13.La Campanella
夢から覚めていつもより早く起きた朝、雛菊は手紙をしたためた。
一枚はこれまでの状況をまとめた手紙。二枚目以降は個別に分けた手紙だ。
書きたい事、宛てたい人は沢山いるが、時間がない。便箋一枚ずつにありったけの想いを込めるだけでにして、まとめて封筒に収めた。手紙は封をしないまま、机の中心、すぐ見つかるように上に置いておく。説得する時間も別れを惜しむ時間もないのだ。
それから身支度を始める。学校用の鞄に時間割分の教科書を入れ、いつもと変わりはない。ただ、今日は必要のないのに体育用の手提げ鞄に、比較的新しい下着数着と簡易な服、お泊まり用の歯磨きセットや細々としたお気に入りの物を詰める。あまり多いと家出を匂わせて不自然なので、持ち物を厳選するのが限られた時間内では酷く難しい。
「四十秒で支度するなんて、思い切りが必要だよね」
好きなアニメの名シーンを思い出し、一人ゴチるもツッコミが不在では広がりもない。そうこうしている間に、いつもの活動時間になり、セットしておいた目覚まし時計が鳴り響く。
(アラームのセットそのものも止めた方がいいな)
思い立って、時計の裏側のスイッチを切り替えると不意に物淋しくなり、目覚まし時計も荷物に追加で詰めた。写真立て兼用だからむしろそれが良いとさえ思った。
荷造りが済んだ頃、バタバタと起き出した隣の部屋の大地が無言で雛菊のドアをノックして階段を下りる足音を聞く。大地流の「早く起きろ」の合図だ。
実はノック音が乱暴過ぎて、これで目覚めた朝はかなり不快になるのだが、今朝は何を聞いても名残惜しい気になる。
また泣き出しそうになるのをぐっと堪えて雛菊は部屋を出た。
「おはよう」
なるだけいつもと同じように家族に向ける挨拶。
上手く自然な顔が出来ているだろうか。
そんな事を心配しながら雛菊は、用意された朝食の前に手を合わせる。
「いただきます」「ごちそうさま」「いってきます」
この言葉だけでは言い足りないのに、言葉を足せば全部を零してしまいそうな気がして何も言えない。
「ごめんなさい」は手紙の内に既に記してある。
雛菊は出掛けの際、少し先に出た大地に気付かれない内に自宅写真を携帯電話で写す。いずれは電池が切れてしまうが、その前に模写して残せると思ったからだ。
シャナは絵が上手かったと記憶している。描いてくれる確証はないが、彼には貸しがあるのだから何とかなるだろう。
開いた傘の下から空を仰ぐ。
雨はまだしとしとと降り続けるが、雲は夜明けより薄くなっていた。学校に着く頃には上がっていそうだ。そう見立てて雛菊は坂道を登る。
今は坂道の天辺に扉を望む気持ちはなかった。
* * * * *
「ヒナちゃん、今日はいつもとなんか違うねー」
登校すると桃子が目敏く変化に気付く。
「そのカチューシャ可愛い」
「いつも髪はそのまま流してるから、ちょっとイメチェン?」
褒められて素直に嬉しく、雛菊は頭に触れてニコリと笑う。
「グロスも塗ってる?」
「潤い成分のあるリップクリームだよ」
化粧をしている同級生もいるが、さすがにその域に足を伸ばす勇気もない精一杯のおしゃれなのだが、効果はあったようで安心した。
「ヒナちゃん、好きな人が出来たの?」
「というより、好きな人に会いに行くの」
探る視線に雛菊は正直に答える。半ば茶化すつもりだっただけに桃子は一瞬言葉に詰まったようだ。
「黙っててごめんね。でも簡単には会えない人だから言えなかったんだ」
「私の知らない人、だよね? いつからか聞いてもいい?」
桃子の問いに雛菊は少し考えて首を捻る。
「……多分、うんと小さい時、初めて見た時からだと思う」
「そっか。会えるの嬉しいね」
「……そうだね」
桃子の賛同に僅かに間が開いたのは、素直に喜ぶには複雑な想いがあるからだ。雛菊は、子猫の毛並みのようにふわふわした親友の頭を撫でて微笑む。
「出来るならもっちゃんにもいつか紹介したいな」
雛菊の含んだ言葉の異変に桃子は何かを感じ取ったようだが、ホームルームのチャイムの音に流された。
雨はかなりの少雨となり、晴れ間が覗いている。
窓際の席から空を眺め、雛菊は心の中でカウントダウンを刻む。
チャイムより少し遅れて担任が教室に入る。クラス委員の号令で一礼を終えて着席すると、出欠確認が始まった。五十音順から読まれる名簿順だと久遠雛菊の点呼も早い。返事もそこそこに雛菊はだんだん青みを増す空を見た。雨はまだチラつく。
(狐の嫁入りだなぁ)
ぼんやりそんな事を考えて、ふと自分にも少し重なるような気がして妙に照れた。
嫁入りする訳ではないけど、親元を離れて遠くに行くと言った意味では近かった。
夢の中で、目覚める為に飛び込んだ泉は雛菊に色々な事を教えてくれた。
セラフィムの意味、力の使い方、出生の訳……。
全てをはっきりと覚えている訳ではない。それこそ夢の記憶と同じに雲を掴むように曖昧だ。それでもはっきりとしているのは、ラキーアに戻れるという事である。
花が水を求めるように、ラキーアがセラフィムを欲している。
磁力のように唯一の花は水を与える主を求める。
そんな仕組みに、自分がもう普通の女の子と一概に言えないのだなと寂しく思う反面、高揚してしまうのはセラフィムの性質か持って生まれた性格かは雛菊自身分かっていない。
それでもはっきりと言える事が一つあった。
シャナに会いたいという想いは、セラフィムによる洗脳でも何でもなく、雛菊自身の選択という事だ。
それだけは自信を持って言えた。そして、勘違いをしているあの少年に一言言ってやりたかった。
「乙女心を疑った罰として、一発殴らせろ」と。
パーではない、グーのつもりで今から拳を握り締める。約二ヶ月焦らされた分、怒りも強い。
雛菊がそうやって闘志をたぎらせ、隣の席の男子生徒が不穏な空気を感じ取った頃、異変が起きた。
まずピリッと雛菊の耳の奥に痛みが走る。反射的に両手で耳を塞ぐと今度はまるで蓋でもされたように全ての音が遠くなった。試しに耳を塞いでいた手をのけるが、まるでミュートをかけたように音に膜が張られたような丸さがある。
あ い た い
微かだけれど、懐かしい声が、願いが聞こえた。
(――来た)
雛菊の中のカウントダウンが始まる。
――次の瞬間、全身を震わせる鐘の音が校舎全体に響いた。
雛菊だけではない。学校中、少なくとも雛菊のクラスにも聞こえる現実の響きに周りが騒然とする。
何事かと席を立つ者に、慌てて外に首を出す者や廊下に飛び出す者。若い担任教師は分からないままも取り敢えずこの場を宥めようと慌てる。
そんな中、雛菊は用意していた荷物を手に静かに席を立つ。
――二回目の鐘が鳴り響いた。
予測不能の出来事に固まるクラスから飛び出すのは容易だった。
がらりと扉をスライドさせて廊下に飛び出す。遅れて担任教師が雛菊を呼んだが戻るつもりは毛頭ない。足は勝手に動いた。何処に行けばいいか分かっていた。
屋上だ。キクは屋上を指し示しながらこの校舎でセラフィムを招いていたのだ。
鐘は身体を震わせるように四回目を鳴らす。
音の出所が分かったのか、それとも他の教室を尻目に廊下を全力疾走する雛菊に野次馬が騒いだかで次々と他の生徒が廊下に出て来る。
そんなのはどうでもいいと雛菊は屋上への階段を二、三段飛ばしで駆け上がる。以前、確かに施錠されていた扉のノブはすんなりと回った。
少し錆びた鉄の扉を蹴破るように開けると、眼前に冴え冴えとした虹が橋を架けていた。
これは向こう側に続く橋だ。
雛菊はその橋の袂にある扉を見据えた。
最初に現れた扉とは違う、観音開きの作りで、既にそれは待ち構えるように開いていた。
雛菊はゆっくりと歩み寄る。
生徒の立ち入りを禁止するだけあって、屋上には柵などない。申し訳程度に頭を突き出したような校舎の縁に足をかけると、真下には灰色のコンクリートが両手を広げていた。
怖くないとは強がりだ。でも、扉は屋上から少し離れた空中にあるのだ。
いざ、正面に立った雛菊の姿はさぞ危なっかしい光景だろう。既にこの異変で外に目をやっていた者が雛菊の状態に気付いて隣の校舎のざわめきが届いていた。
真っ先に教室を飛び出した雛菊につられて追いかけてきたクラスの人間も屋上に現れ、今にも飛び降りそうな雛菊と有り得ない場所にある扉を目に騒然としだした。
「ヒナちゃん……」
追いかけてきた桃子が不安そうにこちらを見やる。続いて半ばパニック状態の担任教師が雛菊に呼び掛けるので、雛菊は申し訳なく微笑んだ。
鐘の音は十を刻んだ。逡巡している時間はない。
雛菊は深呼吸した時、一際大きな声が耳に突き刺さった。
「ヒナッ!」
外の異常を察し、慌てて二年フロアから駆け上がって来たのだろう。大地が息を切らしながらこちらを強く睨んでいた。
昨日、ラキーアなんて知らないと大口叩いておいてこんな状況はなんとも心苦しいが、言い訳と謝罪は大地用の手紙に既に書いておいた。
「馬鹿な真似はやめろ。何処に行く気だっ」
賢い兄は雛菊の決意を知って引き止めに来たのだ。大地の強い説得は十一回目の鐘の音に負けずに届く。
それでも長い長い間待たせて来た約束には敵わない。
この恋には敵わないのだと、雛菊は精一杯の明るい笑顔を見せる。
「お兄、ごめん! 私、やっぱり行ってくる」
もう戻れる可能性はないのだと知りながら、それでもせめて心配は少しでも和らげようと声を張り上げ手を振った。
「ちょっと、シャナの所まで」
十二回目の鐘と同時に雛菊は爪先で地面を蹴り上げ、扉の中に飛び込んだ。




