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シャナと花のバラッド  作者: 藤和葵
第四章・願い事ひとつ
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11.おハナさん

 

 例年より短い梅雨も明けてすっかり夏盛り。

 早くも連日の真夏日に根を上げながらも先日終わった期末テストからの開放感と、間近の夏休みを前に期待を膨らませていたから空が悪戯を企てたのだろうか。

 まるで南国を思わせる突然のスコールに雛菊はたまらずにこの界隈では御神木と名高い楠の下に避難する。

 幸い雲の流れから通り雨だろうと木の下から空を見上げて雛菊は幹に背中を預けた。

 少しささくれ立った幹が時たま背中を刺すようだが、男の人が腕を広げても抱えられない太い幹は安定感があって落ち着く。

 御神木はなんてことはない民家の立ち並ぶ通りの真ん中にでんとはばかる、少しばかり樹齢のある楠なのだが、あまりにも立派な出で立ちからこの木を残す住民により今では通学路のシンボルだ。

 神域でもないので御神木という呼称はほぼ愛称に近い。しかしそこに人よりも長く根を張る楠は事実上確かな神木としての威厳があり、背中を預けながら雛菊は密かに夢で見た大樹と重ねた。

 夢の大樹はこの御神木とは比べ物にならない巨木だが、あれも神木に類するのだろうかと考え、雛菊は頭を振る。


「……馬鹿だなぁ」


 呟いて嘲笑。未だ完全に断ち切れない未練を持つ自分に何度辟易した事だろう。

 元の生活に戻っておよそ二ヶ月。もう向こうへの扉は現れないのだと思い知らされてからは全く夢すら見なくなったのに、ふとした拍子に色々な感情が蘇る。

 そんな時は唇を引き絞って数えながら深く呼吸をする。

 アスファルトに滲みた雨の匂い、遠くから聞こえる車の音。ラキーアにでは感じないものを探して、自分の居場所を自覚する。それからナイロンの学生鞄の中から伝わる携帯電話の振動。


「……ん?」


 携帯電話が震えるという事はメールか着信が入ったという事だ。

 何だろうと雛菊は鞄を雨垂れに気を遣いながら携帯電話を取り出す。サブディスプレイはメール受信を知らせる絵柄が表示されていた。

 誰だろう。

 受信ボックスを開くが、心当たりのないアドレス。しかも何とは読み切れないようなただの文字と記号が羅列されたアドレスだから、内容から知り合いの誰かか判別するのま難しい。本文に至っては空白で、つまりいわゆる空メール。


「なんか、気味悪いなぁ……」


 得体の知れない不気味さがある、差出人不明のメールは即削除。間違いにしたって、フォルダに残したままにはしたくない。

 親指で決定キーを押すと雛菊はケータイをぱくりと閉じて鞄にしまう。顔を上げれば雨は上がり、引いた雲間から水に溶かしたように薄い色の空が広がりを見せていた。

 ……虹は、ない。

 だからと言って雛菊は落胆するのはもうやめた。あの世界は自分が関わるべきではないものだと思えば諦めもつきやすい。

 大体、私が世界をどうこう出来るとか手に余るものだし。

 心で呟き、雛菊は前を見据えて一歩踏み出した。


「あ、ヒナちゃん」


 背後から聞こえた声に振り返る。見知った顔がこちらに駆け寄って来た。


「中谷先輩」


 雛菊が声を張り上げたのは中谷がすっかり濡れ鼠と化してたからだ。


「さっきの雨に降られたんですか?」

「そーそー。ランニング中にザバーってな。雨宿りする屋根もない所でさー」

「風邪、引きません?」

「部室に着替えもあるから平気。あ、でも肩が冷えたら監督とか久遠にすげーキレられるかも」


 苦笑いの中谷に雛菊も笑い返しながら、ささやかばかりだがタオル地のハンカチを渡す。中谷が首に下げたタオルは絞った所で使い道もなさそうだったので。

 中谷は初めの内は戸惑いがちだったが、結局は肌につく雫が鬱陶しかったようで、顔と首回りを拭いて、今度返すとポケットにしまった。

 あの日以来、中谷とは顔を合わせればいくつか言葉を交わす仲だ。

 多分、中谷の前で大泣きする所を見せた所で親近感を持たれたのだろうなと、雛菊は思っている。弱みを見せたから、友人の妹だからという所が多分きっかけなのだろうと。

 案の定中谷が雛菊にかける言葉は兄貴然としていて、大地とはまた違う大型犬タイプの人懐っこい兄が増えた感じだ。中谷に憧れる雛菊の友人を筆頭に同学年の女子はそれを羨ましがるが、どう考えてもこの先輩との間に心浮つくような会話は特にないのだ。


「そう言えば中谷先輩、前の練習試合で怪我したってお兄から聞いたけど、大丈夫なんですか?」

「軽く手首を捻っただけだよ。筋は痛めてないし。でも監督も久遠も完治するまで絶対ボールを触らせる気はないんだよなぁ」

「だから一人でランニングしてたんですね」

「これで雨に濡れて肩冷やしたとか言われたら理不尽だと思わねぇ?」


 しみじみと溜息をつく中谷を見上げて、雛菊は「お兄ちゃんよりは弟ってこんな感じなんだろうなぁ」とぼんやり思う。いつの間にか中谷はランニングをやめ、雛菊に合わせて歩いていた。それに気付きながらも、雛菊は中谷との話は楽しいので敢えて触れずにいた。

 中谷はとても話しやすい人だった。

 同じクラスの男子と印象が違うのは、一つ先輩だから感じるものかも知れないけど、話し方がとても親しみやすいのだ。

 中高生にありがちな、敢えて悪ぶった荒い口調ではなく、かと言って語彙力の少な過ぎる今時の子の話し方でもない。彼の性格に合うような、柔らかい、また軽やかで敷居が高くなく、心地のいい抑揚を持って話す。

 その軽さはどこかでアサドを滲ませた。彼は王族の印象を感じさせない敷居の低さで、親しみを覚える話し方をする人だった。


「あ、もう折り返しか。ヒナちゃんは帰るよね」

「用もないのに普通、此処で学校に戻る事はないかと」

「だよなー」


 笑って軽く別れを告げると、中谷は背中を向け学校に折り返し、雛菊は高台の住宅街に続く階段を上る。以前、虹を追い掛けた階段だ。

 此処は通学路なので、毎日あの絶望した日を毎回この場所で思い出す事はないのだが、今日はあの日居合わせた中谷がいるから苦い思い出が胸の中にじわりと染みになる。

 雨の度に、状況が重なる度に思い出して傷付いてはこの先問題だと自覚はあるだけに困りものだ。

 階段を四、五段上がった所で何とはなしに雛菊は振り返る。

 そう言えば自分に合わせて歩いた中谷が今頃折り返して学校に戻ると考えると、経過した時間などを踏まえて濡れ鼠の中谷の体が気になったのだ。部室に戻れば着替えがあるのに、彼は濡れたままそのまま通常通りのランニングコースを続行していた。

 風邪など引かないか、無理はしていないか。それが不安になったのだ。

 しかし振り返って驚いた。

 折り返し戻っていると思った中谷は大して別れた場所から動きはせず、雛菊の方をどこか固い表情で見ていたのだ。雛菊は中谷の姿を探すつもりでいたものだから自然と目があった。思いの外気恥ずかしいと感じる。

 雛菊の顔を見た中谷は、何故かほっとした表情でふわりと微笑を浮かべ、彼は静かに言った。


「良かった、泣いてないんだね」


 ドキッとした。どうしてそんな事を言うのかとか、どうしてそんな風に笑うのかとか。

 戸惑って咄嗟に言葉を返せないでいると、察した中谷が答えを出す。


「今日、雨降ったけど、虹が出なかったよね」


 前、それで凄い泣いてたからちょっと心配してたんだけど、余計なお世話だった。ごめんね。

 そう少し早口で言うが早く、中谷もばつが悪かったかそそくさと走り去って離れてしまった。

 立ち止まっていた分を取り戻すように中谷の足は速かった。たちまち遠くなる中谷の背中に向かい、雛菊は恨み言を言いたくなった。

 言い逃げだ。

 声にならない声で雛菊は唇だけで呟く。

 やはりあの日の醜態を印象に残されたのは釈然としないが、それ以上に不意打ちの衝撃があった。


「中谷先輩、今のはシャナみたいな物言いでズルいよ……」


 文句を言える相手がいないので、ただの独り言だが、吐き出したくて仕方なかった。

 鼻の奥がツンとしたが、これ以上は負けた気がするので、意地でも涙は堪えたけれど。



 * * * * *


「ねぇねぇ知ってる? 最近さ、うちの学校さ、出るらしいよ」


 ある日の事。午後一の数学という比較的やる気の出ない授業が急遽自習になった。

 一応、間に合わせのように課題プリントが出されたが、監視のないクラスは野放し状態で、雛菊達は友達同士固まって問題を分担して片付けようと机を固めていた。が、勿論女子が集まればいつしかプリントよりも会話が、しかも内容もあってない雑談に比重が置かれる訳で、気付けば怪談話で盛り上がる流れになる。

 そして、冒頭の一言だ。


「出るって……アレ?」


 別の一人が声を潜ませて尋ねる。直線的な言葉ではないが、先程からの流れなら確実に伝わるニュアンスで情報提供者の彼女は両手を胸元の前でぶらりと下げて頷いた。


「もう何人も見たんだって、この棟の屋上階段の手前で目撃者が出てんの」

「えー、それってうちらの一年教室フロアじゃん。やだ、なんか怖くなってきた」


 出没場所が自分達一年生の区域だと知り、更に周囲が高い声を上げる。行き来が不便な四階と三階の一部の教室は、若輩者の一年生に割り当てられていて、従って屋上に続く階段も一年生フロアになる訳だ。


「ヒナちゃん、お化けが出るんだって」

「急にそんな噂が立つと、何か事情を感じるよね」


 肩を上げて身を縮こまらせる桃子に、雛菊も苦笑い。

 学校なんて場所は得てして怪談話が後を絶たないが、大体がどこかで聞いたような定番、ありきたりな所の内容が名を変え姿を変えて面々と先輩から後輩へと語り継がれる。だから今回急に湧き出た噂は信憑性があるようでもあり、ふざけた誰かの作り話のような感もある。


「幽霊ってどんな姿なのかなぁ」


 ふとした疑問を口にすれば、情報提供者は待ってましたと雛菊を見て自信満々に笑みを浮かべる。


「それがさぁ、なかなか余所では聞かない珍しい幽霊なんだよね」


 珍しい。それはどんな姿かとそれぞれが頭に疑問符を浮かべた所で、彼女は得意気に答えを出した。


「着物を着た外国人。……なんか意味ありげで珍しくない?」

「珍しいっちゃ珍しいけどさぁ」

「なんでそんな幽霊が突然学校に出るのさ」

「意味ありげってか、一気に胡散臭い」


 いわゆるドヤ顔で反応を伺う彼女だが、一変して周りの少女達は落ち着いた返事になる。


「大体さぁ、着物を着た外国人ってイメージ湧きにくいし」

「それがさぁ、きっちりした着物ってよりは浴衣みたいな感じらしいよ。ほら、時代劇でちょっと貧乏な町娘が着てるような」


 一人が口にした所で、少女は負けじと更に噂を引き出すが、時代劇を引き合いに出されて更に聞く方は胡散臭さを増すばかりだ。


「着物を着た外国人かぁ」


 ふと何かひっかかりを感じて雛菊が一人ごちると、隣にいた桃子が耳聡く尋ねる。


「ヒナちゃん、心当たりあるの?」


 心当たり。

 問われて雛菊はあるようなないようなモヤモヤとした感覚を掴み損ねていた。


(なんだっけ。凄く最近、覚えがあるような感じなんだけど。そんなドラマか映画見たっけか)


 んーと首を傾げていると、情報提供者の少女は、周りの冷めた反応に牙を向くように、おそらく取って置きだろうオチを出す所だった。


「そんな事言って、その幽霊は女子生徒の前でしか姿を現さないんだから、あんた達、そん時になってビビんなよー!」


 些か負け犬の遠吠えな締め括りではあったが為に、その日の怪談は若干の嘲笑が混じらせて幕を閉じた。

 しかし、その嘲笑はすぐ翌日にはなかったかのように取り消される事となる。

 雛菊のクラスの女子が、噂の着物を着た外国人に遭遇したからだ。


 「出た! 出た出た出たよ!」


 興奮した声が生徒が登校しつつある朝の教室の喧騒に負けじと響く。

 雛菊が登校してクラスに入った時、丁度、その盛り上がりが幕を開けた頃だった。


「昨日、出た、着物を着た外国人!」


 昨日の目撃との話だが、熱も冷めぬようで声高に少女はクラスの女子の輪の中心で拳を握り締めた。


「昨日さ、課題の教科書取りに部活抜け出して教室に戻ったんだよ。したらその帰りにさ、出た!」


 生唾を飲み込み、少女の声に力が入る。ソフトボール部で控えの捕手として、普段から声を張り上げている彼女の声は顰めても芯が通り、聞き取りやすい。


「それで、どうだったの⁉︎」


 一人が目撃者に尋ねる。

 周りにいる女子が、その場にいた男子も固唾を飲んだ。

 日常に些細でもいい、例え嘘でも新鮮な非日常は心を掻き立てる。まるで少し前の自分を重ねるように雛菊も次に発せられる言葉に耳を傾けた。

 そして、目撃者は語る。

「別になんともなかった」

 周囲が肩透かしを食らってずっこける。

 無駄に前振りデカくすんな。

 見せかけだけのゾッとする話かよ。

 稲川さんに謝れだの、団結してクラスは騒がしい。

 結局はただ「見た」だけという情報に周囲の関心も薄れ、雛菊も昨日のドラマについて話しだす桃子へと関心が移る。

 だが、クラスの喧騒に紛れてソフト部の目撃者の子が、別の友人に向けた言葉は聞くべきして聞いたように耳に入った。

 ――なんかさぁ、あのユーレイ。なんかの花を探してるみたいだったんだよねぇ。

 花を探しているユーレイ。通称“おハナさん”の噂は一年生を中心に瞬く間に校内に広がった。

 人気の途絶えた夕暮れ、屋上へと続く階段の踊場付近はすっかり心霊スポットとして名を上げ、噂が検証される度にまことしやかにある条件が怪談に足されていく。

 男子生徒がいる前でおハナさんは現れないだとか、一度出会った女子もそのおハナさんを見る事はないのだとか。

 そして目撃した女子は言う。

 おハナさんは花を探している。

 だけど不思議な事に花を探しているおハナさんは、出会う少女の顔を見てはこうも言うのだ。

「あなたじゃない」と。


「だからね、一人じゃやなの。お願いヒナちゃんっ」


 おハナさんの事が生徒達に認識されるにつれ、やたら怯える女子も増えた。桃子もその一人に数えられる。


「しょうがないなぁ。もっちゃん怖がりだもんね」


 小学生時代から幼なじみの彼女に何度トイレに付き合わされた雛菊は、殆ど儀式的に渋る顔を見せて頷く。

 承諾しておいてなんだが、課題プリントの忘れ物なら学校出てすぐに気付いて貰いたかったと思わないでもない。桃子が教室に忘れ物に気付いたのは、学校から家までの丁度中間と言った御神木に差し掛かった辺りだったので、引き返す頃にはすっかり陽も傾いていた。

 夕方の一年生教室と言えば、噂のおハナさんの出現ポイント。

 昔から怪談やお化けと言った類いが苦手な桃子が付添いを頼むのも無理はない。


「……大丈夫。何ともないよ」


 しかし。と、雛菊は先に四階フロアに足を踏み入れて後に続く桃子に言う。思わず生唾を呑み込んだ音が彼女に聞こえなければいいと思った。

 桃子の過度な怖がりのおかげか、怪談系に対する恐怖が低い雛菊でも放課後の学校というものに感じるものがあった。

 人の気配がないだけで、しんと張り詰めた校舎は空気も冷たく、意味もなく変な不安をもたらす。

 体育館や武道館、運動場や他の棟なら部活動に励む生徒もいて、全く人がいない訳でもないのに不思議な孤独感。別の棟から聞こえる吹奏楽部の管楽器の響きも、何処か世界を切り離したように聞こえる。

 落陽に赤く染まる廊下がまた異界感を演出しているのかも知れない。

 そう思いながら西日に目を細め、雛菊は探し物を手に入れた桃子に急かされてまた来た道を戻る。


「何も出なくて良かったね」


 目的を達成した桃子は安堵の表情を見せる。本当はこれからが正念場で、階段を下降する時に件の場所に再接近をするのだが、彼女としては不安要素の忘れ物が手に入った引換に恐怖感を忘れたようにも見える。

 実際、戻り道でも噂のおハナさんは現れなかった。

 そこで初めてがっかりした自分に、雛菊はおハナさんに出会う事を期待していたと気付いた。

 自然と漏れた溜息は桃子に気を使わせてしまい、申し訳なくなる。


「付き合わせてごめんね?」

「いいよ、平気。何もなくて良かったよ。もっちゃんが怖い思いしなくてすんだし」


 笑って答えれば、安心したように小さな桃子はふわりと笑う。

 親友を怖がらせるものなら、出ない方が正解なんだ。

 半ば自分に言い聞かせるていと、鞄の中のケータイがぶるぶる震えた。

 歩きながらケータイを確認すれば、新着メール受信の通知。桃子と話をしながら何気なく開封して中を見て雛菊は目を丸くした。


『みつけた』


 ただ一言。

 それだけの文面。

 なのに雛菊の心臓はばくばくと跳ねる。

 慌てて今降りてきた階段を振り返って見上げた。

 誰もいない。否、壁の向こうに消えるように長い金糸の髪が見えた。雛菊は階段を駆け上がる。

 噂のおハナさん。

 花を、少女を探すユーレイ。

 そして雛菊に宛てられたメール。

 これは全て一つに繋がる?

 点と点とが繋がって、一つの期待に導かれる。

 もしかして、もしかして。

 蘇る期待。

 あの日の雨の日のように階段を三段飛ばしで駆け上がる。

 ユーレイらしき影は雛菊を屋上に導くように消えていく。

 顔は見えなかった。ただ、少し褪せた朱の着物に黄金の長い髪が浮き世離れに映えていた。

 あなたは誰。

 そう問いたいけれど、それよりもその先に焦がれて雛菊は屋上へのドアノブに手を伸ばす。

 ガチリ。

 捻ったのぶは半分も行かず、錠にせき止められて固く口を閉ざしていた。

 よくよく考えれば生徒の立入を禁ずる場所の扉が開放されている訳がない。

 分かっていた筈なのに、もしかしたらと淡い期待を抱き、見事に打ち砕かれた雛菊はもう歯噛みするしかなかった。


「――もうなんなのっ!」


 今度は涙じゃない。蓄積された焦燥感が怒りに任せて扉を殴せ、叩かれた鉄の扉が空しく反響するだけ。

 

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