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シャナと花のバラッド  作者: 藤和葵
第四章・願い事ひとつ
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12.キク

 

「もう、私、ラキーアなんて知らない!」


 大地が部活から帰宅するなり、雛菊はそう宣言をした。

 夜の久遠家。母は父の帰宅に合わせて夕飯の支度、その父は入浴中。妹雛菊は居間で宿題の最中。一見にしていつもと変わらない風景ではあるが、突然そう憤慨して言ってきた妹に大地は目を丸くする。


「――それはいい事だと思うけど、どうした急に」


 口には出してはいなかったが、ずっと未練を引きずっている様子を見てきた大地としてはその心変わりが気になるだろう。

 雛菊はぷりぷりといった擬態語が出ていそうな様子で口を真一に引き締めて不機嫌を露わに、「別に」と心境の変化を教える気はなさそうに答える。


「まあ、理由はいいんだけど少し安心した」


 素直に気持ちを吐露すれば、雛菊は苦虫を噛み潰した顔になる。


「そうだよね。お兄は私がラキーアの事を考えるの、嫌な顔で見てたもんね」


 だから雛菊は後ろめたさから余計にあちらへの想いを口には出来なかったのだが、期待も未練も完全に断ち切ると決意した今はそんな大地の態度にも口が挟めた。今度は大地が苦虫を潰す番だ。


「嫌な顔とかしたつもりはねーよ。ただな、お前がまたあっちへ戻る気だと思ったら色々不安だったんだよ」

「不安? 私、戻っても必ず帰るつもりだったよ?」


 兄にそういう心配をされると心なしくすぐったくなって、雛菊は照れながら言う。その恥は大地にも伝染し、彼は「そうじゃない」と口調を荒くし、キッチンにいる母に聞こえないようにすぐに語意を抑えた。


「戻る戻らない以前の話だ。俺だって、最初お前が目の前で向こう行った時は、その後すぐに帰って来た時は、それで終わりだと思ってたよ。アリスとかオズの魔法使いとかの童話がそうみたいにさ」

「うん。だからそのつもりだったんだってば。予定より早く帰って来ちゃったから、ラキーアに戻りたかったんだけど、それだってもうどーでもいーし」


 後半投げやりに言って、雛菊は会話を終わらせたい素振りを見せる。


「……私だけ必死になるのも馬鹿みたいだしさ」


 ぼそりと呟いた独り言は大地に聞こえたかは分からないが、雛菊は「だからとにかく終わった事なんだ」とだけ言った。


「ヒナの中で終わったならいいんだよ。向こうでの役目が半端でもそれで」

「どういう事?」


 まるでまだ何かあるような含みに雛菊は首を傾げる。大地はその視線に自信薄と頭を掻き、難しそうに僅かに唸った。


「どうって、確信なんてないぜ? それに、ヒナの下手くそな説明を聞いた上での想像だから考え過ぎかも知れないんだけどさ」

「前置きはいい。なんなの」


 ムッとして促せば、大地は両親が来ないのを確かめるように目配せして、より声を潜ませた。


「――セラフィムを続けるのは危険だと思うんだよ」

「……何で?」


 ドキッとして、聞き返さなければいいのにと思いながらも、雛菊の口は動いていた。大地はそんな妹をどこか探るように見て、あくまで想像の過程だけどと口火を切る。


「普通に考えりゃあまりにもご都合主義な存在じゃないか? セラフィムって。望めば死人さえ生き返せるとか、チートだろ。どんな法則だ。話で聞く分では雛菊自身の判断で決めるから、少なくとも願いは制限出来るとか言うけどな、それはそんな簡単な話か? 例えばナイフ突きつけられて脅されてみろ。セラフィムであるお前はどうするんだ。仮に悪人でなくてもいい。純粋にセラフィムにすがってくる奴があまりにも無茶で法則を無視した願いを引っさげて来たらお前はそれも片っ端から叶えて行く気か?」

「そ、そんな事にはならなかったもん。セラフィムと分かってからは殆どお城で暮らしてたし、見た目だけじゃセラフィムとは分からないし」

「そりゃあお前が覚醒してからの滞在時間が短いからだろ。大体城で暮らすとか、要は一国家が囲ってたって事じゃねぇか。世界の一つの国が独占してたんだろ? そういうのって戦争の火種にならないか? セラフィムがありゃ怖いもんなしなんだろ。魔法があっても精霊がいてもそこが御伽噺の世界じゃないなら、そんな生々しい現実は起きたんじゃないのか? そんな詳しい所までは聞いてないけどさ」

「……知らない」


 嘘だ。

 本来は大地の指摘する事は起き始めていた。実際に攫われた事もあった。そこは敢えて雛菊が伏せた箇所だ。家族を心配させまいという気遣いと、戻りたいと願う雛菊の気持ちが反対されないようにと。けれど大地はそれも読んでか見事に言い当てた。それは雛菊が兄の賢さを感心すると同時に、面倒だとも思わせる。彼としては雛菊の気持ちが済んだものだと確信したから口にしたのだろうが、何故か聞く本人としては釘を刺されている気になる。


「新聞とかないのか?」

「あるけど字が読めなかったよ」

「まあ、そうだろうな」


 あっさりと引き下がり、大地は「平和ならいいんだけど」とゴチる。もう戻らないと強く決めて宣言はしたものの、また雛菊の中で黒い影がのしかかったような気分だ。もう、うっかり気が変わったなど言い出せないよう出口が塞がれたと言ってもいい。


「あ、そうだ。これもヒナの話から気になったんだけどさ」


 ひとまず部屋で着替える為、一旦居間を出ようと立ち上がった大地が思い出したように顎を上げた。


「ヒナ、セラフィムの力を使ってたみたいだけどさ、特に異変はなかったよな」

「え、覚えないけど。なんで?」


 唐突な質問に眉を顰めれば、大地は安心した面持ちで何でもないと笑う。


「ないならいいよ。よくあるだろ。巨大な力を使う場合、それに伴い代価を払うようなの。漫画とかゲームの話だけどな。だから一応、念の為?」


 言ってる本人も考え過ぎだと軽く笑い飛ばしながらだったので、雛菊も吹き出す。


「もう、ホントに何もないってば。お兄、漫画読み過ぎなんだよ」


 やっといつものやり取りを取り戻した所で、大地はパタパタと二階へ上がり雛菊は一息つく。

 気になる事はあったけれど、もういいのだと考えに蓋をした上で重石を乗せる。

 考えない。決めた事だ。

 どんなに意味深な夢を見ようが、不思議な事が身に起きようが結果振り回されてばかりだ。

 だから、もういいのだと雛菊は堅く誓う。

 あれから時間を置いては不可解なメールが届くが中も見ずに消去している。

 それに大地の危惧している通り、ラキーアは雛菊の日常よりも危うい状況だ。何もそんな渦中に舞い戻る必要もないだろう。

 分かっているのに戻りたくてもがいたのは、誰の所為だとか、それも考えるのはやめた。

 世界に意思があるとしたら、ラキーアは随分意地が悪いと雛菊は考える。

 思えば最初の頃から何年も何年も焦らされ待たされて始まった。

 境界を越えるのを選んだのは雛菊の意志だが、強制的に戻された後、忘れられずに想いを焦がしていると期待をさせては裏切って現れない。逆に忘れようともがいていると不意に思わせ振りな行動に出て、乗れば反る。それを僅か数ヶ月の間に繰り返されれば、もう向こうがどうしたいのか考えるだけ疲れるというもの。だから大地にも宣言をしたのだ。

 それなのにどうだろう。

 雛菊はうんざりと息を漏らした。



 * * * * *


 ――此処は緑の海が天井に広がる大樹の下。即ち、あの意味深な夢の中だと悟るのも早かった。

 いつもと違うのは、恐らく昔のシャナと思わしき子供がいないのと、いつもは大気のように漂っていた雛菊の意思がこの地に形を持って在るという所だろうか。


「これはさすがに私も怒っても仕方ないと思うの」


 向かいに立つ影に悪態吐いた。

 夢だと思えば何が起きても驚かない。そこには学校で噂のおハナさんと思わしき少女がじっと佇んでいた。

 最初に話を聴いた時から心当たりのあった容貌。実際に姿を見ればそれが繰り返し見せられる夢の中の人だとすぐに気付いた。

 恐らく昔のシャナを知る人で、ラキーアの人。

 そのおハナさんは花を探しているという噂。

 ラキーアの存在で花と言えばすぐに思い浮かぶものは一つしかなかった。


「やめてよ。今更私を呼び戻そうとするのは」


 あんなに忘れようとしているのに、あの世界は引っかき傷ばかりを残して行く。


「どうせ、結局また何も起きないんでしょ!」


 責めるようにおハナさんに詰め寄れば、彼女は真っ直ぐに雛菊を見据え、ふと腕を雛菊の後ろに回すと優しく頭を撫でてきた。


「落ち着いて」


 そう言われた気がして雛菊は黙る。

 改めてよく見るおハナさんは、雛菊とあまり変わらない年頃に見えた。もしかしたら一つ、二つは年上なのかも知れないが西洋人風の顔立ちは読み取り辛い。

 亜麻色の長い髪は背中で柔らかく波打ち、鳶色の瞳は柔らかい雰囲気の中に意志の強さを秘めているように見える。

 此処まではラキーアでよく見る人種と差異はない。あちらの世界はどちらかと言えば西洋的な面立ちが強く、雛菊のようなアジア系の人種は殆ど見たことがなかった。しかし彼女が身に着ける着物は明らかに向こうでは見ない、むしろ雛菊側の世界で、それもこの国で見られる形態なだけに引っ掛かる。


「あなたは誰なの?」


 シャナとはどんな関係で、一体何者か。うっすらとどこかで気付きながら雛菊は問う。おハナさんはその言葉を咀嚼するように目を伏せると、数秒後、また目を開いて雛菊を見た。


「……わたしはキク。わたしはあなた。わたしはあなたの姉妹。わたしは一輪の花から落ちた種。わたしは――セラフィム」


 ああ、やっぱり。

 予感は確信になった。ずっとどこかで感じていたものはこの繋がりなのだと理解した。


「あなたも……キクさんも私と同じ世界からラキーアに来たの?」

「……わたし、父が異人で、母は戦で死んで一人だった。優しい住職様のお世話になってた。でも、気付いたらセラフィムだった」

「日本人だったんだ」


 だから着物だと納得する。言い種からすると明治以前だろうか。そこは聞いてもキクの答えははっきりしない。


「……ねむいの。もうずっとずっと前から眠っていたの。でも、シャナが泣くから……」

「シャナが泣いてるの?」


 聞き返すとキクはゆっくり頷く。いやに動作がのんびりとしているのは、実際に眠いかららしい。


「わたし、新しいセラフィム待ってた。ずっと待ってた」

「私を待ってた? ずっとってどれくらい。だから眠いの? シャナはなんで泣いてるの?」


 我慢ならないのか、とうとう膝を崩したキクが本格的に寝入らないように雛菊は肩を揺すって必死に起こす。キクは眠い目を擦り、欠伸をかみ殺して何とか堪えようと顔を上げた。


「シャナは寂しいんだ。わたしのせいでシャナは寂しくなった。だからシャナは泣く。わたし、シャナの願いは聞けない。シャナを救えるのあなただけだから」

「でも、シャナは私をいらないって突き返したんだよ……?」


 ぼんやり、思い出したくない記憶を引っ張り出せばキクは胡乱な様子で、微睡む身体を引きずり、大樹の根元に湧く泉に右手を浸した。

 ぐるぐると水面に弧を描き、波紋が広がる。十分に泉が渦を巻いた所でキクは手を抜き出して水面を雛菊に見るよう促した。


「今、あなたは選べる。あなたは元の世界で平凡な幸せを見付けて穏やかに過ごせる。多分、これが一番幸せ」


 そう言われた波紋には一つのビジョンが映し出されていた。

 今の世界でごく普通の生活をしている雛菊。少し雰囲気が違って見えるのは今より先の事なのだろうか。幸せそうに微笑む雛菊の隣りには中谷がいた。

 ――私、中谷先輩と恋する未来もあるんだ。

 ふとしたときめきに心当たりがなくもない雛菊は、くすぐったくその光景を眺める。


「これは現時点での高い可能性。あなたの幸せなら、今のままでいい……でもセラフィムを望めば運命は変わる」


 今度は左手で水面を撫でてキクは映像を掻き消した。


「セラフィムは因果なもの。主の幸せを願ってしまう。だからあなた個人を守るシャナ、正しいかもしれない。だけどわたし達はシャナを解放したいの」

「達……て、言ってる意味がよく分からないよ。私にどうしろって言うの。シャナの願いを叶えようとして拒まれたのにこれ以上何が出来るの?」


 つい口調を強めて雛菊はキクににじり寄る。キクは眠たげに瞼を擦って、耳に入っているのかも怪しい。雛菊の質問に答える素振りはないが、半ば船を漕ぎつつも右手を再び泉にさらしかき混ぜ始めたので黙って一応待つ姿勢を決めた。

 ぐるぐると渦巻く水面は、暫くかき混ぜるととろりと蜜色に変化する。


「……わたし、もう眠いの。だからあとはあなた、此処に飛び込んで見て来て」

「何を?」

「星の記憶」

「星?」

「セラフィムの生まれた理由」

「セラフィムの……」

「ラキーアに戻りたいなら耳を澄ますの。小さな小さな哀願が聞こえたら帰れるから」

「あの、もうちょっと具体的に……」

「これは我が儘……傍迷惑な願い事……それでもわたし達は愛せずにはいられ、ない……」

「ちょ、キクさんっ? キクさーん⁉︎」


 途端、かくんと頭が落ちたキクの肩を揺さぶって呼び掛けても心此処に在らず。深い眠りに落ちて目覚める気配はない。


「此処で寝落ちはないでしょー!」


 あまりの落差にふにゃりと雛菊の肩の力が抜ける。

 多分、恐らく凄く大事な話をしていたと実感していたのに一気に緊張感が飛んでしまった。どうにも気を張り直そうにも難しいので雛菊は視線を下に泳がせる。

 くたりと猫のように背中を丸めて寝入るキクが再度目覚めがないのを確認すると次に泉を覗く。

 蜜が溶けたように輝く水面。飛び込めと言われたからには従った方がいいだろうか。どうせ他に蹴りの付け方も思い浮かばないし、どうせ夢だし。

 逡巡はほんの少しで終わり、雛菊は意を決すと足からポチャンと思いきり飛び込んだ。

 泉の中は水気は全くなく、不思議な浮遊感がまとわりつく。この感覚は最初に扉を開けた時と同じだなぁと懐かしい記憶に馳せながら意識はだんだん遠退いていった。

 温かい何かが身体の中に染み込んでいく。

 それをぼんやり感じながら、雛菊はただただ流れに身を任せる。

 これはまるで赤子を乗せる揺り籠。ゆらりゆらりと呼吸に合わせて血潮が揺れる。新しい何かが血肉と混ざる。

 ふわりふわり。

 誰かにこの身を抱かれるような感覚に酔いしれている内に、朝を迎えていた。

 それは静かな朝だった。鳥が鳴かない雨降る朝をカーテンの隙間から覗き見て、雛菊は静かに泣いた。

 悲しくて苦しくて切なくて寂しくて愛おしくて涙が次から次へと零れ落ちる。


 ――今日がどちらかとはっきり別れを告げる日だと知っているから、一方への別れにどうにも泣けてたまらないのだ。

 

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