07.彼の選んだ結論
高鳴る胸の鼓動を抑えながら雛菊は息を顰め、耳を澄ませていた。待ち人が現れる音を聞き漏らさない為だ。
「シャナ、遅いねぇ」
膝に乗せたルビに相槌を求めるが、当のルビは円らな瞳を向けて首を傾けるだけ。
雛菊は肩を落とし、サイドテーブルの上に視線を移す。
氷を詰めた大きめの器に、皿ごと冷やされたプリン。
シャナの為に数時間前に作ったプリンである。これを差入れという口実で、シャナと膝を交えて話すきっかけにしようという雛菊の下心と真心の籠ったシャナの好物だ。
けれど肝心のシャナはまだ部屋には戻っていない為、雛菊は気を揉んでシャナの帰りを待っていた。
「まさか、あのまま出て行っちゃったって事はないよね?」
最後のシャナとの会話は、シャナが雛菊をアサドらに任せて王宮を出る話だった。意味なくふざけるシャナではない。あれが冗談だとは雛菊も思えず、不安になる。
シャナがいなくなる。
それだけで心が痛んだ。
小さい頃からシャナの姿を夢で見続け、ずっとシャナに会う事ばかり願っていた。
念願叶い、ラキーアに来てからも雛菊の傍にはずっとシャナがいた。
雛菊にとってシャナは時に弟で兄で友達で、言葉にはならない人だった。
それが‘好き’という感情が伴う相手と自覚した矢先ではあんまりだ。
「嘘つき……」
泥だらけの中、守ると言った約束を簡単になかった事にされ、雛菊は怒っていた。
不満を吐き出し、雛菊はルビを抱えてベッド目掛けて上半身を仰向けに倒れる。そのまま目を閉じると、色んな思いが頭の中をぐるぐると回る。
セラフィムとしての役割もその一つだ。
力の使い方が分かった今は、きっと以前よりもセラフィムとして求められるだろう。
空を飛び、傷を癒して命を救う。
与えられた力に、次は何を求められるのかを深く考えるのが雛菊は怖かった。自分の為に誰かが争うのも嫌だった。
「私が出来る事、何か、ないかな」
シャナを待つ為、眠ってはいけないのに雛菊はうとうとと思考が閉じて行くのを感じた。膝で抱えていたルビが脇の下に収まるのが温もりで分かる。その心地良さに、雛菊は重い瞼を開く力も出なかった。
見上げればむせ返りそうなくらいの緑の天井。
空を覆う程に枝を広げた大樹がその空間を包むように佇んでいた。枝の隙間から漏れる陽光は柔らかく、光が渦を描きながら足下を照らす。
芝は柔らかく、草のほんのりとした湿り気が丁度良いので、此処に来る時は決まって履物は脱いでいた。一歩歩く度、草が腰を折って足の裏をくすぐる。しなやかな草がまるでばねのように次の一歩を押し出し、弾むように歩みを進めた。
向かう先は決まって大樹の裏手。そこには小さな泉があり、彼は大抵その泉の真上に飛び出た大樹の根のアーチに座していた。
光の加減で淡く緑にも見える不思議な長い黒い髪を風にそよがせ、真上から水面を眺める少年。
そこに特別何かがある訳ではない。少年はよく、飽きもせずに日がな一日水面を見るのが習慣になっているのだ。
「シャナ!」
少し離れた場所で手を振り上げ声をかけると、少年はこちらに振り返り、暁にも似た瞳を緩ませて柔らかく笑った。
「やあ、キク」
「ああ、起きたのかい、ヒナギク」
ぱちりと目を開けると、すぐ傍らにはシャナがサイドテーブルから引っ張って来た椅子に腰掛けてこちらを見下ろしてる姿が飛び込んだ。
「……夢だったのか」
「何が」
むくりと体を起こし、乱れた髪を手櫛で直しながら雛菊がぼやくと、シャナはツンとした無愛想顔で見る。
「覚えてないんだけど、シャナが優しかった気がするの」
「変な夢だね。僕が優しかった時なんてないのに」
「そんな事ないよ」
言って雛菊は夢の内容を思い出そうとするが、どうにも靄がかって引き出せずに唸る。暫しして、はたと気付いたように目を丸くした。
「どうしてシャナがいるの?」
「ノックはした。返事がないから入って来たんだ」
「プリンも勝手に食べてるし」
「僕のかと思ったんだ」
空になった皿に咥えていた銀の匙をかちゃりと放り、シャナは悪びれもなく椅子に立てた膝に頬をついて唇を尖らせる。
「久しぶりだから物足りなかった」
「お城に来てから作ってないもんね」
頷いて雛菊はこっそり顔に不都合な後が残っていないかを気にしながら、シャナを窺う。
気持を自覚したからか、シャナをまともに見る事も気恥ずかしい。その上、月明りに照らされたシャナがじっと見つめている気がして雛菊は居住まいを正さずにはいられない。
さて、何から切り出せばいいのだろう。
いざ面と向かうとシャナに話したかった内容を忘れ、雛菊は落ち着かずに頬に触れる髪を撫でる。
言いたい事は沢山あるのに、言葉が声にならない。
(そういえば此処に来てからはシャナとゆっくり話すのって久しぶりかも)
思い起こせば王都でシャナと話す度に喧嘩になったり、誰かが介入したりで中身のある会話をしたという印象はなかった。
「……ねぇ、誰にも邪魔されずに話せる場所はないのかな」
今度こそしっかり話せる機会を逃さぬように、そう考えた雛菊の提案に、シャナは少しだけ考えて短く頷いた。
「す、ごーい」
単純に明快な感嘆の声を上げ、雛菊は手摺に身を乗り出して高殿からの景色を見下ろす。
今宵は月が大きく明るいので星明かりは僅かだが、十分美しい夜景と言えた。現に、闇に溶ける海のさざめきと、彼方に見える灯台の火と汽笛の音は、日本での雛菊の日常ではなかなか味わえないものだ。
誰にも邪魔されない場所と、シャナが案内したにしてはいい場所だと、雛菊は満足気に風を浴びた。
ラス・アラグルで一番高く古いこの尖塔は、古過ぎる故に立ち入りを禁じられ施錠されており、その鍵の行方も不明だと言う。
――不明なのはシャナがそれをかすめていたからなのだと、開錠する姿を見て雛菊は納得したが――
ともかく、確かに二人きりになるには都合のいい場所に思えた。
「なんか、いつか屋根の上で話した日を思い出すね」
「そうだね」
シャナも雛菊の隣りで夜風を浴びて頷いた。やや強い向かい風に目を細めると、不機嫌な顔になる。
「アサドと会った日の夜だった」
「アサド君が急にシャナに飛び掛かって、シャナが私を気絶させて勝手にまとめちゃったんだよね」
「勝手にまとめたのは君だろ。そりゃあアサドを家に招いたのは僕だけど、居候させたのはヒナギクだったじゃないか」
「その方がいいと思ったんだよ。アサド君がシャナを逃がす気じゃないのも分かったから……」
そこで言葉を切ると、雛菊は一息ついてその場にしゃがみ込んだ。そのまま鉄柵の間に足を通すと、宙に投げ出した足をぶらぶらと揺らす。なんとなく感じる言い辛さを足の振り子で間を埋めるが、シャナから促す事もないので諦めた。
「――あの時、アサド君のシャナへの怒りが複雑なものだって気付いてた。それって、シャナが必死で助けようとした結果だって分かってたからなんだね」
「素直に憎めばもっと楽だったろうに、あいつはお人好しだから」
空笑いするシャナの声を耳に、雛菊は足を揺らしながら黙って途切れるのを待つ。暫くすると、シャナは手摺を背もたれに雛菊とは真逆を向いて尻を着けた。それを横目で雛菊が眺めていたら、ふとシャナと目が合う。
「情けないよね」
吹き出す顔は自嘲。
「僕はアサドの死を認めるのが怖かったんだ。勝手だよね。戦争だから仕方ないと他人は殺してさ、自分は喪うのが嫌だとか。そしたらあの様だ。あいつは僕の所為で人らしい生き方を無くしてしまった……」
シャナはそれきり唇を噛み締めて口を閉ざしてしまった。まるで涙を堪えるような姿は、昼間、異形へと変わる己を嘆いたアサドと被った。
目覚めたら無数の屍に立つ自分が嫌だと、人の味を知らぬ間に覚えた自分が嫌だと弱々しく零した時も泣くのを堪えているようだった。
(正反対に見えて、意外と似てるんだよね、二人共)
二つ重なる影が痛々しく、雛菊は気付いたら二人分を包むようにシャナを抱き締めていた。
「ヒナギク?」
驚いて跳ねたようなシャナの声に雛菊も自分の行動に目を丸くしたが後には引けず、背中に回した手であやすようにそこを優しく叩く。
「私だって、同じ状況ならシャナと同じ道を選んでるよ」
「……でも君の力はアサドをああはしない」
小さく絞り出すような声だった。シャナは額を雛菊の肩にもたせて、独り言のように続ける。
「アサドから聞いてるんだろ? 僕は異形と化したアサドから逃げたんだ。戦場から。あの状況も、味方の遺体もそのままに……」
その時の情景が焼き付いてでもいるのか、シャナの声が僅かに震えて聞こえた。
「その後、僕はアサドとその他の兵の死の咎に掛けられて手配の身になったんだけど、ホント、最低だよね」
「それについては事情を全て話して許されたんでしょ?」
雛菊は宥めるように頭を撫でてアサドとの会話を思い出す。同じ話を昼間、彼から聞いたばかりだった。何故、どんな事情でシャナがアサドに何をしたのか。
シャナの気持を痛い程理解しているアサド。それでも呪われた肉体の全てを許す事が出来ず、また逃げたシャナをやるせない思いで追ったのか。
「……アサド君ね、この十年、シャナを追って気付いた事があるんだって」
枕元でおとぎ話を読むように優しく語りかけると、シャナが顔を上げる。それを見やると雛菊はにこりと笑い、再びシャナの頭を撫でた。寝癖がいつも少し残る柔らかい髪をほぐすように。
「シャナの足跡はね、全て解呪について何かしら伝承がある所だったんだって。知ってるよ、シャナも頑張ってたって知ってるんだよ」
「そ、それはせめての償いのつもりで……」
吃るシャナに雛菊は吹き出して、一層笑みを増した。
「セラフィムを喚んだのも、アサド君の為でしょ? なら、何を悔やむの。私がいるのに」
胸を張って言うと自信が湧いたみたいに雛菊は更に力強く頷いた。
「そうだよ。私がいるじゃない。まず、アサド君を助ける。そして戦争を止めるの。おかしいね。さっきまで難しく考えて怖くなってたのが嘘みたい。今ならなんだって出来る気がするよ」
興奮して早口で捲し立て、雛菊は立ち上がる。
あれ程悩んでいた問題がまるで雨が上がったように清々しい気分だった。
「もっと私を頼ってよ、シャナ。私はセラフィムなんだから」
自分では名案だと思っていた。雛菊が自分に出来る力を駆使すれば、シャナの顔は明るくなるのだと期待をしていた。
なのに、シャナは一層沈んだ顔色を見せる。
「シャナ……?」
予想とは違う反応に雛菊は訝しみ、腰を屈めてシャナと向き合う。赤い瞳は未だ暗い色を湛えていて、雛菊と目が合えばシャナは気まずそうに逸らした。
「シャナ、どうしたの?」
あまりに思い詰めた様子のシャナを見て、雛菊は不安に掻き立てられる。
何故だか嫌な予感が湧き上がり、逸らすシャナの顔を引き戻そうと手を伸ばすと振り払われた。明らかな拒絶だ。
「シャナ……?」
振り払われた右手をそのまま宙に止め、雛菊はぽかんとシャナを見下ろす。
シャナはばつが悪そうにふいと背中を向けると、小さい背中にぴりっとした空気が張られる。声をかけるのも躊躇われるが、そのまま放って置くとシャナが更に遠くへ行きそうな気がして、雛菊は振り払われた手で尚もシャナの手首を掴んだ。離すまいとがっちり握り締めると、シャナの息を吐く声が聞こえる。
「……だから、困るんだよ」
渋々と振り返ったシャナは、眉間に皺を寄せて雛菊を睨む。
「君は自分の立場を分かっていないんだ」
「立場って何。セラフィムの立場って事?」
シャナの厳しい言い方に雛菊はむっとして語調を強めると、シャナはますます眉間の皺を深くした。
「分かってるじゃないか」
呆れたように腰に手を当てると、シャナは尚も捲し立てる。
「いいかい、君はセラフィムだ。しかも力の使い方を覚えてしまった。今の君は、叶えようと思えば世界を潰す事も可能だ。そんな君が軽々しく願いを叶えるとか言うべきじゃないんだよ。迂闊過ぎる」
「軽々しく言ってないよ。シャナの願いを叶えるって、シャナを助けるってずっと昔から決めてたんだから!」
「決めてたって……それは理屈じゃ……まったく」
きっぱりと強く断言した雛菊にシャナはたじろいで反論にも切れが出ない。それに乗じて雛菊は身をシャナへと乗り出す。
「あのね、シャナ。私は小さい頃からシャナの夢を見てたの。セラフィムを喚び出そうとするシャナの夢。その時から決めてたんだよ。シャナを助けたいって――」
「助けるって何からだよ」
「知らないよ。でも、私にはシャナが助けを求めてるように見えたの。シャナの心を軽くしたいって思ったの。それに、シャナの願いは悪い事じゃないでしょ。駄目な理由はないじゃない!」
「それでも僕は君の力を必要とは思わないんだよっ」
思わぬ一喝に雛菊は肩をびくりと震わせ、唇を真一に結ぶ。今度は雛菊が涙を堪える番だった。
その様子にシャナは後悔の色を見せたが、これと言って謝る訳でもない。苛立たしげに頭を掻き毟り、大声で脅されても離しはしなかった雛菊の手を黙って見やる。
頑なに離そうとはしない雛菊の手。シャナはその指の一本一本を解いて拘束を外した。
「……アサドの体は僕がどうにかする。あいつを待たせてしまうけど、それは悪いと思うけど、君の力で元通りというのは違う気がするんだ」
「……だから戻す方法を探す為に城を出るって言ったの?」
「私との約束を破ってまで」責めるように付け加えて、雛菊は恨みがましく唇を噛んだ。その様子をシャナは薄く息を吐き出して肩を竦めて少しだけ唸る。
「それも一つかな。でも主な理由は、君に僕はもう必要ないから」
「そんな事ない」
「あるよ。君の事ならアサドが全力で守ってくれる。それにほら、僕は無罪放免でも前科があるから大臣らの覚えが悪い。――だからってシャルーンの姿でも誤魔化せないし」
女装の屈辱的な己を思い出したか、最後の一言はやけに低く小さい声だった。確かにあの姿ではずっと傍にいられるのは複雑な雛菊もこっそり同意する。
「やっぱりどうしても出て行くの?」
「すぐにって訳じゃない。セイリオスの動向も気になるし、まだ少し様子は伺うつもりさ」
「その時は私もついて行っちゃ駄目?」
「それじゃ意味がないの、分かってる?」
雛菊の提案にシャナは脱力したように首を傾げた。駄々を捏ねる子供を見る目は雛菊を苛立たせる。
「どうして駄目なの。どうして傍にいちゃいけないの」
問い詰める雛菊にシャナは重たい息を深々と吐き、苦いものを口にするような渋面で答えた。
「だって、アサドから君を引き離せないじゃないか」
その答えは雛菊の怒りに火を着けるには十分な一言だった。
「“それ”はシャナが決める事じゃないでしょっ!」
雛菊は喉がはち切れんばかりに叫ぶ。拍子に涙が滲んだが、怒りが零す事を許さずにぐっと堪える。
「私の居場所を決めるのは私なの! シャナは私やアサド君の、人の気持を勝手に決め過ぎだよ!」
「でもアサドは君の事が――」
「私はシャナが好きなの!」
言い返す勢いで口にしたあと、雛菊ははっと息を飲んだ。シャナも同様に目を丸くして雛菊の言葉に耳を疑っているようだ。
勢いで口にした告白に今更ながら雛菊は顔が赤くなるのが分かり、急にシャナへと目をやる事が出来なくなる。
否定するにはあまりにもはっきりと言ってしまった言葉に、どう対処していいかは雛菊の経験値ではまだ足りなかった。
沈黙が二人の間に流れる。気まずい空気。雛菊はその空気に耐えられず、ちらちらとシャナから何か言い出すのを待つ。そして期待に応えるかのようにシャナの吐き切るような呼吸がそれを破った。
「……今なら言葉のあやで済ませるけど?」
「……なにそれ」
予想もしない切り返しに雛菊は目をつり上げる。しかしシャナはこちらを見向きもしようとしないのが余計に雛菊の癇に障った。
「私はシャナが好きだよ! アサド君とは違う、シャナが一番特別なの! 何でシャナなのか今は腹が立つけど、この気持は冗談じゃないんだからねっ」
怒鳴りつけるように吐き出す言葉はおおよそ告白には聞こえない。どうしてこんな形で大切な想いを吐き出すのか情けなくて、自然と雛菊の頬が濡れた。
「――好きなんだから」
もう一度、声を顰めて囁く。だがそれに対する淡く期待した音沙汰はなく、空しく吹く風が雛菊の熱い頬を冷やした。
「……泣かないでよ」
「誰の、所為だと……」
涙声で言い返そうとつっかえながら雛菊は懸命に睨むが、思わぬタイミングでシャナが頭を撫でるものだから更に涙腺が緩んだ。
「ずるい」
恨みがましく絞り出した雛菊の言葉に、シャナは小さく吹き出す。どういう意味かと雛菊が涙を拭うと、シャナまでも泣き出すような悲嘆の色を帯びていた。
「……シャナ?」
「――セラフィムは、人の願いを良心で計る為、人の腹を介して人の形で生まれると言う」
突然の口上に雛菊はぽかんとシャナを見つめた。シャナはその視線を受け止め尚且つ続ける。
「けれど人の心を持った花は、人と同じく惑い易い。そんなセラフィムの心を一つに止めておけるのは、セラフィムのマスターだけだとされている。この場合、セラフィムは君、マスターは僕だ」
分かる?
小さい子供に噛んで含んで教えるように言葉を切りながらとうとうと語った。
雛菊はまるで夢物語でも聞くようにぼんやりと、穏やかな口調の少年の声に耳を傾けた。
シャナの話はまだ続く。
「花とはいえ、性質は人。人の心が好いた人になびくように、花もまたただ一人の人だけに付き従うようになっている。どこまでが伝説通りか分からないけど、ただ、あらゆる願いを叶えるというセラフィムの心をマスター一人が手に出来るのは理にかなってるように思えるよね」
問い掛ける口振りに雛菊は首を傾げた。シャナが何を言いたいのか分からなかった。何を言いたいか知りたいとも思わなかった。それなのにシャナは聞きもしないのに事も無げにあげつらう。
「つまりさ、君が僕に惹かれるのって結局はそういう事なんだよ。君がセラフィムだから。僕がマスターだから」
「――それは、私がシャナに喚ばれたから、私はシャナを好きになったって言うの? 最初からそうなるのも決まって……? そんなの嘘だよ」
「でも、君、僕の願いを叶えたくて仕方ないんだろ。それはセラフィムとして縛られてるんじゃないのかい?」
「違う! 私の意志だよ! セラフィムのじゃないっ」
人に対してこんなに怒鳴った事はないんじゃないかと思う声を張り上げ、雛菊は悔しくて、同時に悲しくて唇を噛む。想いが伝わらない以上にまともに取り合ってくれない事が辛かった。
「どうしたら信じてくれるの?」
半ば疲れたように力なく零した問いに、月明りに照らされたシャナの目は冷ややかに細くなる。
「それで僕が君の気持を信じたらどうなの。信じた所で応えるとは限らないだろう?」
「それは……そうだけど」
夜を照らす月の独特な光からか、シャナの輪郭がやたら滑らかに青白く無機質に浮かび上がる。それなのに真紅の双眸は血のように映え、雛菊は背筋が泡立つのを感じた。
冷たい色。シャナはいつだって物静かで、明るいとはお世辞でも言えない性格ではあるけど、こんなに冷えた目をする事はなかった。逆にそれが拒絶を如実にしているのかと考えると、雛菊もこれ以上の反論はし辛くなる。
それでもこれ以上は泣くまいと目頭に力を込め、滲みそうな涙を押さえる努力をした。好かれなくとも、泣いてばかりばかりなのはみっともなく残念だと思ったからだ。
もう雛菊の中で、この恋は叶わぬものなのだと分かったから、情けない印象だけを残したくはなかった。
「我が儘言って、ごめんね。私、もう部屋に戻るよ」
これ以上は此処にいても仕方ないので、雛菊は塔内部の螺旋階段へと続く扉ののぶに手を掛ける。
「ヒナギク」
名前を呼ばれるとは思わなかった雛菊ははたと塞ぎがちになっていた視線を上げ、振り返り問いかけるようにシャナを見た。
「君はこれからどうするの。帰りたくはないの?」
「――それをシャナが聞くわけ? すぐに帰る方法でもあるの⁉︎ ないでしょ!? シャナはいなくなるんだし、私でどうにかするしかないじゃないっ」
怒るつもりではない。あのまま物分かりよくすませたかったのに、引き止めた上でのシャナの質問に雛菊はつい棘を含ませて早口で捲し立てる。
「どうにかって、アサドを頼るのかい?」
「今の私に他に頼れる人はいないもん……。心苦しいけどそうなるでしょ。でもその分セラフィムの役割は果たすよ。私にはそれしか出来ないもん」
「君はセラフィムとして崇められる気?」
「そんなつもりはないよ! でも、この世界で私にどうしろって言うの⁉︎ 私にはセラフィムとしての価値しかないじゃないっ」
まるで責めるようなシャナの口調に雛菊はあらん限りに喚いた。今夜は泣いたり腹が立ったりとで気分が悪い。
こんなつもりじゃないのに。
何度も心の中で叫びながら雛菊は堪ったものを吐き出さずにはいられなかった。
「私が全く不安なくやって来たとでも思ってるの⁉︎ 不安だらけだったよ! シャナに会うのが私の夢だったとしても、いきなり間違いだとか言われたり、言葉は通じても文字が分からないし、通貨も生活文化も分からなくて心配ばっかりだったもん! だけど自分で選んだ道だから頑張って来たよ! シャナやアサド君が支えてくれたから頑張って来れた。セラフィムだってあとで分かっても、シィリー君に攫われてもアサド君が変身しても、それでも私なりに考えてやって来たんだよ!」
口に落ちた塩味で、またとめどなく涙が溢れているのだと雛菊は知る。
せっかくの我慢も台無しだと自嘲しながら、それでもせめて荒げる呼吸だけでも沈めようと虚勢を張った。
「……そうだよ。私、頑張れたもん。まだ出来るよ。シャナがいなくても、大丈夫」
半分暗示のように呟き、雛菊はシャナを見据える。
「帰り方は自分で探す。シャナはシャナで自分の道を探してよ。それじゃあね、さような――」
言い終わる前に雛菊は息を飲んだ。瞬く間に変わったのか、大人の姿のシャナの胸にすっぽり収まる形で抱き竦められていたからだ。
「シャナ……やだ、離してよ。馬鹿」
「黙って」
吃り、咄嗟にもがく雛菊をものともせず、自分の腕の中に捕らえて離さないシャナはそのまま耳元でぽつりと囁いた。
「……君がセラフィムでなければと、何度思っただろう」
答えを求めようとはしない独白に、雛菊は黙る。単にあまりの動揺に言葉すら出ないのだが、心臓だけが喧しく主張しているように思えた。
シャナはより強く抱き締めるように雛菊の頭を抱えると、己の胸に押しつけるように力を込める。
「……い、た」
窮屈さと息苦しさに雛菊がもがいてもシャナの拘束は解かれない。固く結ぶ腕はあまりに乱暴だ。それでもこの期に及んでもシャナの勝手さを本気で嫌いになれないのが雛菊は不思議に思えた。
「どうかしたの?」
押さえ付けられていた懐から抜け出すように身をよじり、雛菊はシャナを見上げる。
まだ見慣れない大人の姿のシャナと交わす視線にぎこちなさを覚えつつ、それでも今は目を逸らさずに向かい合う。
「僕の願い、一つ、叶えてくれないかい?」
唐突な申し出に雛菊は内容を理解するのに瞬きを三度繰り返した。ようやく咀嚼し終えて小さく頷くと、シャナはさも今にも泣き出すみたいに微笑んだので雛菊は胸が苦しくなる。
好きだと思えるこの気持が偽りとは到底信じられないほどの痛みだ。
「聞かせて?」
促すと、シャナはまるで歪んでしまっている顔を隠すように抱擁をきつく締め直し、頭上から囁きかけた。
「普通の娘と同じように、幸せに生きて欲しい」
別れと分かる言葉に胸が締め付けられても、雛菊は小さく頷く。
「僕の事、忘れないでいて……」
それじゃ二つでしょ。
続いたお願いに、雛菊は笑って茶化そうとしたら、唇を塞がれてしまった。
シャナから唇を重ねて来たのだと自覚して同時に、甘い何かが口に含まれた。
薬のようなとろりとした液体はするりと雛菊の喉を通る。
「元気で……」
唇が離れる瞬間、おかしな事にシャナの声が遥か遠くから聞こえるのを雛菊はぼんやりと耳にした。
* * * * *
意識が遠のいた。そんな感じだった。
まるで自分が立つ足下からぐにゃりと曲がり、歪みに飲み込まれたような奇妙な空気に襲われ、また地に足をつけた感覚。
しっかり立っていたという事で気を失っていたのではないと分かるのだが、雛菊は目に飛び込んだ光景に驚愕した。
「――――え……?」
アスファルトで固められた灰色の地面。
道の両脇を挟む民家の塀の連なり。
見上げた空は薄く水で溶かした青が引き伸ばされた雨上がりの色。
所々に空にたゆんだ線を引くのは電線。
雛菊は十六年間見て来た景色を眼前にぼんやりと佇んでいた。
始まりの坂道のてっぺんで。
さながら一炊の夢かのように見慣れた世界が雛菊を包む。ただ、身に着けた異世界の衣装、唇への感触、口内に残る甘い味までが夢とは片付けさせない。
「帰って来たんだ……」
帰らされた。
そうとも言える突然の帰郷に、雛菊はただ暫し立ち尽くすだけだった。




