れた女の幸せと親友の幸せを同時に願うとかバカだろ。お前はそんな友情に報いようとか思わねーのかよ」
「報いるってどんな……」
分かってんだろと睨まれ、友愛を見せつけられて白を切るのは悪い癖だとは自覚している。
「とりあえずどんな形であれ蹴りつけろよ。どんな事情があったにしろ絶対あの子は泣くんだ。殺させないからさ、俺の為にもあの子の為にもお前の為にもなんとかしろよ。……会いたいんだ」
どう言い繕っても気持ちはそこに行き着くんだ。
それでも彼の感情を我が儘と言うのは難しい。
何度思っても押し殺していた感情がアサドの話によって引き出されてしまった今、すんなりと漏れ出てしまう。
「僕だって会いたいよ……」
搾り出し、空気のように漏れただけの言葉に「それでも無理だ」と言い掛けて違和感に気付いた。
精霊達がシャナの周りでざわつく。耳元をふわりと飛び交う精霊がくすくすと微笑み、楽しそうに弧を描き舞った。
――だいじょうぶ。
――だいじょうぶ。
――あなたのねがいはかなうから。
――あなたのしあわせがわたしたちのよろこび。
――だいすきよ しゃな。
――だいすきよ しゃな。
「なんなんだ⁉︎」
精霊達の歓喜がアサドにも伝わったようで、周りの異変に立ち上がる。
天井の雲は凪いでいるのに室内に沸き上がる風。
小さな竜巻のように渦巻く風が庭園の植物を巻き上げ、花弁が踊った。それからむせかえるような花の香。次第に形作られる人の影に、その影から浮かんだ、揺れるぬばたまの髪にシャナはいても立っても居られずに駆け出していた――……。




