01.夢をみたあと――
子供の泣き声がする。
わんわんと大きな声で泣き喚いている。
最初は声しか聞こえなかった。
次第に視界が明瞭になるが雛菊を取り巻く世界は何故か真っ赤で、夕空の色よりも何処か禍々しい色の中で声だけがはっきりと聞こえる。
この声を聞くだけで切なくなる。そんな泣き声だった。
声だけの赤い世界も目を凝らせば影が見えて来る。
ふたつの影。
よく分からなかったが、一人の影にすがりつくように泣いているのが泣き声の主に見えた。
形だけでよくは見えない。何とか分かるのは一人は雛菊に年近い少女で、泣いている子はどちらか判別がつきにくい幼子だというくらいだ。
そこにいるのにはっきり見えないのがもどかしくて雛菊は目を擦る。次に見えたのは二人の背後に写る大きな影だった。
あれは――木だ。
とても大きな木。
樹齢何千年としてもおかしくないくらい、立派な大樹。
見上げれば天井をも覆う溜息ものの大樹なのに、その木も世界と同じ赤く染まっていた。
葉が色付くのとは違う。
――炎だ。
この世界は炎に包まれていたのだ。
全てを消してなくしてしまう業火がこの世界を染め上げていた。
燃えた枝が次々と落ちる。
炎は広がり、その中心にいる二人も危うい。
それなのに二人は逃げない。
少なくとも少女の方は子供を逃がそうとしているように見える。
この世界が炎に包まれていると意識したからだろうか。雛菊の耳には燃え盛る炎と唸る空気の音まで認識して、二人の声が聞き取り辛い。
一体何をしているのだろう。このままでは炎に飲まれて二人とも死んでしまうのに。
助けに行きたいのに雛菊の体は動かない。
足に根が張ったみたいに一歩も動けなかった。
やきもきして見てると二人のすぐ傍に燃えた枝が落ちた。
何とか二人はその枝を避けたけれど、その枝が二人を遠ざけて炎が空間を割ってしまう。
叫ぶ子供の声。その声は少女を必死に呼んでいるのだと、聞こえなくてもよく分かる。
それに対して少女は落ち着いていた。
地面にゆったりと腰を下ろし、悠然と赤い空を見上げて子供を見た。
そして、表情なんか分からないのに、雛菊には何故かその子がさいごに――……笑った気がした。
唇を優しく緩め、笑った少女が口を開く。
『次の……に、君の……を……って……な……』
まるでノイズが走ったように声が途切れる。
何て言ったの?
どうして貴方は笑っているの?
貴方は……誰?
分からないまま子供の泣き声だけがまた響いて、世界は影を消し去り赤一色になった――。
* * * * *
チカチカと瞼の裏に光が見えた気がした。
ふわふわと雛菊の頭上を淡く光る物体が通り過ぎる。
それが何かは夢現の中では判断がつかない。けれどそれが暖かくて、優しい存在だというのは分かる。
その光に触れたくて、触れたくて手を伸ばす。そして伸ばした先で、その手が更に暖かいもので包まれた所で、雛菊は目を覚ました。
「――気がついたか?」
耳に残る低いのに甘い声。男の人なのに、こんなに艶っぽさを帯びた声があるものだと雛菊は内心いつもひっそりと思っていた。
その声を聞いて、目で確認するより雛菊は口を開く。
「アサド君……」
「おはよう」
アサドは握った雛菊の手を、もう一方の手で更に包み、自分の頬へと引き寄せる。
「気分は? 傷の具合は? 痛むか?」
「ん……大丈夫だよ」
だが体を起こそうとすると上手く力が入らず、雛菊はアサドに背中を支えられてやっと起き上がる。
「無理するな。五日も寝てたんだから」
「五日も……」
予想外の時の経過に驚いて、暫し黙してしまう。
五日も寝た所為か頭が酷くぼんやりして、記憶がやや曖昧なのだ。しかしすぐに思い出してはっとする。
「アサド君、怪我は⁉︎ 胸を刺されてた所っ」
「心配ねーよ。ヒナが治してくれたから」
「私が……」
そういえばあの朝焼けの瞬間に、荒れ狂ったアサドを静めようと無我夢中で何かをした気がする。いまいちはっきりと覚えていないが、きっとアサドを人間に戻す時に傷も治したという事だろうか。
あまりに記憶が霞んでて実感がないが、アサドが怪我をおして無理してる様子もないので胸を撫で下ろす。
「良かった」
雛菊がホッと息を吐くとアサドが吹き出した。
「何がおかしいの」
ムッとして尋ねるとアサドはゴメンと謝るが、反省した様子はない。
「ヒナ、人より自分の心配をすればいいのに」
「だって私は……」
あまり痛みを感じなかったからつい後回しにしていたが、雛菊は改めて自分を見る。
侍女の誰かが替えてくれただろう、白く柔らかい生地のネグリジェを身に纏っている。小さめのパフスリーブの袖が腕にかかり、肩が剥き出しのデザインなのは雛菊の右肩の負傷の為だろう。
思わず目を剥いたのは、傷口をガーゼで塞ぐ程度であとは肩に負担をかけぬよう三角巾で腕を吊っているだけだったからだ。
雛菊に医学知識はないが、我が身で感じた傷がこの程度の処置で済むとは思わなかった。まして五日で治る傷でもない。
「痕、残っちまうかな」
首を傾げていると、アサドが顔を近付け、雛菊の傷をしげしげと眺める。ただ、そこを見つめる瞳の色が翳るのが分かった。
「大した事、ないよ?」
傷を覆う部分を見るだけでも大した大きさでもない。それでも不安そうに見上げたアサドの顔が不意に近かったから、雛菊は咄嗟に顔を反らした。
思い出してしまったのだ。あの日の夜の事を。
セイリオスとの一件やら何やらで遠く離れた日のように感じるが、あの日、アサドから受けた告白を忘れた訳ではない。
ただ、ふとした事でつい意識してしまうと、どんな顔をしたらいいのか分からずに困る。
「ああ、そうか」
顔を背ける雛菊の顔が赤いのを見てアサドも察したようで、すっと離れた。
「……怖がられてる訳ではないんだな」
力のない声は安堵の色。
雛菊は向き直って、いつもより力なく笑うアサドを見つめた。
アサドが何の話をしているのかは聞かなくとも分かる。
「驚いたか?」
それはアサドの異形を言っているのだと分かると、雛菊は小さく頷く。
「……怖くなかった訳じゃないの」
「当然だな」
「でも、全部が怖い訳じゃなくて、あの時が怖かったってだけで……」
上手い言葉が見付からず、雛菊は口を金魚みたいにぱくぱく開けた。
怖くなかったと言えば嘘になる。
今のアサドを怖いとは思わないけれど、獣の姿のアサドが怖くないという事はなかった。
「怖かったよ。いつもと違うアサド君が。周りの人を沢山傷付けて、とても怖かった。でもアサド君が苦しんでるのが分かったから、あとはもう夢中で――……」
言いかけて雛菊は言葉を切る。アサドの頭が雛菊の頭に寄り掛かったからだ。
「アサド、君?」
「ホントに?」
唐突な問い掛けに雛菊は目をしばたたかせる。
「今の俺は怖くない?」
「怖くないよ!」
質問の意味が分かり、力いっぱい答えた。
「怖くないよ。獣のアサド君だって、今は大丈夫だよ。無闇に人を襲わない事を知ってるもの。それに――」
雛菊はアサドの頭を首を反らしてどけ、姿勢を正すとそのまま真っ直ぐと見つめた。
「また同じ事になったら私が助けるから。何度だって私がアサド君を戻すから!」
「ヒナをこんな目に合わせたのは俺なのに?」
「事故だよ。飛び出した私が悪いの」
「傷付けたのはヒナだけじゃなくても?」
「アサド君が好きでやった事ではないでしょう?」
「そりゃそうだ。でもな……」
言い淀み、アサドは唇を噛んで苦々しく笑った。
何かを言いたそうに口を開いては迷い、やはりすっきりとはしない笑みで唇を歪めて雛菊を見つめ返す。
「……悪りぃ。今からちょっと用があんだわ」
しかし結局は言いたい事を言い切る事はなく、するりと雛菊の手を抜けるとアサドはベッド脇の椅子から立ち上がった。
「またゆっくりと見舞いに来るわ。他のにもヒナが起きた事伝えた方がいいし」
「うん。またね」
頷いて左手を振って見送る。アサドもそれに応じて同じように返す。
「ごめんな」
扉を閉めると同時にる残した言葉が雛菊に重たくのし掛かった。
右肩を撫でる。柔らかいガーゼが爪で擦れる。
この傷に後悔はないつもりだ。
それでもこの傷に対してアサドは酷く気に病んでいる。
仕方ないのかも知れないが、雛菊は重く息を零した。
「……上手く行かないなぁ」
部屋に染みた消毒の匂いが、鼻につんと来た。
「アサド様、今お呼びしようと参った所です」
雛菊の部屋を出た所でランフィーと顔を付き合わせた。
「……ヒナギク様のお見舞いでしたか」
アサドと部屋の扉を見比べ、ランフィーが神妙な顔つきになる。
セイリオスとの一件以来、ランフィーは雛菊に対する態度を変えた。以前はセラフィムと名乗る少女に疑心を見せていたが、今では労る気持を表している。救って貰った恩義もあるのだろう。
元来人見知りの気があるランフィーだが、一度相手を認めるとその対象には忠義を尽くす性格だ。代々王家に仕えてきた名家の血なのだろうが、まるで野良犬が懐いたような態度は微笑ましかった。
「ヒナが起きた」
「左様でございますか。それは安心致しました」
胸を撫で下ろすランフィーを横目に、アサドは廊下を歩きだす。それに続きながら少年はふと思った事を口にした。
「……シャナ様はこの事はご存じなのでしょうか」
シャナが雛菊の部屋にいない事を知っていたからの言葉ではあるが、アサドは眉間に皺を刻んで僅かに口ごもる。
「あいつは当に知ってるさ。“今日ぐらい目覚めるだろうから、少し傍にいたらどうだ”って言ったくらいだからな」
「最初に目覚めた時にお傍にいるのが、婚約者のアサド様である方がヒナギク様が安心するからでは?」
アサドが何故不機嫌な顔つきになるのか分からず、思った事を口にするとまた複雑そうに唇を歪める。
「――婚約者か」
「何かおっしゃいましたか」
「いや?」
かぶりを振って、嘯く。
「ところで、審議はどうなってる」
「国王やチェリウフィー将軍が責め立てる気がないだけに、強くは申し立て出来ないようです」
話を変えるようにアサドが尋ねると、ランフィーも本来の目的を思い出して少し早口になった。
「あれの罪も帳消しになるか?」
「恐らくは」
「そうか……」
頷き、アサドはそのまま黙って廊下を突き進む。後に続くランフィーも同じだ。
着いた先は客間のある館とは別館。むしろ城の中心と言える場所。国王の謁見室、政務機関中枢を担う場所。
アサドはある一画の扉の前に立つ。
豪奢な造りばかりの扉の中で、割合簡素な、しかし重苦しい印象を与える黒い扉。
簡素と言えど他と比べてそう見えるだけで、扉の枠は立派な木材だし、表面もなめした皮が張られている。重苦しい印象もこの部屋の目的を考えれば頷けるものだ。
「――失礼します」
扉の前で一呼吸し、アサドはノックをしながら扉を開ける。
扉の外にも伝わった重苦しい空気が吹き抜けた。
窓もなく、狭い部屋だから重苦しく空気が澱むのかも知れない。
だが、理由はそれだけではない。
コの字型に並んだ机。
その席の何処にも物々しい顔が並ぶ。その面々たるや国王を補佐する大臣や各機関の長、或いは貴族会の重鎮ばかり。中にはアサドがよく知る顔のチェリウフィーもいて、一番奥の中心は実の父のレオニスが渋面で鎮座する。
「遅いぞ」
普段とは違う声音で、アサドを迎えるレオニス。
「知るか。勝手にんなくだらねぇもんを開く方が悪りぃんだよ」
重臣達を前に繕う臆面もなく、アサドは彼らの中心に立つ。
そこは裁かれる者が立つ場所。しかもその場所には先客がいる。
後ろ姿でも分かる、黒尽めの少年。襟足を隠す癖のある長い髪、ちらりとアサドを振り返る前髪の隙間から赤い目が覗く。
「――シャナ。馬鹿正直に責められてんじゃねぇよ」
「別に。なるべくしてなったにすぎないよ」
感情のない声音にアサドは息を吐いた。この調子では弁解すらしていないだろうとさえ思う。
人の知らない所で勝手に断罪の場を作り、何の事情も知らないで人を交えて裁こうとする事がアサドは気に食わなかった。
シャナを裁くのは自分自身にあるものだとはアサドは思っている。
それなのにこの場にいる人間、またそれを当然とするシャナも含めて気に入らない。
アサドはシャナの肩を引き、耳元に小さく囁く。
「これで片が付いたら、俺達対等だよな」
「は……?」
訝しむシャナを余所に、アサドは前へずいと出る。
「それではまず、俺の躰についての経緯から話そうか」
声高に口火を切り、金色の瞳はまるで戦場に立つように歯を見せた。




