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シャナと花のバラッド  作者: 藤和葵
第四章・願い事ひとつ
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08.マイ・ホーム

 

 始まりの場所。

 そう言えば聞こえはいいだろうが、傍から見ればそこは何の変哲もないただの路地。付け足すなら少しだけ傾斜はきついが閑静な住宅街に通った、やはりありふれたただの光景だ。

 異質といえば、ドレス姿の雛菊自身。

 ドレスとしては淡い桃色に控えめなデザインとなってはいるが、ワンピースとしてはやや派手だし、それに型がまた現代風に捉えるとやや古式的である。

 幸い人通りがなかったが、人目があったとて雛菊には関係なかった。

 それよりもただただショックだった。

 帰りたくなかった訳ではない。いつかは元の世界に戻るつもりでいた。それが雛菊の予想よりも早く、またシャナのさいごの行動が行為が混乱させているのだ。


「なんで……」


 呟き、まだ温もりが残っている気がする唇に触れた所で何も分からない。ただぼんやりと立ち尽くした。不思議と涙は零れなかった。

 家へ帰ろう。

 此処にいても仕方がないと、雛菊は踵を返して通い慣れた我が家へと一歩踏み出す。

 そういえば家族はどうしているのだろう。ラキーアにいた時は拉致が空かないのでいつしか考えるのをやめていたが、戻って来た今、家族の現在は大事な問題だった。

 事情を知る兄の大地が両親に話して大事になっていなければいいと思うが、あくまで楽観的希望だ。

 直面した現実に雛菊は足を止める。

 何と言って家の扉を開けようか。

 いやに緊張する気持を抱え、雛菊は次に進まない自分のラキーアに染まった爪先を見た。


「ヒナッ⁉︎」


 不意に聞こえた懐かしい声に雛菊はぴくりと肩を震わせて、顔を上げる。飛び込んで来たのは道に飛び出して坂の上の自分を見上げる兄の姿。


「お兄……」

「ヒナ、なんだよその格好! もしかしてもう戻って来たのか⁉︎」


 続いて大地の後ろから顔を覗かせたのは、急かされでもしたのか、つっ掛けままの母だった。


「あらヒナ、可愛いドレスじゃない。お兄ちゃんがヒナが異世界に行ったとか騒いでたけど、もう冒険は終わったの?」

「お母さん……」


 のんびりとした母の口調が懐かしい。そして察するに雛菊がラキーアに旅立ってから今に至るまで、己の世界では恐らく数分程しか経過していないのが分かる。

 束の間の不在時間に雛菊は少しほっとして胸を撫で下ろした。

 変わらない世界。変わらない家族。

 記憶のままの元の世界に、雛菊は本当の意味で帰って来たのだと実感した。



 雛菊にとって、数ヶ月ぶりの我が家、自室なのに、本人の気持に反してそこは人の気配を残すくらいそのままだった。

 実質、現実時間は雛菊が部屋を空けたのは一時間もない。当然とは言えば当然だ。

 起き抜けに捲れたままの掛け布団。春用に新調したモダンピンクの布団カバーが部屋を彩る。足下は素足に馴染むアイボリーカラーのもこもことしたコットンのラグ。その上に半身を沈めるように文庫本が落ちていた。


「図書室の本なのに……」


 それを慌てて拾い、ベッドの対の壁際にある学習机に文庫本を置いた。就寝前に読んだ記憶があるのだが、恐らく朝の支度のどさくさに床に落ちたのだろうと推測する。

 他にも、机に散らばる宿題の痕跡と見える消しゴムのカスとか、コンセントに繋いだままのケータイの充電器。壁にはお気に入りの子犬のカレンダー、ご丁寧にシャナの名前を初めて知った日に丸印が付いている。カラーボックスの上には高校進学祝いで買って貰ったノート型モバイルもまだ埃は被ってはいないし、その傍には返却期限前のレンタルDVD、今月号のファッション誌にお気に入りのレシピをスクラップしたファイルが重なっていた。

 確かに此処は雛菊が作り出した空間で、ついさっきまで人がいた形跡が、温もりがある。それなのに幽霊船マリー・セレスト号にでも遭遇したような奇妙な感覚を覚えるのは何故だろう。


「ヒナ」


 懐かしい光景に惚けていると、突然の背後からのノック音に雛菊は我に帰る。兄の大地だ。


「着替えたら降りて来いって、母さんが。俺も色々聞きたいし」


 今更学校に行く気にはならないのだろう。

 一緒に帰宅した大地も同席する気の言葉に雛菊はやや遅れて返事をした。

 何を聞かれるのだろう。何を話せばいいのだろう。

 塞ぐように考えながら雛菊は背中のファスナーを下ろす。最初は窮屈に思えたドレスも今では慣れたもので、するりと袖を肩から下げて雛菊は手を止めた。右肩の傷跡が目に入ったからだ。

 さすがにこれにまつわる話は避けた方がいいだろう。

 大事ないとは言え、ラキーアが危険な場所とは思われたくなかった。そう思われるのは堪らなく嫌だった。

 確かにラキーアはおとぎ話のような世界ではない。戦の影はあるし、野犬は出るし盗賊も出没するから夜には街や村は門を閉じる。夢の国ではないのだ。あくまで人間が息衝く世界なのだ。

 それなら楽しかった事を話せばいいんだ。

 着替え終わる頃にそう結論づいてから、雛菊はふと苦笑した。

 何気なさ過ぎて意識していなかったが、まるで故郷のようにラキーアの事を好いている自分が酷く滑稽に見えたのだ。

 着替えて階下に行くと、リビングでは既に母の瑞子みずこが自家製のブレンドのハーブティーを淹れて待っていた。雛菊は自分用のクッションが敷かれた座椅子に腰掛け、猫足の座卓を挟んで瑞子と向かい合う。すると、お茶に加えて朝食の残りで作ったロールパンのサンドも出て来た。


「普通なら朝ご飯の後なんだけど、ヒナは違うのよね?」


 それとも食事の後だったかしらと、微笑む瑞子に雛菊は首を振る。


「夕食を結構前にとったきりだよ。でも今はいいかな」

「――それより、向こうはどんな感じだったんだよ。ゲームみたいに魔物がいるのか? 魔法は? 王様とかに会った⁉︎」


 二人の間に割るようにどかっと胡座をかいた大地が、すかさず横からロールパンサンドをさらってうずうずしていた口を挟んだ。その様子を瑞子はたしめるように視線で刺して黙らせる。彼女は大地の欠席には納得はしていないらしい。


「ヒナ、ズル休みするお兄ちゃんは無視して、話したい事からでいいのよ」


 瑞子は雛菊が気落ちしている事に気付いているのだろう。そんな時、彼女はいつも相手のペースに合わせて待ってくれる。

 雛菊はそんな母の気遣いが嬉しくて、胸の内にあった不安が幾分か和らいだ気がした。

 話したい事はいっぱいあるのだ。いつだって何かある毎に家族への土産話を心に溜めていた。ずっと話したくて、教えたくてたまらなかったのだ。

 そこがどんなに素敵な世界だったかを。


「まずね、そこの世界はラキーアって言うの」


 突然の帰郷ではあった。

 あまりにも中途半端な幕切れで、残念でならない。それでもそことは別に宝箱に詰めた思い出の輝きは失せはしない。

 雛菊は思い出せるだけ、ラキーアでの生活を話し始めた。

 精霊の事。精霊の加護を使って作られた便利グッズに家事を助けられた事とか、白い大きな鳥の背に乗って引越しをした事や井戸に落ちてしまった話。楽しい思い出は沢山あった。

 ある程度話し終えると、雛菊は体の力を抜くように大きく息を吐き出す。

 瑞子は雛菊の話に楽しそうに相槌を打った。


「ヒナはいい体験をしたのね。お母さん直伝の家事能力は役に立ったみたいだし仕込み甲斐があったってものね」


 雛菊が頷くと、瑞子は満面の笑みで応えてお茶のお代わりを注ぎに立った。

 雛菊は冷めたお茶を飲み干して、深々と座椅子に座り直す。そこでふと視線に気付いた。大地だ。


「お兄?」


 雛菊は怪訝そうに兄を窺う。

 思えば大地は初めこそ興味深々な顔で話を聞いていたが、途中からは何処か反応も薄くお茶ばかりを飲んでいた。


「どうかした?」


 伝わる不機嫌な空気に雛菊も戸惑う。大地は飲み物、お菓子も空の状態に口を塞ぐ物がなくなったからか、仕方ないと足を組み直した。


「ラキーアは楽しかったんだってな」

「うん」

「念願のシャナに会えたんだよな」

「そうだよ」

「王子にも会えた」

「そうだね」

「それでお前はセラフィムって凄い存在だったんだ」

「活躍はまだ出来てないけどさ」

「――まだ、か」

「わ、私、お母さん手伝って来る」


 意味深にぼやいて難しい顔になる大地に、雛菊は居心地の悪さを感じて逃げるように立ち上がる。しかし、大地も簡単に逃がしてくれはしない。


「ヒナ、お前はもうこっちの世界に帰って来てるんだからな」


 それは聞きたくない言葉だった。


「……知ってるよ」


 今更言われないでも、理解してる。

 それでも大地の言葉はまるで雛菊に釘を刺すようで、まるでガツンと鉄鎚を落とされた気がした。

 

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