10.私と世界を繋ぐもの
「でさ、もうそこで逆転ゴールを決めちゃう中谷先輩がスッゴくかっこよかったのーっ」
元の世界に戻ってから、五月を迎えた雛菊は、つい先日あった新入生歓迎球技大会に盛り上がる桃子の話に耳を傾けていた。話題の中心はバスケ部の二年レギュラーの中谷という上級生だ。
バスケ部という事もあり、長身で、顔もモデルのスカウトがあるぐらい端正であるから女子にも人気が高くて有名だ。
「バスケ部はラスト二分前にしか出れないルールだったのに凄いよねっ」
惚れ惚れと自慢の写メを広げる桃子。少しブレてはいるが、最近の携帯のカメラ機能は精度を上げているので悪くはない写りである。
「あ、良かったらヒナちゃんにも送ろうか? ケータイ買い直したんでしょ?」
今にもメールを送りそうに携帯電話を構える桃子を慌てて制して、雛菊は手をぶんぶん横に振る。
「お兄の友達の写メ貰っても気まずいだけだって」
実は同じバスケ部の兄、大地の繋がりで雛菊は桃子憧れの先輩と顔見知りだ。
かと言っても特に親しい訳ではなく、二、三言葉を交わした事がある程度である。しかしその程度でも気恥ずかしさはあるもので、更に言えば当時中学生だった雛菊には高校生の先輩というものに大人の風格と格好良さにほんのり憧れを抱いた時期もあった。
(アサド君のが凄すぎてちょっと霞んじゃう……って思ったら失礼かな)
今まで見た中での美男子代表の顔を思い出し、はたと雛菊はその彼の記憶を頭を振って掻き消す。
どうしたのと桃子が訝しむのを何でもないと誤魔化すか、果たして誤魔化せているのかは分からない。
そもそも忘れようと意識する事は逆に記憶を鮮明するもので、雛菊には全てをなかったものにするのは困難になっていた。
「忘れる」という行為は存外難しい。
特に異世界での経験など何もかもが新鮮で、此処では味わえなかった記憶ばかりなのだ。
そこで出会った人も然り。
王様など、この世界では単なる一般人の雛菊が謁見するなど夢のまた夢。老体でありながら若者には負けない腕を持つ女性騎士や、気難しいけれど心を許した相手には忠実な精霊師、流れるような長い金の髪が獅子の様に雄々しい王子様。初めて愛の言葉を囁いてくれた人。
――そして、少年とも青年ともつかない、初めて恋した人。
思い出しても詮無い事と、また蓋を閉じる。
(忘れようと決めたんだから、いちいち比べてたらキリがない、よね)
自分に言い聞かせるように考え、それに――と雛菊は大地の顔を思い出す。
(私がラキーアの事を考えると、お兄が嫌な顔するしね)
妹の消失を目の当たりにした大地は両親よりも過敏な気がある。
(あんまり心配させないように、私から以前の日常を取り戻さないと)
少なくともあの夢を見ずにすむくらいには。
退屈な授業、他愛ない友達同士の会話、恋バナ。それが本来の雛菊の日常だ。
「やっぱり私にも先輩の写メ、ちょうだい? 一番写りがいいやつ」
両手を合わせてねだると、桃子は気前よく彼女チョイスの写真を数件添付してすぐに送信してくれた。
改めて新しいケータイで噂の彼を眺めて思い直す。
(さっきは変に比べちゃったけど、やっぱり騒がれるだけ格好いいな)
ほんのりときめく自分に気付き、これが普通の女子高生の感性だと再認識して雛菊は満足気に二つ折りの携帯電話をパクンと閉じた。
* * * * *
――またあの世界の光景。あの世界の朝。
グルニエとも取れるロフトで目覚め、朝食の支度をし、地下に眠る王子と魔法使いを起こす。
既に何回も見た夢だ。夢だと分かっているのにそれでも雛菊は無人のシャナの部屋を開く。するとそこは元の世界の自分の部屋――の筈だった。
しかしそこは自分の部屋でもない。シャナの部屋でもない。部屋ですらなかった。
まるで世界を支える柱のような青々とした大樹。その大樹が大きく空を覆い隠す枝の天井。そこからの木漏れ日が柔らかくまるで母胎のように丸く緑の世界に広がっている。
鳥の囀り、そよそよと葉と葉が擦れる音。突き出た大樹のアーチ状の根の下に湛える泉からは、水底に生えた水中植物が吐き出すこぽこぽと言う空気の音。
世界に無音は有り得ないのに、これを静寂と呼べる程に心は穏やかだ。
この何処か神聖な空気に身を委ね、雛菊はさらさらと目の前の長い黒髪を指で梳いていた。
長く背中を扇状に広がる黒髪。さらっとそれでいてつるりと滑る子供の質の髪を指で掬い、その感触を楽しみながら雛菊は一つ束に編んで纏める。
その様を何処かくすぐったそうに落ち着きなく屈託なく笑うクスクスとした子供の声が聞こえた。
「こんなにしてもきっとすぐ解けるよ」
「なら自分で纏めるようしなきゃ」
雛菊も笑い、仕上げに自分の髪を括っていた赤い紐を解いて結んであげる。毛束の先の蝶々を嬉しそうに眺め、子供は振り返りその蝶々と同じ赤い目を細めた。
「僕にはこんな器用に出来ないから、君が毎日ここにいて毎日こうすればいい」
そう言って子供……シャナは屈託なく笑うのだった。
はっと目が覚めた。
いつもとは違う夢に雛菊は頭を押さえ、ベッドから抜け出る。僅かにカーテンを捲ればまだ夜も明けきらず、朝靄が家々を包んでいた。空は薄墨のような雲が広がり、今日は雨だと告げている。
「虹、出るかな」
つい、口を出た期待。それは夢が抱かせた。
久々に見たシャナの夢。雛菊の知るシャナより僅かに幼く、まだあどけない顔付きのシャナ。
そのシャナが自分に向かって呼び掛けていた。
胸に何かが咲き綻ぶ感じがした。
嬉しくて嬉しくて、あんな一方的な別れだったのに嬉しくて溜まらず、雛菊はカーテンの端を握り、つい緩んでしまう口元を隠す。
期待に胸が躍る。
まだ向こうへの扉は閉ざされていないのかも知れない。
会いたい。やっぱりどうしても君に会いたい。
閉じかけいた想いが沸々と雛菊の心を逸らせた。
「あ、雨だ」
放課後、上履きを履き替えて玄関を出た途端降り出した雨に雛菊は肩を落とす……いつもならそうしてる所だが、今日は違った。
まだかまだかと、一日待った雨が地面に点々と染みを落とすのを雛菊は満足げに眺めてにんまり口の端を持ち上げる。
期待せずにはいられない。期待をするなというのが難しい。
いつもと違う、けれど、向こうの世界の夢を見た。ただそれだけだ。だが雛菊の扉は夢がきっかけだったのだ。今朝の夢が到底無関係とは考えられないのだ。
雛菊は朝からずっとそわそわしっぱなしだ。
雨はいつ降るのか。
虹は出るのか。
その麓に扉は現れるのか。
落ち着きなく何度も空を見上げては、大地始め親友の桃子に訝しまられた。だけど逸る気持ちは止められない。
雨が止んだら、虹が出たら。
うずうずとその場に足踏みし、曇天を見上げる。
雨は霧雨。傘なしで歩いても大した問題ではない。しかし気にする所はそこではなく、大事なのは虹が出る場所だった。
太陽を背にした方角に虹は見える。雛菊がその場所を見極めるべく爪先立ちで背伸びする姿は、人気のない放課後の下駄箱とは言え浮いた行動だ。
その様子を見咎める者がいた。
「ヒナ、何してんだ?」
「お兄!」
雛菊は思わず身を縮めたが、今更隠れる事は叶わない。出来れば会いたくなかった実の兄は、妹の行動に何かを察したらしく、呆れたように肩を竦め、「虹が出た所で何だってんだ」と、皮肉を零す。
これだから大地と顔を合わせたくなかったのだ。雛菊の未練を断ち切らせたいのが分かるから。
「何の話?」
「家族の話だから中谷は入ってくんな」
ひょこりと大地の背後から顔を覗かせた少年に、大地はきっぱりと話をそこで打ち止めた。
「冷たいな。で、そっちが久遠の妹? 俺、この兄貴の友達の中谷ね」
ぺこりと会釈し、柔和に微笑む長身の兄のツレに雛菊も会釈を返す。桃子も熱を上げる、学内で指折りの人気を誇る先輩の画像を持つ手前、ちょっと顔を合わせるのが気まずかったが当人は知る由もない。
「雨宿り?」
校舎の外の雨模様を見て、のんびり呟く中谷に雛菊は一瞬答えに窮したが、大地が「そう言っとけ」との目配せに頷いた。
「じゃあ俺らの傘入る? 俺ら大抵部室に置き傘あるんだよね。どうせこれから久遠ん家行くとこだったし」
遠慮しないでと突き出された傘を受け取り、雛菊は中谷先輩はどうするのだろうと視線を上げると、ちゃっかり大地の傘に半分身を詰め込んでいる。男二人肩を寄せ合いへし合う様を大地はあからさまに顔を不快に歪ませて中谷を突き出す。
「野郎と相合い傘とか正気かよ」
毒吐き、膝裏に来る中谷の蹴りにも動じず中谷はニコニコと傘から出まいと柄を握る。
「でも俺が妹ちゃんと相合い傘を見るのは微妙だろ?」
「微妙だな。身内が身内と引っ付いてんのは微妙だな」
「そんで自分が妹と相合い傘をするのも微妙だろ?」
「微妙だな。妹と相合い傘ってギャルゲーかよで微妙だな」
「それじゃあ俺とお前でしょっぱく相傘るしかねぇじゃん」
「相傘るってなんだ。てか、肩を抱くな気色わりぃ」
わざとらしく肩に手を置く中谷の脇腹に何度も拳を当てて渋面を見せる大地だが、傍目から見ても険悪さはなく、こうする姿は兄もただの男子校生だと感じる。それでも大地は雛菊の注意を現実に留めておきたい態で、結局雛菊は中谷の傘を借り、男二人は押し合いへし合いの相合い傘で一緒に帰る事になった。
雛菊はというと、実は鞄の中に折り畳み傘があるのだが、大地らに話を合わせた手前、なかなか切り出せずにそのまま同行する形になってしまっていた。本当なら落ち着いて雨上がりを待って虹を探したい所だったのに、そうも行かなくなりまんまと兄の思うツボだと短く嘆息。
大地は監視をしている。
雛菊がラキーアに気持ちを傾ければそれに水を差すのを窺っている。家族として妹を現実に引き止めるのは道理なだけに雛菊も邪険に出来ず、かと言って鬱陶しくない訳ではない。
心配をしてくれているのは分かる。雛菊としてはもしまた扉が開かれるなら迷いなく何度だって飛び込むつもりなだけに、そう言った気配が大地に伝わり、余計に警戒を強めている事も。
今日があの日のような天気でもあるから殊更に。
申し訳ないがそれでも雛菊は自分で自分を止められないのは分かっていた。
兄等と並んで歩きながらそれでも空を見上げてしまう。
薄墨を広げた空に七色は見当たらない。上ばかり見て歩いていた所為で水溜まりに危うく踏み込みそうなった所をさり気なく大地に助けられる。
「大地って、なんか過保護な。てかシスコン?」
「誰が。こいつがふわふわしてるからしょうがなくだよ」
中谷の冷やかしに対する大地の言葉が雛菊に突き刺さる。
そう言われてもきっと仕方ないと自覚をしながら、それでも虹を探すのをやめない自分に内心雛菊は自嘲した。
戻った所で歓迎されないのに。むしろ嫌な顔をするに決まっている。
雛菊を送り帰したのはシャナなのだから、シャナが喜ぶ筈がないのは分かりきっていた。それでも雛菊がどこに行こうか何を選ぼうかは勝手だと開き直っているのだ。
多少強引に強気になるのはきっと恋する乙女だからなのだろう。
忘れなきゃ。そう言い聞かせていたこの数週間が嘘のように、雛菊は必死だった。僅かな糸口に夢中ですがっていた。
そんな無心で空を見上げる雛菊の横顔を中谷が見つめ、その視線に気付かない妹を大地は剣呑な面持ちで眺めていた。
「……………………あ!」
不意に雛菊が声を上げたので、大地と中谷の視線も空に移る。
虹だ。
そう認識した時には雛菊はもう駆け出していた。
この辺りは坂が多い。自宅と学校の間には昔あった小山を切り崩した高台に住宅がある。こちらからだと、ちょうどその高台に伸びる階段の先に虹が大地にも見えた。
雛菊は階段を駆け上る。途中雨に濡れたコンクリートに足を滑らせるも堪えて手摺りを握って踏ん張る。
階段は長くまた一段一段の間隔も短いので小刻みに駆け上がる。それもじれったくなると数段飛ばしで跳ね上がる。
息も切れ、唾を飲み込む喉と脇腹がキリキリ痛い。それでも虹の下には扉があるのだという期待でとうとう頭が階段の上に行き着いた時、雛菊の足はパタリと止まった。
「…………――あれ?」
荒い息に埋もれて声はくぐもったが、雛菊は誰かに問い掛けるように吐き出した。
「ドアがないよ……?」
虹の麓に現れる筈の始まりの扉は影も形もない。雛菊は辺りを見回すが、やはりそれらしい影は何処にもなかった。
空を見上げた。虹はもうなかった。変わりに空から落ちた雨が頬を打つ。小雨だった空は次第に雨足を強くし、どんどん雛菊を水滴が叩いていった。空は完全に鈍色の雲で覆われていた。
「やだ……やだよ…………シャナァ」
首を降り、空模様を拒絶するように雨粒を振り払うも無駄の行動で、容赦なく体は濡れる。
雛菊は泣いた。帰って来て初めて涙を零した。
わんわんと小さい子供のように声を挙げて泣き喚き、後から追い付いた大地がいつの間にか放り出していた傘を差し出しても雛菊は泣き続けた。
兄が見ていようが、その友人が見ていようが関係ない。
雛菊はすがっていた糸が断たれていたと思い知らされた瞬間、ただただ泣くしか出来なかった。




