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シャナと花のバラッド  作者: 藤和葵
第四章・願い事ひとつ
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06.愚かしく可哀想な子

 

 戦火も下火になった焼け野原でシャナは立ち尽くす。

 無数の呻き声を耳に、肺を冒すような黒い煙と、錆びた鉄の匂い。

 始めは吐気を催したこの匂いにも今では何も感じなかった。

 異様に澱んだ空気の中、嗅覚が正常ならいずれは肉体に障りが出たかも知れない。そうならない為の防衛が嗅覚の麻痺なら、目の前の惨状にも心は凍結して痛みを感じなくなるのだろうか。

 否、実際には半分既に凍りかかっていた。足下に転がる人の形をした動かない者を前に、目を瞑っていた。

 可哀相だと感じる暇があれば、次は自分が同じ立場かも知れない。若しくは自分の隣りの人間かも知れない。それならせめて仲間内でこれ以上同じ形で積み上げる事がないよう、目の前の敵を払うのが最善なのだと思っていた。思おうとしていた。

 此処は戦場なのだから死体を気にした所で切りがないからだ。

 そう出来ていたのはそれらが名前も知らない存在だったからとシャナは思い知る。

 今は、とても割り切れそうになかった。


「アサド……?」


 震える声で呼び掛ける。しかし返事はない。


「ふざけるな、起きろよ」


 体を抱き上げ肩を揺すり、頬を叩く。温もりはあるのに微動だにしない。それが余計に不吉でシャナは込み上げる嗚咽を堪える。

 まるで眠りに落ちたようなのに血の気のない顔。嘘みたいに人間味のない色に、飛沫を上げた返り血がやけに鮮やかで薄気味悪い。


「どうして君が……誰か説明を……!」


 周りを見渡し、呆然とする兵達に訴えた。一番近くにいた衛星兵は首を振って知らないと言う。他に正せば周りの兵は泥や血に汚れた顔を付き合わせて浮かない表情。

 考えれば命のやり取りを行う戦場で、誰がどんな状況か細かく気にかける余裕はないのかも知れない。

 シャナ自身でさえ自分の持ち場を治めるまでアサドの元へ駆け寄る事が出来なかったのだ。せめて自分が傍にいればと思っても、過ぎた事は戻せない。


「何が宮廷精霊師だ。どんな力を持っていても僕は大切な友人さえ守れやしない……ついこの間ニタムをなくしたばかりだってのに……」


 不甲斐ない己に苛立ち、自然と握る拳に力が入って爪が肉に食い込んだ。それなのに大した痛みも感じずに、更にシャナは歯を食いしばる。


「ちくしょう……っ」


 振り落とした拳が土をえぐる。


「あの、シャナ様……」


 遠慮がちに呼び掛ける男の声にシャナはきつく視線を浴びせた。が、すぐに思い直し、出来る限り平静さを装う。

 男はまだ若く鈍色の甲冑が血と泥で汚れてくすんで随分くたびれた姿をしていたが、肩口の星を見れば隊長クラスであると分かった。


「何……報告かい?」

「殿下の最期ですが、どうやら私の部下を庇っての相打ちだったようでございます」

「庇って……?」


 眉を顰め、シャナは男の後ろ――衛生班に手当てを受ける少年の姿を見た。

 まだ成人に満たない所か、十代の半ばにも見えるくらい幼い兵だった。


「うちはあんな若い手を借りなければいけない程、兵が足らなかったのか」

「いいえ。あの少年の父が私の部下でしたが、先日戦死を遂げました所――」

「息子が仇討ちに志願した訳か」

「はっ」


 綺麗に直立した敬礼をし、男はアサドの亡骸に目を向けると更に深く頭を下げた。


「我が部下が至らぬばかりに、申し訳ございませんでしたっ」


 下げられる頭を前にシャナは何の意味があるのか理解出来なかった。

 別に彼がアサドを手にかけた訳ではない。彼の部下がアサドを盾にした訳ではない。恐らくアサドが勝手に起こした行動だ。

 将でありながら部下だけに血を流させるのを嫌い、果敢にも戦場に立ったアサドの選択の結果だ。

 シャナの知るアサドなら、人を助けて自分が死ぬ不慮を嘆きはしないだろう。きっとドジ踏んだとぐらい笑った筈だ。

 現に、横たわるアサドの死顔は戦場に似つかわしくない程に安らかだった。まるで寝ているようだからこそ、シャナはその横っ面を叩いて起こしたくなる。

 アサドは自分で決めた事に後悔しない。そんな男だった。

 それでも残される側には辛いだけで、救いもない。

 周りを見れば分かる程に沈んだ空気。対して空はカラリと青く澄んでいて、アサドの顔を綺麗に照らしてやり切れない。

 少なくともシャナには耐えられなかった。

 アサドは親友だったのだ。

 現存するシャナの記憶の中で唯一の親友だった。

 そして恐らく後にも先にもない親友だった。

 アサドとは出会ってまだ数年だが、失うには耐えられない程に大切な存在だった。

 ――だから、シャナの決意は早く堅い。

 たとえ倫理に逆らおうとも、禁忌だとしても、自分にはそれすら跳ね返す力があると信じてもいた。

 シャナは口中で必要な呪を唱え、風と大地に呼び掛ける。同時に組んだ指を複雑に変えていくが、傍目には一連の動きが十秒と満たないので、シャナが何をしようとしているのか気付けなかった。

 気付いたとしても止める者はいなかっただろう。

 たとえシャナが凄腕の精霊師だとしても、死人を前にいくら呪を唱えようと何が出来るものでもないと思っていたのだから。

 まさかこれが反魂の術で、シャナがアサドを冥府から呼び出そうとしていると考えつく者はいない。

 人を生き返らせる。それは夢物語に出てくる願いを叶える花と同様に、有り得ない話だった。

 事実、シャナも本心では藁をもすがる思いでの行動だ。

 精霊の力を扱えばまだ今なら間に合う可能性はある。

 しかし理屈では構築出来ていてもその通りに成功するかは賭けでしかなかった。けれどこのまま手をこまねいてアサドを死なせたままにする気は毛頭ない。

 シャナは仕上げに己の親指の腹を噛み切ると、アサドの胸倉を広げ、鎖骨の窪みに血を塗り付けた。


「カイオト・ハ・カドシュ」


 異変は締めの呪を唱え終わると同時に起きた。

 シャナの血を介して術が光を放つ。そこから伸びたのは血のように赤い光。まるで鎖を象った呪がアサドの体を縛るように刻まれる。

 ――光が静まり、少ししてアサドの指先が僅かに動いた。

 息を吹き替えした。そう喜びと安堵でシャナが肩で息を吐き出した瞬間、激しい衝撃が頭上から振り下ろされる。

 脳天を破る衝撃にシャナは一瞬で地に伏した。

 薄らぐ意識の中で聞いたのは、大勢の断末魔だった。



 * * * * *


「それから、どうなりましたの?」


 ソノラの問いに、シャナはゆっくりと重々しく息を吐き出し、眼前に広がる空を見詰めた。

 今日もあの日と同じ色をした空に、目が痛くなる。海に反射する光が眩しいのだと瞼を閉じると、耳にはまだ苦痛に満ちた叫びが残っている気がした。

 あの日の光景は今でも目に焼き付いている。

 血の海。比喩を通り越した地獄絵図に足が震えた。

 充満する湿った鉄の匂いの元が何かは聞かずとも分かる。

 明らかに気絶する前より増えた血と死体の数。ふと視線を落とせば破れた衣服に星のバッジ。その傍らには目に生気も宿していない隊員の変わり果てた姿があった。

 アサドを惜しみ敬礼をした隊長も、その部下の少年兵も、生き残った筈の他の隊員も衛生班も。誰一人残らずして物言わぬ肉塊となっていた。

 その代わりと言うべきか、その中でアサド一人が佇んでいる。ただ、呆然と、裸に近い状態で血に濡れた姿で。

 それでも生きていた。生き返った。蘇らせる事に成功したのだと、あの惨状の中で僅かにでも喜んだ己をシャナは今でも絞め殺したくなる。

 その直後、アサドに告げられた無情な真実。誰が招いたか答えは明白だった。

 生き返った訳ではない。死の呪いが別の呪いになっただけだ。鼓動もなく、動ける肉体を普通の人は“ヒト”とは呼ばない。

 断片的なアサドの記憶からシャナは自分の呪の真の効果を知るのだ。

 死なぬ身は生への縛で、肉体の機能を優先する為なら化けても手段を選ばぬ強い呪い。

 シャナの所為でアサドは自分の生存を優先する為に、見境のない殺戮をするはめになったのだ。


『何で生き返らせた』


 泣きながら言うアサドの声と目をシャナは忘れられない。

 憎悪の宿った金色の瞳。

 そんなつもりはなかったと、謝れば済む問題でない事は分かっている。けれど、もはやアサドを殺す事も適わないし、出来たとしてもアサドを降したりもしたくなかった。

 焼け付くようなアサドの目、横たわる兵士達の胡乱な目。全てが己を責めてるようで、シャナは逃げ出した。

 何もせず、全てをそのままに逃げ出したのだ。

 その時になって降り出した雨は周りの仲間の血を洗い流してくれた。それで余計に無機質になった胡乱な瞳が今でも自分を責める悪夢となって染み付くのだった。


「――シャナ様」


 先を促すソノラの声にハッとし、シャナは苦々しく唇を歪めた。


「術に失敗し、アサドを化物にした僕は責任を取らずに逃亡。それを重く見た重臣らが僕を手配し今に至る訳さ」


 肩を竦め、シャナは軽く流した。それを不服とするソノラは腰に手をあて、また尋ねる。


「手配の話は存じてます。我が国にも手配書は回りましたもの。シャナ様はその後、アサド殿下を戻す為にセラフィムを求める研究をしながら逃走したという事で宜しいのでしょうか?」

「まあ、きっかけはそうだね」


 妙な言い草に引っ掛かりを覚えたように、ソノラは更に質問を続けた。


「それと一つ、腑に落ちない点がありますの。あの生存者ゼロの中で何故シャナ様だけ生き残ったのでしょう」

「ああ、それなら大した事はないよ」


 シャナは力を抜くように、欄干を背にしゃがみ込んでふわりと右手を空に翳した。

 そうするとその手を中心に無数の、淡い緑の光を纏った物体が集まり始める。流派は異なるが、ソノラにもシャナと同じモノが見えた。

 星の脈に沿って流れる、ヒトの目では滅多に見る事の適わない‘精霊’という存在。

 シャナはその精霊らを指先で思うままに誘導し、踊らせると、力なく微笑った。


「どういう訳か、彼らは僕がどんな傷を負ってもすぐに癒してくれるんだ。何も言わずとも僕だけを助けてくれる。何年も何十年も何百年も、僕を生き長らえさせて来たんだ」


 目を見張るソノラを見上げ、シャナは感情なく虚ろな瞳で呟いた。


「アサドを生き返らせた時、勿論僕は真っ先に殺された。でも、何故かな。僕はそれでも生かされてるんだ。アサドとは違う生き方を何十年、何百年と生かされてるんだ……」


 そこでシャナが手を下ろした瞬間、精霊達は弾けるように消えた。


「僕の過去の記憶は酷く断片的で、自分が何者だとか年齢だとか親や兄弟については全く知らない。何故、僕なのかとか、ね」

「記憶喪失ですの?」


 シャナはソノラに肩を竦めて見せる。


「そう大袈裟にしないでよ。単に長く生きる為に忘れる必要があるってだけ。膨大な記憶を抱えたまま生きるのは大変だろ?」


 事も無げに答えた。


「たまに、生きてる事さえ忘れるよ……」



 * * * * *


 棘を含んだ声。見た目に合わない憂いを帯びた少年を前に、ソノラは存在の希薄さを覚えた。

 初めてシャナを一目見た時から違和感はあった。それはシャナの生そのものが混沌としているからなのだと分かった。

 そして、ソノラにはシャナの特異性に思い当たる節があった。


「シャナ様、ベルカナってご存じですか?」

「ベル……さあ、初耳だ」


 首を傾げるシャナ。


「僕と何か関係があるのかい?」

「……。いいえ、私の思い過ごしですわ」


 言葉とは裏腹に、まだ内に何かを溜めた顔のソノラだったが、シャナは敢えて聞き出そうとはしなかった。

 会話が途切れ、沈黙が漂う。

 その中でソノラはシャナを盗み見た。

 華奢な少年の姿からは測り知れない時間が詰まる肉体。

 話に偽りがないのなら、シャナは既に“ヒト”の枠には入らない存在だ。しかしその胸に抱く感情は、傷付き易く、繊細で、儚い人間そのもの。

 否、長い孤独を味わったであるならそれ以上に心は脆弱だろうとソノラは思う。ただ、それに反比例するように力がある為に道を踏み外しやすい。

 だからこそ友の死に堪えられずに過ちを犯し、新たなる災厄を招いた。その失敗を拭うように召喚したセラフィムもまた、戦火を招こうとしている。

 シャナの軽率な行動は、ソノラには愚かしく見えた。だが同じくらい愛しく思えた。

 だから、細やかながらもその後何が起きても少年を支える気になれた。

 孤独な少年は、これから話すソノラが知る真実を聞けば、必ずセラフィムを手放すだろうと確信出来たから。

 世界に流れる力の番人の役目も持つニヴェルの魔女として、ソノラはまず知る必要があった。

 セラフィムを召喚した主の人となりと、願いを。

 主を理解した上でないと、正しく導けなくなるからだ。

 セラフィムのいない世界へと。

 万物の願いを叶えるという、この世の法則を無視した存在をソノラは認めない。

 いくら可憐な花であろうと、その花は人を惑わす毒花だ。

 花など要らない。

 花は新しい悲劇を招く種。

 大きな悲劇と憐れな悲劇を防ぐ為なら、自身は悪者扱いでもいいと思っていた。

 それが代々世界に流れる力の番人を続けるニヴェルの魔女のソノラの誇りだ。


「シャナ様、あたくしが知るセラフィムの話、聞きたくありません?」


 甘く誘うような申し出に、シャナは無言で耳を傾けた。


 

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